それからしばらくは、芹香と顔を合わせることはなかった。彼女はバイトも辞めてしまっていた。

今にして思えば、意図的に避けられていたのだろう。
だが、彼女の部屋を訪れるわけにはいかなかった。

何度か電話したが、ずっと出ない。

不安に思いながらも、じっと耐える。あれから一月ほど過ぎて会社が正式に合併し、『北陵エクスプレス』となり、初めて彼女の部屋を訪れた。もう黒田社長に、婚約は嘘だったと知れても、会社は安泰だ。
ようやく芹香に会える……!
はやる気持ちを抑えながら、彼女の好きなケーキを買い、それを手にしながらチャイムを押した。

「芹香?いないの?俺だよ」

ドアに向かって呼びかけた。
中は静かで、物音もしない。

急に嫌な予感がした。
いや、そんなはずはない。芹香はいる。
俺を待っている。
今にもこのドアを開けて、俺に飛びついてくるはずだ。

『拓哉!会いたかった……!もう……ばかっ!』
そう言って、潤んだ瞳で俺を見上げて、キスをねだるんだ。

「芹香!いるんだろ?芹香。怒ってるのか?」

__「あの〜、お隣さんなら先週引っ越したよ」

隣の部屋のドアが開いて、顔を出した若い男性が俺に言った。

「え……。引っ越した……?」
ケーキの箱がドサッと足元に落ちる。

芹香は……いなくなった。
俺の世界から、その日以来、忽然と姿を消したのだった。


俺は……彼女を、守れたのだろうか。
これでよかったのか。
自問自答の日々の、静かな幕開けだった。