本気で五分も走れば喘息が出る。
香音はミニバスの頃、一度病院に運ばれてから、激しく急な運動は避けるようにしていた。兄の日香流は妹の入退院の騒動後、香音に遠慮してバスケからは疎遠になっていたが、中学の部活を決める時になって、自分に遠慮していると気づいた香音の勧めにより、名門校の二軍として活動し、三年目には一軍で試合をした。
香音はバスケを辞めてから、スイミングに通うようになった。しかし、喘息が出るようになってからも、バスケを完全に諦めることはできず、ボールで遊ぶ時間はむしろ増えていった。
数年が経ち、日香流はバスケの強豪大に入学した。
「お兄ちゃん、入学おめでとう!」
高校一年になった香音は自分のことよりも、日香流の入学を喜び、入学式を終えて帰ってきた兄を出迎える。
「さんきゅ。お前もおめでと。センスいい制服だな」
「ジャージもかっこいいんだよ」
香音はすらっと背が高い少女になった。大きなリボンが特徴のかわいらしい制服を一年生ながら着こなしている。
玄関先で話をしていると、キッチンから母が出てきた。
「あらあら、お帰り! どうだった?」
「うん、まあ」
曖昧に日香流が言って、肩をすくめる。
「明日からちょっと遅くなる。向こうで夕飯食ってくる時は連絡する」
日香流は大学にバスケの推薦で入った。大学の監督との話では、様子を見ながらだがすぐにでも一軍で活躍してほしいとのことだった。その話を聞いた時、香音は自分のことのように嬉しかった。
「ご飯までまだかかりそうだから、ふたりで遊んできたら? 香音も、いい加減に着替えなさい」
「あ、はーい」
返事をしてから、香音は兄の腕を引っ張った。
「ねえ、あれできるようになったから見てよ」
「早っ」
あれ、というのはバスケのアニメキャラのハンドリングだった。
「俺、荷物整理するからちょっとかかるぞ」
「いいよ。先行ってる」
香音はそう言って、兄より先に階段を駆け上り、自室に入って着替えをすませた。動きやすいシャツとズボンになり、自分のボールを持って下へ降りる。
母に一声かけて近所の公園まで自転車で向かった。公園には小さいがバスケコートがあった。香音や日香流が通っていたミニバスの生徒が時々遊んでいるくらいで、大抵は空いている。
駐輪所がないので、公園の中に自転車を停めて、カギをかける。
兄に見せようとしていたハンドリングを練習しながらコートへ向かうと、珍しく人がいた。
日香流くらいの年だろうか。あまり大柄な感じではない。一七〇センチ半ばか、それくらいの背丈だ。ダボついた上下を着ている。彼はスリーポイントラインから黙々とシュート練習をしていた。
弧を描いてすっとバスケットに入るボールは見ていて清々しい。
香音は彼のシュートが決まったところで「ねえ!」と声をかけた。
ボールを触っている時とは違う緩慢な動きで彼はこちらを向いた。
「よかったら一緒に」
「俺、出るから。使えば?」
言い終わる前にそう遮られ、彼は転がって来たボールをネットの袋に入れると、公園の反対側から出て行ってしまった。
「えー……」
取り残された香音は思わず、不満をそう声に出した。
遅れて来た兄に、さっきまでそこにいた彼のことを話すと「それ、太空だろ」と言われた。
「たく?」
「ミニバスの時にいたろ? 俺のいっこ下でさ」
軽くボールをパスし合いながら彼について話す。
「うまかったんだけど、佳哉と喧嘩して辞めたんだよな」
「佳哉兄、私も嫌い」
佳哉は日香流の同級生で、高校まで一緒で、同じチームで活躍していた。レイアップで相手に肘打ちしながらシュートを決めたり、リバウンドで相手のユニフォームを引っ張ったり、とにかく卑怯なところが目立った。
しかし、佳哉は監督の息子で、皆、彼のプレーについては何も言わなかった。当時だから、所詮、子どものやることと大人が思ったのかもしれない。
「佳哉に食ってかかったのは太空だけだな。まあ、それでやめちまったんだけど」
「仲いいの?」
「まあ、普通にいい後輩って感じ。中学は一緒だったんだけど、あいつ、佳哉がいるからってバスケ部入らなかったんだよな。太空がいたら、全国入賞も夢じゃなかったと思うんだよな……」
香音からのパスを受け取り、シンプルなフェイクを入れてショットを打つ。
すぱっと決まった。
「つーか」
手首の動きを確認しながら日香流がつぶやく。
「太空って、お前の高校の三年だぞ」
「……え?」
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