鬼課長の憂鬱

　俺は野田に昼の出来事を簡単に説明したが、俺の記憶喪失については言わなかった。

　記憶喪失について、俺は誰にも話した事がなかった。気心が知れた野田にさえも。今日は図らずも高宮に話してしまったが、人に話したのはあれが初めてだと思う。

　人に話さない理由はいたって簡単で、わざわざ忘れた事を考えたくなく、まして口にするのが嫌だからだ。そう。俺はおそらく自分自身の意志で、中学の時の記憶を消したのだと思う。


　俺の中では、小学校時代の次は高校時代だ。小学生の頃、俺は東京の下町の長屋のような、あるいはアパートのような家に住んでいた。父はたぶん普通のサラリーマンで、母は専業主婦だったと思う。兄弟はいない。

　母はとても綺麗で優しい人だった。もちろん俺は母が大好きで、いつも母にべったりくっ付いていた。家の近くに父の実家があり、祖父母からも可愛がられていたと思う。俺は、母にとっては一人息子であり、祖父母にとってはただ一人の孫だから、当然の事だったのかもしれない。

　ところが高校生の俺は、なぜか祖父母の家に住んでいて、大好きだった母も、父もいなかった。祖父から聞いた話では、俺が中学を卒業してすぐの週末、車で家族旅行に出掛けた時に酷い自動車事故に遭い、父母は帰らぬ人となった。俺はひとり助かったものの、頭を強く打って記憶障害を起こし、それまでの３年間の記憶を失ったのだという。

　俺は祖父から聞いた話をずっと信じていたが、俺が成人した頃のある日、突如祖父は神妙な顔で俺に真実を伝えたいと言い出した。祖父は、自分が生きている内に俺に真実を話したいと言った。俺を騙したままでは、死んでも死にきれないのだと。もっとも、祖父も祖母いまだに健在で元気にしているが。

　祖父が俺に話した真実、と言っても祖父が知る限りの真実なわけだがは、前に聞いていた話とは全然違っていた。

　父は、俺が中１の時に癌で死んだらしい。埼玉の県境に待望の家を買い、それからいくらも経っていなかったという。母は家のローンを抱え、祖父母からの援助だけでは足りずに働くようになった。ところがその仕事は夜の仕事で、母は酒におぼれるようになり、やがて男にも……

　そして、俺が中学を卒業した直後、母は車に撥ねられて死んだ。酔っぱらった母が、誤って車道に飛び出したらしいが、母を撥ねた車の運転手は、母が故意に車道へ飛び出したのだと主張したらしい。

　更にその後、俺は誤って川へ落ち、通りがかった人に助けられたものの、３年間の記憶を失っていた。


　俺は思った。あるいは悟ったと言うべきだろうか。おそらく母を車で撥ねた人の言った事は正しく、俺は誤って川に落ちたのではないし、記憶を失くしたのは俺自身の意志だったのだろうと。祖父は、真実の全てを話していないか、知らないのだと。

　祖父を恨みはしないが、出来る事なら最初の話で俺を騙し続けてほしかった。綺麗で優しかった記憶しかない母を、そのままにしていてほしかった。