先月末だったか、多恵が俺の前で泣いた。その時俺は、いきなり泣き出した彼女に慌ててしまい、結局、何もしてやれなかった。

 きっかけは、川村が彼女にイタズラをしかけたことだ。彼女は怒って川村を叩こうとした。川村も最初は背を丸めて逃げいたが、気が弱いのか優しいのか、思い切りの悪い彼女が川村を叩けないまま、いつまでも追いかけ回すので、最後は正面から相対する形になってしまった。非力な彼女が川村の胸をポカポカ叩いても、甘えて駄々を捏ねるに等しい仕草になると気付いたんだろう。彼女は怒った顔のまま、何も出来ずに部室を出て行ってしまった。

 しばらくすると、彼女は川村にジュースを買って戻ってきた。川村は既に舞台へ移動し、部室は俺だけだった。
『川村くんは?』
『先に舞台を見に行った。俺たちも行くぞ。』
『はい。』
ジュースを机に置き、部室を出ようとする彼女に声をかけた。

「大丈夫か?」
「はい?」
「川村にはよく言っとくから。」
「いえ、もう大丈夫です。先輩は何もしなくていいです。」
どう見ても大丈夫という顔ではない。ムキになって答える後ろ姿に、俺はよく考えずに話しかけた。

「多恵はさ、女の子なんだからさ、もっとこう、周りに甘えても良いんだぞ。」
刹那、彼女に殺気のようなものが立ち上がったのが分かった。
「どうして、女だと甘えて良いんですか?」
 声が震えていた。