こんなところで存在をひけらかさなくとも、見えない心の底には備え付けられた電気のスイッチみたいに既存している。こんなに短い一言だとしても、簡単に心が揺れてしまう。


[美味しいよ]


 薄い紙に書かれた呪文のような文字を、なぞるように黙読する。左の手に取って徐に包み紙をめくり、アップルパイにかぶりつく。

 パイの重なる薄皮がポロポロ剥がれ落ちたのを、器の役割を果たすペーパーナプキンが上手い具合に受け止めていた。


 確か、パイクイーンのアップルパイは甘さ控えめで、冷めても美味しいが売り。ここに置かれた時点で冷めていたと思われるがその謳い文句通り、常温でも肉厚のパイ生地はしっかりしたサクサク感があり、りんごはしっとりとしてる。


「ほんとだ、美味しい…」

 美味しい。けれど今の私にしてみれば、甘さが抑えられたアップルパイは、全身に甘味が纏わりついてきて、落ち着いた状態を覚えていない騒ぎ立った心に染み渡る。


 昼時はとっくに過ぎている、空腹感はあっても何かを口にしようとは思えず、それでもどうしてか、アップルパイを食べたいと思ってしまった。容易く掛かった催眠術は呆気なく解かれた。


 突如として映り込んだある一点が視線を奪う。パイを持つ手を右手に持ち替え、新しい仲間が加えられたガラスプレートへ、そろりと左手を伸ばす。


 何が起こっても驚かない。例え、知らぬ間に置かれた桜色のタティングレースが、選りに選ってハートの形をしていたとしても、だ。

 他にも選択肢があったはずだ。花だったり星だったり、それしかないわけがない。四葉のクローバーだったら、文句の一つ言えたかもしれない。

 何かの冗談なのか、反応を見て面白がるとかだとしたら趣味が悪い。でも、特別な意味は含まれていない、そういう人だ。きっと、上達した出来を見せたかっただけなのだろう。

 どちらにしても、さんざっぱら突き付けられた行き場のない気持ちに、振り回されるのはもうたくさんだ。

 わざわざレジに並んでまで購入した結果がこれ。なんてことが想像できていたら、あの場で必死に抵抗していただろう。


 ハートの中心から外側へ向けて薄く色づく、ピンクのグラデーションは水を張った容器に絵の具を一滴落としたみたいに綺麗で、歪んだ雪の結晶に寄り掛かるそれは、同じ人間が創作したとは考えにくい出来だった。