「もしも……もう一度……」

「ん?なに?」

私の呟きに、彼が私を見つめて首をかしげる。

「……いいよ、もうなにも言わないで。分かったから。芹香は今、佐伯課長が好きなんだろ……。俺がなにを言っても駄目なんだよな」

拓哉が私の頭をポンポンと叩く。
胸が張り裂けそうな切なさが、急激に心を占めていく。

「あの!……待って。違うの……。私、本当は今までずっと……!」

気持ちが溢れる。抑えきれない。
もうこのまま、どうなってもいい。
あなたに、今すぐに触れたい。その体温を、全身で感じたい。

こぼれ落ちた小さな雫が、一瞬にして次々と押し寄せる濁流になったように、拓哉に向かって流れ出す。

このまま彼に近付こうと、ガタッと席を立った私を、拓哉が驚いた顔で見上げた。

「どうした?芹香」

どうしてあのとき、あなたを信じなかったのだろう。
たとえ嘘でも、拓哉の側にいられたのならば。
今もあなたは、私を温めてくれていたのだろうか。
伸ばした手が、あと数センチで彼の服を掴みそうになった瞬間。


ガチャッ。

会議室のドアが開いて私たちはそちらを見た。

「あれっ。打ち合わせか。ここは次の会議で使用予定なんだが。なんなら、空いてる部屋を調べて…」

佐伯さんが顔を出し、息が止まりそうなほどに驚いた。
このタイミングで現れるなんて。

「いや…いいんです。僕らの話はまたにしますから。とりあえず秋田さん。今日はさっき頼んだことを進めてくれる?細かい説明はまたいずれ」

急に上司の顔に戻った拓哉を見て、たった今湧き起こった私の気持ちを、話す前にすべて拒絶されたような気になった。

自分でもどうしたいのか分からない。

これからどうなるのかも。

過去に愛した人と、現在の恋人。
二人からの視線が痛い。

「…分かりました。じゃあ、私はこれで」

その場を逃げ出すように、佐伯さんのいる出口へと向かう。

結局、佐伯さんの方へと近付いていく自分の行動が、そうせざるを得ない、今の私の置かれた状況みたいだと思った。
拓哉に戻るわけにはいかないのだ。
私は、佐伯さんを裏切れない。