「ああああああ……飲んじゃった……」

思わずそう嘆いてしまい、廊下からおばさまに、じろりと睨まれた。
その目はとても冷たくて怖くて、私は震え上がった。

「これはこれは、『橘の』おばさま。こちらにいらっしゃるとは珍しい。どうされました?」
恭兄さまは「橘の」を強調してそう言った。
これまた、冷たくて怖かった!

「……竹原との話が決まりましたら、整理が必要になりますから。百合子、行きますよ。」
静かな怒りをたぎらせて橘のおばさまは、そう言い置いて立ち去った。

「あ!あの!これ!」
私は、先週お借りした百合子姫のお洋服をお返ししようと、慌てて立ち上がり廊下へ出た。
「先週は、ありがとうございました!」
そう言って、リボンをかけた紙袋ごとワンピースを差し出した。

すると、百合子姫は、黙って受け取ってから、つかつかと恭兄さまのいるお部屋に入って、文机の上の硯を紙袋の中に放り込んだ。

「百合子!!」
恭兄さまが、紙袋を引ったくって、慌てて硯を拾い上げる。

……クリーニングで新品同様にしたはずのピンクのワンピースは、真っ黒になってしまった。
ひどい……。

「お前のように卑しい人間が袖を通した服を、この私が着られるわけないでしょ。」

言葉の矢が胸に突き刺さる。
私は両耳を押さえて、うずくまった。

「お前、最低だな。」

恭兄さまが百合子姫にそう言うと、百合子姫は恨みがましく言った。

「恭匡(やすまさ)さんこそ、こんな子にかまう気が知れませんわ。私には書を教えてくださらないのに!……なにが『兄さま』よ。」

私は頭に衝撃を受けた。
……百合子姫に叩かれたらしい。

「やめないかっ!」

何度かの衝撃の後、場が静まったので、私は恐る恐る目を開けた。
恭兄さまが私をかばって盾になってくれていた。

そして、百合子姫は庭の向こうを見て、硬直していた。
恭兄さまの肩越しに、百合子姫の見ている方向を覗いてみると、そこには兄がいた。

「あ、あの……私……。あ……。い、いらしてましたの?義人さん。」

義人さん!?
百合子姫の様子がおかしい。
あれほど怖かった怒気が完全に消えていた。

「義人君……」

恭兄さまも、兄に気づいて声をかける。

「何だか賑やかですね。鬼ごっこでもしてはりましたか?……ごきげんよう、百合子ちゃん。」

兄は、外面(そとづら)の良さをフル稼働させていた!
百合子姫は、兄のことは「下賎」とも「卑しい」とも思ってないことは、明らかだった。
それどころか!

……百合子姫は、お兄ちゃんが好きなんだ。

そして、兄はそれを知った上で百合子姫を籠絡しようとしてた。