――不覚だ。
 とっさに私はそう思った。
 目の前で机に突っ伏しながらすすり声を響かせ肩を揺らしている者の相談事なんて聞くんじゃなかったなどという後悔からではない。
 教室に男女二人きりで何をやっているんだという不覚でもない。
 
 自分の頬に伝わるしずくの感覚に私はとっさに思ったのである。
 
 思えば視界は先ほどより悪くなっている。
 目の前で泣く男は曇りガラス越しに見るように歪んで見えた。
 なんで私は泣いているんだろうか。
 つたうしずくに問いかけようとも返事なんてかえって来ないことはわかっている。だけれども私はこうすることほかなかったのである。
 生まれつき私は感情が乏しい。そう周りの人からは評価されてきた。
 親からも幾度となく言われてきたし、自分でもそこらへんはどことなくわかっていた。たとえばクラスで一団結して盛り上げていく文化祭。終わったとき  大概みんなは泣き始めて肩なんかを組み始めたりするのだが、私はどうしてもその場で泣くことはできなかった。ここで勘違いしてほしくないのだが私は文化祭がつまらなかっただとか楽しくなかっただとか感動的ではなかっただとかそういうことでは一切ないのだ。本当のことを言うと楽しかったし、感動的であった。だがそんな時でも私の表情はささやかにしか動いてくれないのだ。
 感情が乏しいとはいまいち違うのかもしれない。表情が乏しいとでも言っておこう。
 まあ、はたから見れば同じことなのであまり変わらないのかもしれないが。
 そう自分の中で自己完結してみて今あらためて思う。
 そんな私が、なぜ今涙を流しているのだろう、と。
 ただ目の前で今まで話しかけてきた男が涙を流しているだけではないか。
 ただ目の前で泣いている男が帰ろうと思ったときに私を引き留めて勝手に振られただのなんだの言って泣き始めただけじゃないか。
 なぜ私が泣く必要がある。
 いや何故という疑問にすること事態間違っている。いつの間にか泣いていたのだから。
 ほろほろと伝っていた涙がふいに大きな粒となって頬から滑り落ちた。
 すらりと伸びたきれいな姿勢なため何のためらいもなくそれは落ちていく。
 「……ってちょっと、なんで真澄さんが泣いてるわけ⁉」
 視界の向こうで学ランの黒い影が大きく動いた。どうやら突っ伏すのをやめ顔を上げていたらしい。
「別に、何も」
 別に隠す必要もないのだが、私は目の前で騒がんとしている男に対して涙を見られまいと無表情ながらゆっくりと目元を袖で拭った。
 制服にしみいるように涙はあっけなく吸い込まれていく。
 まだ涙はあふれていたが少しばかりよくなった視界で目の前にいる彼を再度見た。
 目元は赤くはれておりその精悍な顔は少し情けないような顔になっていた。
 「何もないわけないでしょ、真澄ちゃんが泣くなんて明日は台風が来るよ」
 心配したような顔で普通にそんなことを言う。
 ふざけている様子はないのでこれが私に対する普通の周りとしての評価なのだろう。
 そうか、私が泣くという事実は台風並みなのか。
 自分が泣いていたことを忘れてしまったかのように私に対して心配のまなざしを向ける彼。
 どうやら私の言葉を少しながら待っているようだった。
 ……いつもそうだ。
 どんな時でも私がどんなに答えるのが遅いとしてもいつも彼は返事を気長に待ってくれた。
 まあ、こんな彼だからこそ話し相手という関係がここまで続いているのだろう。
 私と言葉を交わすなどクラスメートでは事務的な用事か授業で何か人ようになったとき以外ほとんどない。
 友人と呼べるかは私が決めることではないので彼から言ってくれるのを待っているのだがそれはおこがましいことだろう。そこまで期待をするほど私は馬鹿じゃない。
 「別に何もない。ただなぜか自然にあふれただけ」
 私が微動だにせずそう答えると赤くはれた眼元が薄く伸びた。頬杖をつきささやかながら微笑む。彼の黒髪がさらりと揺れた。
 「なに、真澄ちゃんもらい泣き?」
 からかうようなそんな口調に違うと冷たく返すと彼はそんな私の答えにまた口元を上げた。
 そしてそんな笑みを残しながら軽く伸びをする。
 伸びてから勢いよくその手を離し体をもとに戻すとはあと大きく息をついた。
 教室の窓から差し込む夕日が彼の顔を照らしその赤は彼の目元さえも隠すようだった。
 「もらい泣きなんてするような人間じゃないこと笹崎君がよく知っているはずだと思うけど。それに振られたなんぞ言っている人間に対してもらい泣きなんて馬鹿じゃないの?」
私のすらりとした姿勢に対し猫背で肘をつく彼はその丸い背を揺らしながら、まあねなんて答えた。笑いながらもかれは目で私をとらえるのをやめない。
 「……でも、振られてよかったのかもしれないねえ」
 「それこそ馬鹿じゃないの」
 振られてよかったなんてそろそろ泣きを通り越して自暴自棄に入り始めているのかもしれない。これ以上私の前で醜態をさらすのはやめてほしい限りである。
 「振られてよかったって、笹崎君その子のことずっと好きだったんでしょ。だったら冗談でもそういうこと言わないほうがいいと思うけど」
 無表情のまま薄笑いを浮かべ続けている彼に対して抗議する。
 一年ぐらい前のことだっただろうか。
いきなり好きな子ができたとはしゃぎまくり挙句の果て毎日のようにその子の話を聞くようになったのは。
 私にはたぶん一生することもないであろう恋。
 感情も表情も乏しい私に誰も恋などはしないだろうし、私も今後することはないだろう。
 私が持つことはないであろう感情を目の前にいる彼は持ったのだ。 
 そんな感情をけなすようなまねはしてほしくない。
 「……確かにずっと好きだったけどねえ。なんかこう、いざ振られたとなるとなんとなく吹っ切れちゃったというかなんというか」 
 どこか客観視したような彼の物言いはまるで本当に他人事のように思えた。
 そういうものなのだろうか。
 私が疑問に思っていると彼は不意にくすりと笑った。
 まるで自分をどこか笑うかのように。
 「真澄ちゃんのおかげかな」
 「何が」
 目を細めながら私を見る彼。
 そのうるんだ眼はもはや消えかけていた。
 夕日が彼の髪を透かす。
 「女の子の涙は怖いもんだ」
私に言うでもなく、彼自身に言い聞かせるでもなくただふと出たその声に彼のはかなさがにじみ出ていた。
夕日は飽きることなく彼を照らし続ける。
「何が怖いっていうの」
私は彼から視線を外し窓の外の夕日に目をむけた。
雲がとぎれとぎれにかかる様子はじらすように夕日と交わっていく。
「振られたばかりの男の子を揺るがすぐらいの脅威は持ち合わせているっていう怖さ」
「意味が分からないわ」
「だろうね」
そういうと彼は頬杖をしていた腕を組み直し私と同じように夕日を見た。
 ちらりと彼の顔を見ると目の赤さが引いていた代わりに頬の赤さが増しているようにも見えた。夕日に照らされたのだろう。
 視線を戻すとさっきまで少しずつしか動いていないように見えた雲がもう遠くのほうへ移動していた。代わりにまた新しい雲がじりじりと大きな夕日の横を通り過ぎ去っていく。
 「真澄ちゃんさ、鈍感ってよく言われない?」
 私のほうを見ずに彼はただ夕陽を見ながら私に対して問いかけた。
 なんとなく私も彼のほうを見ずに答える。
 「鈍感とは言われたことないけれど、感情を見せもしないし干渉もしないとはよく言われるわ」
 「そうか、まあそうだよな」
 「何か私鈍感と言われるようなことしたかしら」
 私をちらりと一眼だけ見てまた元のように夕日を見つめる彼。
言おうか言うまいか迷っているかのように口を開こうとしては閉じ開こうとしては閉じを繰り返す。
しかし最終的には口をつぐんだ。
目に映る彼は夕日に照らされてるからなのか耳さえも赤く感じさせた。
ちらりとまたこちらを見て、見てはすぐ見そらす。
言わないのならいいと思い私は先ほどと同じように窓の外の夕日を見上げた。
彼もいつのまにかそうしていたようだ。
 しばらくの間私たちは黙って夕日を見続ける。
 やがてその沈黙破るかのようにその声はぼそりとつぶやかれた。
 「……気づいてないならそれでいい」
 と、そうつぶやかれた。
そういう彼に私はちらりと視線を彼のほうに送ったが彼はまだ夕陽を見続けておりこちらを振り向く様子もないので私はゆっくりとその視線を戻していく。

こんな私に恋という感情が訪れるのはまた別の話。