家について、階段を駆け上る。
あーちゃんの部屋の扉を開けて、
ベッドめがけて勢いよく突っ込む。
あーちゃんの部屋の窓からは大きな月が覗いていて、吸い込まれるように目を閉じた。
さっき、どんな夢を見ていたんだろう。
あやふやな記憶。辿ろうとしても霧がかかってみえなくなってしまう。
「あーちゃん…?」
背を向けた私を包むように、
彼は私を抱きしめた。
「あーちゃんよしよし。私、どこにもいかないよ。」
「でも俺はおまえの名前も知らない。」
「んー、そっか。じゃあ、名前付けてよ。今からその名前でいいかなあ。」
しばらく経ってからあーちゃんは青白い光の中でぽつりと、
「ふうか」と口にした。
「風の香で、風香。風のようにつかめなくて。懐かしい匂いじゃないけど、そんなようなものを連れてくる。
ねえ風香。おまえはほんと不思議なやつだよ。俺が好きだっていったら、どんな顔するんだろうね。」
私はそっと彼の唇に人差し指を立てて笑う。
月があまりにも照らすから、
困り笑いがばれそうで。
「あーちゃん、好きよ。」
君の気持ちを無視した。
きっと、嘘でしかないから。
嘘で、あってほしかったから。
「へえ。」
でもそれは逆にあーちゃんの起こるポイントだったようで。
「もう、いい。」
その二言の後で本を開いて、
また黙々と読み始めてしまった。
「あーちゃん、ごめんね。」
そうおどけて笑って見ても、
黙々と読み進める。
どうしようもないから、
部屋を見渡す。
勉強机と、ベッド。
木の模様をした小さなタンス。
それから本棚。そしてそれに寄りかかるアコースティックギター。
どうせ暇だからと、そのまま布団に顔を埋めた。
あーちゃんの、匂いがする。
近くにいるのに誰よりも遠い。
そんな関係なんだろうねと、
自分で笑う。
惨めと言われようとなんと言われようと、結局いつまでもこの関係は続けられないだろうし。
私は、私であることも許されないんだろうねなんて、顔を上げて月に笑う。
しばらく経った頃、
あーちゃんが口を開いた。
「おまえも俺なんかといる時間を読書にでも費やしたらもっといい女になれるんじゃねえの。知らねえけど。」
「あーちゃんが知らないだけで、小説とか書いてるかもよ?こんな惨めな自分を題材にして。」
「惨め?」
「きっと私が書くなら、同情してもらえるように書くでしょ?まあ、私は自分が惨めだなんてこれっぽっちも思わないけどね。」
そこまで言ってつけたすように、
「だって、好きだもの。」
と言ってまた、顔を伏せた。
あーちゃんの手元から、
本を閉じる音が聞こえる。
「は!?いっった、何!?!?」
不意に頭を小突かれ、
また顔を上げる。
「俺の好きを無視しといてそれはねえわ。」
「でもこの先どんな風に自分が傷つけられるか、わかってるもの。」
「へえ。じゃあこのあと、俺はおまえになんていうの。」
言わなきゃいけないのも辛いな、
なんていうのが見え隠れするように笑ってしまって、でもまあいいかと彼を見めた。
私はベッドから足を出すように座り、
あーちゃんは目の前に立っていた。
私は、淡々と話す。
「あなたの好き。私の好き。」
あーちゃんごめん。
「私の好きは、恋だよ。」
あーちゃん、ごめんね。
「そしてあなたもそれは知ってるはず。そして、それを受け入れたよね。」
あーちゃん、あーちゃん。
「だけど、きっというよ。人として好きって言う意味で好きだと。そういってきたと。」
彼の顔がだんだんと歪み始める。
「あなたはそういう人だよ。現に、そう思ってるでしょ。あなたの自己犠牲も、飛んだ笑い話だよ。」
そういうと間髪入れずに、
「なーんもいえねえよ。」
と、あーちゃんは笑った。
「なんも、言えねえや。ごめんな。」
「人として好きって、投げ捨てたい?先に言われたから言いにくい?」
「そこまで分かってるなら逆に、おまえは俺に何を求めてるのさ。」
まだ何か言いたそうに立ちすくむあーちゃんにまた人差し指を立てる。
肩に手をかけて起き上がり、唇をかんだあーちゃんに、優しくキスをした。
「意地悪でごめんね。」
私の言葉なんて聞いていないかのように、彼は私の髪に手をかけた。
内側から書き上げて、
それに隠すように。
彼もまた私にキスをした。
今日、言葉にならない声が鬱陶しくて、それを彼も感じていて。
2回目の夜を迎えた。
月に照らされて、
あーちゃんの顔がチラチラと見える。
「あーちゃん、好き。」
溶けてしまいたくなるほど、
優しい風と、熱の中で。
泣きたくなるような弱さが襲うから、
あなたを少し抱き寄せた。
いまにも消えてしまいそうだから、
ただそれが怖かった。
愛してるなんて、
言うだけ傷つけるとわかっていたのに。
「好き。」
私の好きに返すように、
彼もそっと呟いて。
ごめんねの代わりに、
もう一度キスをした。
「風香、好きだよ。」
「風香、好き。」
今だから許される、
今しか許されない。
それは本気の好きじゃないと、
後で投げ捨てられる言葉で。
私が、風香になった日。
彼が、私をもう一度抱いた日。
苦し紛れに歌を歌った。
君は、背を向けて本を読む。
今日は、夜が長い。
感情が高まって泣いてしまいそうになる。喉が閉まる。
誰に届けたいわけでもないのにね、
誰に聞いてもらいたいわけでもない。
苦しくて、それを吐き出したくて。
とめどなく溢れるそれは、もう多分自分じゃどうしようもないんだろう。
もちろん、他の誰にも。
「おまえ、歌うまいのな。」
相変わらず背を向けたまま、あーちゃんは言う。
「私知ってるもんね、あーちゃんが本当に綺麗に荒々しく歌を歌うこと。」
「なんだそれ。」
あーちゃんは呆れたように笑って、
隅に置いてあるギター見た。
「それさー。ジャンク品でな。要はごみ捨て場にあったのがリサイクルショップにいってさ。五千円くらいだったわけさ。」
「うん。」
「自分への当て付けのために買ったんだわ。俺にはこいつで十分だって。人前にも出せないような、クソみたいなギターだって。」
「うん。」
「買ってみたけどアホくせえのな。」
「そう…?」
「もう慰めなくていいよ、おまえもさ。慰めて寄り添っても俺はおまえに優しくなんてできねえし。」
「そういうわけでも、ないんだよ。ごめんね。言いたいこと思ったことしか言おうとしてない。」
「もーうさ、わっかんねえかなあ。」
馬鹿にしたような、
どうしようもなく辛いのか、
よくわからない表情で、でも口元は上げて、私を見ながら。
「重い。」
私は一瞬キョトンとして、
それから優しく笑った。
「そっか。ごめんね。」
すると、あーちゃんは眉間にしわを寄せて、
「話を聞けよ。」
と言ってまた、
目をそらさない。
「お前のその俺を気づかった優しさが見え隠れする言葉自体が本当に辛い。俺は何も返せやしねえし、何より愛せないんだって。だから、」
「それでも、いいっていったじゃん…?」
「なあわかんねえかな、その優しさすら捨てようとする自分が心底いやなんだって、もういい加減捨てろよ利用されてるようにしか思えねえだろうさお前からしたら、なんで、なんなの、なんなんだよほんと、お前のアホさ加減も見てられねえよ、なんで、」
「もう、いいよあーちゃん。ごめんね。」
息急き切って、とめどなく言葉を吐き出す。
これは、自分の意思だけじゃなくてきっと、自分のわからないところで何かに潰されそうになって、そこから漏れ出してるんだろう。
話してるというよりは、
言わされてるかのような。
切羽詰まっているのが手に取るようにわかる。
だけどこれも、
彼にとっては私の被害妄想でしかないんだろうなとも。
人には人の感情と、
見方がある。
今の私には目の前の彼に抱く感情も一つではないし、だからこそ今言葉も出なかった。
「あーちゃん、ごめんね。」
足を投げ出してベッドに腰掛けるあなたの正面に立って見下ろす。
見上るあーちゃんの頬をなでて、
そっと頭を撫でた。
「あーちゃん。好きだよ。ごめんね。」
「俺は、お前を愛せない。」
私は何も言わずにただ笑った。
どんな言葉も、
きっと返したって意味はない。
だけど、だから返さなかったわけじゃない。
きっと、私の笑顔で充分に何を伝えたいかはわかっているはずだから。
「あーちゃん、キスしていい?」
「好きにしろよ。」
「あーちゃんらしいね。」
無愛想な声に笑いながら答えて、
頬に手を添える。
唇を近づけたところで胸が痛くなって、
ふと口を開いた。
「ねえ、あーちゃん。」
「うん。」
「私ね、恋人が出来たんだ。」
月はもう窓を通り過ぎていて、彼の顔はそうはっきりとは見えない。
でも、闇になれた中で、彼もまた目を見開いて、私と目を合わせようとしているのがわかった。
だからこそ、
スッとキスをした。
そしてわざとらしくくるりと回って背を向けて、にっこり笑ってありがとうだなんて言い捨てて、彼の部屋を出た。
きっと彼は、
私が手を離したら追ってはこない。
一歩を早めに階段を下りる。
流れるように玄関に手をかけて、
躊躇なく外へ出る。
これで、
「さようならかあ。」
「それは、さすがにもう無理だろ。」
振り向きそうになるのを堪えて、
出かけた涙を拭う。
「あーちゃん、どうしたの?」
「恋人、できたってそれ何。」
「あー、でも、あーちゃんはどうでもいいんじゃないの?」
「へえ。お幸せに!」
ずるい。
こんなのってあんまりだよ。
こんなのって、
「じゃあ、なんで抱きしめるのよ。」
「知らねえよ。」
「何なの、本当になんなの?愛せない辛さ強すぎるんじゃあないの?同じ土台に立ったほうが楽かと思ったけど、違うの?」
「相手は俺のこと知ってんの?」
「あーちゃんのことっていうよりは、誰か好きな人がいるでしょって。でも徐々に俺のことも愛してくれたらって。」
「いい人じゃん。お幸せにね!」
「じゃあ、なんで、なんで抱きしめるのよ。なんで、なんで?ねえ、な」
「振りほどけよ。それで、終わりでいいんじゃねえの。」
「あーちゃんなんて。あーちゃんなんて」
その言葉の先もないけれど、
ただ口にした。
嫌いなわけない。
好きじゃないだなんて言えない。
「本当に馬鹿だな、本当にお前が一番馬鹿だよ。」
振り向くより先に、抱かれた腕を掴んでだきしめた。
あーちゃんはより一層力を入れて、
私も強く抱いた。
もうすぐ、朝が来る。
私の知ってる世界は動き出す。
それにまた揉まれながら、
傷ついて傷つけてを繰り返し続ける。
日に当たる世界は辛辣で、
だけど私たちの関係も異質で。
弾き出されたままの駒は、
孤独を強いられたとしても、
拒む術もない。
あーちゃん、ごめんね。
世界中の音を拾って、
苦しさも楽しさも拾って、
誰にでも寄り添って
誰よりも傷ついたあなたを、
ひどく愛してしまった。
惨めな、私の話。
隙間風でカーテンが揺れる。
君の寝息が耳につく。
胸が痛いのは、なんでだろうね。
あーちゃん。
ごめんね。
何も考えたくないのに、
思い出がとめどなく押し寄せてきて。
「ごめんね、あーちゃん。昔の私が良かったって、あーちゃんも言うんだろうね、ごめんね。」
絞り出されたような声に、
泣きそうな苦しさが混ざった。
あーちゃんの髪を撫でる手から、
ちくりちくりと胸に痛みが刺す。
私の言葉なんて、
軽くて薄いもので。
だからこそ伝わっていないとばかりおもっていたけれどそれは、返ってのしかかるようにあーちゃんを潰していた。
サラサラと音を立てて、
髪は手からすり抜ける。
音一つ立てずにまた、
心も崩れていく。
「アホ。もう泣くな。」
目を閉じたままそういうあーちゃんの声に驚き、思わず手を引っ込める。
そしてその手を引いて、
そっと抱き寄せる。
「あーちゃん…?」
「好きだよ。」
「うん。」
「俺の言葉なんて、信用しないでね。」
「そんなの、」
わかってるよ。
苦しくて言えなかった。
だから、その度に笑った。
愛さなきゃ良かったのかな。
愛せば良かったと言うのだろうか。
後悔も時間も記憶も流されて
いつかどこかで何も知らないまま出会えたならと、どこかで淡い期待をした。
おもむろに携帯に手をかけ、
恋人の連絡先を開く。
「電話、かけてもいい?」
「誰に?」
「恋人。」
「好きにしなよ。」
「ん…。」
興味ないような声に、
悲しげに返してしまった。
指を機械的に動かして、
電話をかける。
2コール目で出た彼は、
どうしたのとはしゃぐ。
「ねえ、あのさ。私のことって、好き?」
「いきなりどうしたの?あと、どうしたの、つらいことでもあった?」
「ん、どうして?特にないよ?」
「声。辛そうだったから。泣きそうなんじゃないの?今どこ?迎えに行こうか?」
大丈夫、というより先に携帯を無理やり取られて、とった本人も不思議な顔をしてた。
何が何だかわからなくて見つめる私に、
彼もキョトンと返す。
携帯から漏れる、
私を呼ぶ不安の声。
あーちゃんは携帯を耳に当てる。
さすがに焦った私は、
えっ、まってと声を上げるが、
あーちゃんは私を見ない。
「もしもし。」
変な焦りと緊張と、
罪悪感と、汗。
待ってなんて言う資格もない。
耳から音が消えて、
何やらあーちゃんはパクパクと口を動かしているけれど。
何も聞こえない。
不透明な感情。
ドロドロとにごった。
いや、そこまでじゃないのかな。
案外落ち着いている。
傷つくのは私じゃない。
恋人。
恋人だなんて歌ったけれど、
そんなこともない。
好きになってくれたらだなんて、そんな都合いい言葉に甘えようとした。
私はあーちゃんと変わらない。
吐き気と、胃の痛み。
ごめんねも言えないくらい、
声も聞こえないくらいの静けさに襲われて、あーちゃんに頭をポンと叩かれて我に帰る。
はいと電話を渡されて、
見てみるとまだ繋がっている。
恐る恐る耳を当てる。
「もしもし…?」
震えて返す私の声に、
彼はごめんねと返して、
明日会おうと零した。
ファミレスで落ち合う約束をして、
適当に切った。
「何その顔。」
「え…?」
あーちゃんに言われて、顔を上げる。
「会話、聞いてなかったの?」
「何も…聞こえてなかった。音が何も聞こえなくなって、さっき頭に手を置かれるまで、何も…。」
「そっか。」
「う、ん…。」
「明日、お気をつけて。」
無機質な空の色。
明かりが灯り始める。
カバンに入っていたチョコレートを、
ポンと口に入れた。
熱で柔らかくなっていて、
生チョコみたいで、口の中で溶ける。
濃厚すぎて喉が焼ける。
この時間に男と二人。
その時点で確実におかしいだろう。
何を話したかは知らないけれど、
どうせ、ろくな内容じゃない。
謝るほかない。
謝っても許してもらえることじゃない。
だけど、このままでいるつもりもなかった。
泣くのは、私じゃない。