近づく香ばしいコーヒーの香りとともに影が落ち、手に取ることは叶わなかった腕を引っ込める。

「係長…、コーヒーどうぞ」

 声がした方へ首を動かすと、こそっと申し訳なさそうに机の端にコーヒーカップを置いた丹野さんが、俯いた顔から赤く潤んだ瞳を覗かせた。


「ありがとう。ちょうど飲みたかったの」

 無難に微笑むような笑顔を作り上げ、手にしたアップルパイを見せた私は、淹れてきてくれたコーヒーを一口啜る。


 カップの中で程よく混ざり合う乳白色のクリーム。まろやかな味に仕立てられたコーヒーは、甘く広がった口内を深く染み渡らし、際立った苦みで休まることを忘れた心が安らいでいく。

 お好みでどうぞと、砂糖とミルクを適当に渡せばいいのかもしれない。誰かに教わるものではないし、覚えるのが常識という括りでなければ、強制でもない。特別なことではない、ほんの些細な気遣いが嬉しく感じる時がある。


「こういうの、大事だよね?」

 自問自答するかのようにそう言い、丹野さんの背後でどこからか姿を現し、何やら激しく頷いた人物を見なかったことにして、カップへ口をつけた。


 同意を示すだけで済むわけがなく視界に入れようと、彼女の横に並び存在を露わにさせる島野さんは、私の思いを汲んでか代弁する。

「柏木の言う通り。ちょっとしたことでもそういうのは大事だぞ? また丹野に淹れてもらいたいって思う奴が出てくるだろうしな。どうでもいいような気遣いが、クライアントや店舗を訪れるお客さんにも伝わることだってあるんだ。何も分からない新人って言われて悔しければ解っていけばいいだけのことだ。それに、解ってるじゃないか、みんなの味が…」


「あの…、係長。その…」

 指をもじもじと組み換え言いづらそうにする丹野さんの後ろで、まともなことを言った島野さんは、無視されたことでこれでもかと不機嫌そうに細い目を吊り上げた。