その日の夕方、水上マーケット観光から戻ったアキラに、昼間感じたことについて質問する。
「この映画って、素人作家の書いた小説が映画化されたんですかねえ?」
関西出身だった彼によると、エンドロールに出てくる小説は、後からとって付けた話だと聞かされた。
つまり、無名の作家が書いた小説が映画化されたわけではない。したがって、誰かの夢が叶って、素人が作家デビューを果たしたというわけでもなかったのだった。
それを聞いた辻は、ホッと胸を撫で下ろす。もし、自分の推測通りだったら、すでに自分のアイディアが他の誰かによって実現されているに等しかったからだ。
無意識に地震の前兆を肌で感じてしまったように、しばらく映画からの余韻と高揚感は静まらなかった。
陽が完全に沈み街が明るい闇に覆われ始めた頃、辻は、観光客が多く集まるカオサン通りの一本裏道を歩いていた。
10年前の寂れた感じをどこか残しつつも、観光客に混じり現地の若者が多く訪れ、道の両脇には煌々(こうこう)とした灯(あかり)に群れる人々でどこの店も賑わっている。
歩道には、足の低い椅子とお洒落なローソクを灯(とも)した木製テーブルが置かれただけの即席ビアガーデンが並び、みな楽しそうな会話と笑顔を肴(さかな)に週末のひと時を楽しんでいた。
辻は、その横を通りいつもの屋台へ、腹ごしらえに向かう。
途中、雰囲気のいい若者ウケしそうなバーがある。
平日は、チアビアが色っぽい衣装で退屈そうに客待ちしているが、今晩は、大音量のピップホップを汚水のように無秩序な街に垂(た)れ流し、店内は地元客でごったがえしていた。
今、お金があったら、絶対このバーに寄っているのに!
ビール二杯につまみ三品頼んでも300バーツ(1000円)で、楽しい南国のバカンスを楽しむことができる。
だが、辻の財布にそんな贅沢をしている余裕などなかった。
クソ、あの小説には、10億円の価値があるのにーいっ!と空回りする気持ちをかき集めた平常心で押さえつけ、その店を横目にこぶしを強く握り通り過ぎるしかなかった。