「くちびるって、ひらがなで書いた方が可愛いよね」
アキが言った。
この男はスラッとした体躯に小さな頭、顔立ちは平凡だけれども、そこに小さく付いている唇は喋る度大きく動き、目が離せない。
「ほら、やっぱり漢字で唇って書くよりくちびるって書いた方が可愛い」
そう言って微笑むと、アキの唇は端っこが少し上がった。この形。私が一番好きなのは、この形。
「ね、なっちゃんもそう思わない?」
アキは小首を傾げて、私を見る。私は首を振りながら、アキの唇を見る。
「思わないけど」
「そっかぁ」
アキは残念そうな顔をする。アキの唇は、普通のときより少し尖る。
「でも、なっちゃん、僕の唇は可愛いと思ってるでしょ」
私はアキの唇がその形に動くのをみて、思わず目線を上げた。
「なっちゃん、いま、僕の唇見てたよね」
見慣れないアキの目は私を探るように見る。アキが喋ると、私は反射で唇を見てしまいそうになって、慌てて顔を反らした。
ああ、これではアキの唇が見えない。
「なっちゃん」
アキが私の名前を呼ぶ。
ん、で少し口角が上がって、アキの唇は私の大好きな形になるから、私はアキに名前を呼ばれるのが好きだ。但し、私がアキの唇を見ているときに限る。
「なっちゃん、こっちむいてよ」
私が横を向いているせいで、アキの声が耳に直接届く。私はアキの唇を見ていない時に名前を呼ばれるのが好きじゃない。心臓が変な跳ね方をして、そわそわと落ち着かない気分になるからだ。
「ねえ、なっちゃん」
アキの手が私の耳に添って軽く力を込められる。
ああ、私はアキの手も好きじゃない。節くれだった、線の細いアキには似合わない手が、私の頭とか、腕とか、肩を撫でる度に、同じように落ち着かない気分になる。
「ほら、こっち向いて」
アキの手にされるがままに、私はアキの方を向いた。
アキの顔は思ったよりも近くにあって、私は間近でその唇を見つめた。
「なっちゃん」
ほら、好きな形。私の大好きな唇の形。
嬉しいな。こんなに近くで見れるだなんて。
「僕のくちびる、可愛い?」
私はすぐに頷いた。
い、の発音で出来るのは、横に引っ張られて薄く開いた形。アキの柔らかそうなくちびるがのびて、薄く、謙虚な形になる。
「じゃあさ、触ってみる?」
る、で出来るのはぽってりとした形。アキの唇の柔らかさが一番強調される。
私は無意識に手を伸ばしていた。
る、の形のまま止まったアキの唇は、少し湿っていて、でも柔らかい。唇はよくマシュマロみたいって言うけれど、違う。アキの唇の弾力。カサついたところなんかどこにもなくて、全体がしっとりと私の指に吸い付くみたい。
「アキ、」
別の形をして欲しくて、アキの目を見上げたら、アキが目を潤ませて私を見ていた。
私と目が合うと、アキの目からは涙が溢れて、る、の形をしていた唇は、変な風にひしゃげて、アキは俯いてしまった。
「アキ」
「なっちゃんは、」
どうしたのだろうと焦っていると、アキは軽く体を震わせながら私の名前を呼んだ。
「なっちゃん」
涙でぐしょぐしょになった顔を上げて、アキはまた私の名前を呼ぶ。今度はしっかりとその唇が見えたけれど、なぜか、ん、の形で止まっているはずの唇はひしゃげたままで、私の大好きな形になっていなかった。
なぜだろう。
「なっちゃんは、唇が好きなの?それとも、僕の唇が好きなの?」
そんなの、決まっている。
「アキの唇だよ」
私がそう言うと、みるみるうちにアキの目からは涙が退いて、アキはキョトンとした顔をした。唇はまあるく、小文字のoの形に開いている。
「ほんとうに?」
頷けば、アキは私の頬を両手でつかんだ。
「なっちゃん」
そうして近づいてきたアキの唇は長くは見れなかったけれど、きちんと私の大好きな形をしていて、私はようやくわかった。
アキの唇が好きな理由。
アキだから、アキのだから好きなんだ。
アキの私の名前を呼ぶ時の唇が大好きな理由。
アキだから、アキが私の名前を呼ぶ度に自分の気持ちをそこに乗せてくれていたから、だから大好きなんだ。
指で触ったのとはまた違ったアキの唇の感触は、マシュマロみたいに甘いような気がして、わたしはいつまでもそこに触れていたいなと思った。
「だいすき」
アキが私から顔を離してそう言って、出来た唇の形を見た時、私は思わず言っていた。
「私も、だいすき」