なっちゃんは僕の唇が好きだ。というか唇ならば全て好きだ。
だから、なっちゃんが好きなのは僕の唇であって、決して僕自身が好きだというわけではないことは随分前から知っていた。
そもそも僕となっちゃんは、唇がきっかけで出会ったようなものだった。きっとなっちゃんは覚えてないと思うけれど。
大学に入ったばかりの四月。周りが新しい出会いに浮き足立っている中で、僕は酷い花粉症に悩まされていた。スギ花粉などメジャーな花粉症のピークは二月。だから多くの同志が嬉々としてマスクを外し、ごろつかない目の開放感にむしろ感涙している時に、僕はマスクと眼鏡を装着し始める。
洟はずるずると出るし、肌は荒れる。
中でも辛いのが、唇がひび割れることだった。
鼻水を噛むたびに鼻の下と上唇が荒れ、下唇にもうつる。そうしてガサガサになった唇は赤切れてヒリヒリと痛く、マスクに当たるために余計に擦れて痛みが増す。正に踏んだり蹴ったりな結果となってしまうため、花粉症の辛さが倍増するのだ。
そうして散々悩んだ末に、リップクリームを買うことにした僕は、大学近くの薬局で首を捻っていた。
リップクリーム売り場を見つけたはいいものの、その量の多さにどれが効果があるのか判断しかねていたのだ。
『ぷるんと唇乾燥しらず!』という煽り文句の商品も捨てがたいし、『つやつやリップでかさかさバイバイ』も捨てがたい。『これであなたも唇美人』は女の子向けっぽいからいいけれど、『もう絶対乾燥しない』というのも自信があっていい。
などと、あーだこーだ悩んでいるところに、同い年くらいの女の子がやってきて、「薬用がいいと思いますよ」と。
この女の子がなっちゃんというわけなんだけど、その時の僕は眼鏡にマスクの重装備だし、やっぱりこの時のことを覚えているはずないだろう。
そうしてなっちゃんは薬用リップクリームを僕の横から手を伸ばして取って、スタスタとレジの方へ行ってしまった。それからは僕の方など見ることもなく薬局を出て行ってしまったが、僕はその後ろ姿を見えなくなるまでずっと追っていたのだった。
そんな馬鹿な、と僕も初めは思ったものだ。
「薬用がいいと思いますよ」で落ちる男がどこにいる。結局彼女が買ったリップクリームと同じものを手に入れて、飽きることなく眺める男がどこにいる。
なんとも微妙な始まりだけれど、こういう訳で、僕はなっちゃんとせめてお近付きになろうと画策し、唇の手入れも毎晩欠かさずして女の子顔負けの唇を作り出し、なっちゃんを誘惑することに成功した。
だけれど、悲しいかな、人というものはどこまでも欲張りなもので、僕はなっちゃんのお気に入りの唇所有者では飽き足らず、なっちゃんのお気に入りの人間、果ては恋人に成りたいと願うようになってしまった。
だってもう足りないのだ。
なっちゃんの視線が僕の唇に集まる度、全身はぞくぞくと疼くし、僕の唇でその目に触れたいなどとアブノーマルなことも考えてしまう始末。
一体どうしたらいいと言うのだ。
そうしていじけながらレポート用紙に唇、クチビル、くちびると書いていた時に、ハッとどうでもいいことに気がついた。
「くちびるってひらがなで書いた方が可愛いよね」