暗い暗い部屋の中。
不自然にはっきりと見える桜の木。
落ちては溶けていく花びら。



そして、目の前には凛とした女の子が立っていた。かおは黒く塗りつぶされているようで、わからないけれどじっと見つめる。




幼い声の泣き声が、
次第に大人びていくはわかっていたけれど。




「ねえ、私が誰だかわかる?」



「黒く塗りつぶされているし、心当たりはないね。」



「そう。ねえ。ちゃんと見て。これはあなたの世界。ここは、夢。仮想空間。」


「そんなこといったって」
何かに怯えて、私はふとかおを逸らした。見えていなかった安堵。見ても尚わからない不安。


逃げてしまいたくて、かおを背けて目をつむった。なのに、


「ちゃんと、見て。」



追い討ちをかけるように。
彼女は淡々と、凛とした声で。




ぐっと顔を戻すと、





「私…?」


「そうだよ、おはよう私。」



背丈も顔も、
髪の長さまで同じ私が、
私を見つめる。


「気づくの遅いね。」
元気に笑う私に、私はそっと返す。




「う、ん。ねえ、夢にしては鮮明すぎない?」



「だって、あまりにもあなたが悩んでいるから。」



「え…?」




「天音さんて人のことも、自分の母親のことでもそうなんでしょ?」


「それは、違う。」



「なにが?」




「悩んで当たり前だよ。人のことを考えて生きるのも、何もかも。」



夢の中の私はきょとんとした顔のあとに、そっか、なら大丈夫だと笑って、



「ねえ。私はここにいる。あなたも、ちゃんと存在してるんだよ。辛くなったら、帰っておいで。」


そう言うと、彼女は笑いながら私の頰にキスをして、暗闇に駆けて行った。



みるみるうちに幼くなって、転げ笑って、そして、視界から消えていった。


笑い声が消えた頃、
ふと悲しくなって彼の名前を呼んだ。




「あーちゃん…」



「本当、おまえ頭弱いの?」


あーちゃんの言葉に飛び起きて、体にかけられたすこし厚手のパーカーと、タバコの臭いに気づく。


「え、え?」

あたりを見渡して、伸ばした足元に座ってる彼を見る。




「えじゃねえよ。彼女送り届けた帰り。こんなとこで寝てたらさすがに呆れるだろ。」



「ごめん…。」



ブルッと体が震えた。
風も空気も冷たい。



あーちゃんはすぐ心配をする。
勘違いさせてくれるだけ、優しいのかな。きっと彼はどんどん私に興味もなくなって、記憶も全て褪せてって。



あーちゃん、ごめんね。
あーちゃん、好きだよ。


もう、時間がない。



側にいてくれる今、
すごく甘えたくて仕方なくて、愛してると伝えたくて。



でも。



頻繁な吐き気にぐっと唇を噛む。



「あーちゃん、好き。」



「知ってる。」


あーちゃんは、うん、俺も。とか、
好きだよなんて絶対に言わない。





「おまえ、どっか悪いの?」


「へ…?」


「いや、なんでもない。」



「私はだーいじょうぶ。あーちゃん本当心配症だし、本当、優しいよね。好きなの?結婚する??」



「アホ。」




「そーうだね、あーちゃんあーちゃん」





「んー。」





「好き。」





いつも通り、
いつも通りの。



ありきたりの当たり前な。
異質な私たち。




異様な光景。



軽蔑される世界で。





私は何度でもあなたに愛をうたう。





「明日、おまえ暇?」



「え、え??暇だけど…」



明日、デートしようかと聞こえた気がして思わず目を見開いた。



「あーちゃん、暑さで頭おかしくなったの…?あーちゃん…?」



「うるせえな。」
やっぱなしにすっかといいかけたところで、あわてて引き止めた。


「まって待って待って待って待って、待って!!!!!!!」



「本当うるせえ。」



「夢見たい、ねえ、好き。」



あーちゃんが、ボソッと俺もと言ったのを、聞こえないふりで流した。


涙が出そうで、
困惑よりも信じたらいけない、
間に受けたらいけない、



聞かなかったことにしよう、
きっと何かの勘違いだと。



私は笑いかけた。


「明日、どこ行こっか!」




あーちゃん、あーちゃん
どうか、愛さないで…?


愛さないと、愛せないと
言ったじゃない。
聞き間違いだと信じたいよ。




あーちゃんは、
この日を境に少しずつ変わっていった。



「今日、泊まっていけば。」



「人肌恋しいの?」



あーちゃんは返事をしないまま、
すっと立ち上がっておいでと手を広げた。




甘えそうにも、飛び込んでしまいたくもなったから。



競争しようと駆け出した。
帰って泣きたかったな、
彼女さんとうまくいってないのかな、





すれ違いより胸が痛い、
愛される妄想は避けて、
夢ですら見ないようにしていた。




私は、
天音さんが好き。



だけどそれは、
愛されないことが条件でもあった。



少し遠くまで来すぎたかなと振り向くと、あーちゃんがタバコに火をつけているのが見えた。


「歩き煙草、いーけないんだ。」



「おまえわかってないけどいま割と夜中だからね。11時も過ぎてるし。今くらいいいだろ。」



「大人ってずるーいーんだ!」




「おまえ、いくつだよ。」




ふふふと笑って、あーちゃんの後ろに回った。



ちょろちょろすんな、鬱陶しいだなんて言うから、調子に乗って後ろから抱きしめた。




服に顔をうずめる。



「ねえ、好き。あーちゃん、好き。」




そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、




愛さなくていいんだよ、と零した。



最後に少しきつく抱きしめて、
突き放すように腕を話した。




呆れた顔で私を見て、
だけどどこか物悲しそうで。



何も悟りたくなかったから、
何も知りたくはなかったから、





あーちゃん好きだよ、
あーちゃん結婚しようねなんて。
精一杯笑った。



綺麗な、満月の夜。



家について、階段を駆け上る。



あーちゃんの部屋の扉を開けて、
ベッドめがけて勢いよく突っ込む。


あーちゃんの部屋の窓からは大きな月が覗いていて、吸い込まれるように目を閉じた。



さっき、どんな夢を見ていたんだろう。



あやふやな記憶。辿ろうとしても霧がかかってみえなくなってしまう。



「あーちゃん…?」



背を向けた私を包むように、
彼は私を抱きしめた。



「あーちゃんよしよし。私、どこにもいかないよ。」




「でも俺はおまえの名前も知らない。」




「んー、そっか。じゃあ、名前付けてよ。今からその名前でいいかなあ。」



しばらく経ってからあーちゃんは青白い光の中でぽつりと、


「ふうか」と口にした。




「風の香で、風香。風のようにつかめなくて。懐かしい匂いじゃないけど、そんなようなものを連れてくる。


ねえ風香。おまえはほんと不思議なやつだよ。俺が好きだっていったら、どんな顔するんだろうね。」




私はそっと彼の唇に人差し指を立てて笑う。



月があまりにも照らすから、
困り笑いがばれそうで。



「あーちゃん、好きよ。」


君の気持ちを無視した。
きっと、嘘でしかないから。





嘘で、あってほしかったから。

「へえ。」


でもそれは逆にあーちゃんの起こるポイントだったようで。



「もう、いい。」



その二言の後で本を開いて、
また黙々と読み始めてしまった。



「あーちゃん、ごめんね。」


そうおどけて笑って見ても、
黙々と読み進める。



どうしようもないから、
部屋を見渡す。



勉強机と、ベッド。
木の模様をした小さなタンス。
それから本棚。そしてそれに寄りかかるアコースティックギター。


どうせ暇だからと、そのまま布団に顔を埋めた。



あーちゃんの、匂いがする。





近くにいるのに誰よりも遠い。
そんな関係なんだろうねと、
自分で笑う。



惨めと言われようとなんと言われようと、結局いつまでもこの関係は続けられないだろうし。



私は、私であることも許されないんだろうねなんて、顔を上げて月に笑う。



しばらく経った頃、
あーちゃんが口を開いた。


「おまえも俺なんかといる時間を読書にでも費やしたらもっといい女になれるんじゃねえの。知らねえけど。」



「あーちゃんが知らないだけで、小説とか書いてるかもよ?こんな惨めな自分を題材にして。」


「惨め?」



「きっと私が書くなら、同情してもらえるように書くでしょ?まあ、私は自分が惨めだなんてこれっぽっちも思わないけどね。」




そこまで言ってつけたすように、



「だって、好きだもの。」


と言ってまた、顔を伏せた。




あーちゃんの手元から、
本を閉じる音が聞こえる。


「は!?いっった、何!?!?」


不意に頭を小突かれ、
また顔を上げる。

「俺の好きを無視しといてそれはねえわ。」



「でもこの先どんな風に自分が傷つけられるか、わかってるもの。」





「へえ。じゃあこのあと、俺はおまえになんていうの。」



言わなきゃいけないのも辛いな、
なんていうのが見え隠れするように笑ってしまって、でもまあいいかと彼を見めた。


私はベッドから足を出すように座り、
あーちゃんは目の前に立っていた。
私は、淡々と話す。


「あなたの好き。私の好き。」


あーちゃんごめん。


「私の好きは、恋だよ。」


あーちゃん、ごめんね。


「そしてあなたもそれは知ってるはず。そして、それを受け入れたよね。」


あーちゃん、あーちゃん。


「だけど、きっというよ。人として好きって言う意味で好きだと。そういってきたと。」


彼の顔がだんだんと歪み始める。


「あなたはそういう人だよ。現に、そう思ってるでしょ。あなたの自己犠牲も、飛んだ笑い話だよ。」


そういうと間髪入れずに、


「なーんもいえねえよ。」


と、あーちゃんは笑った。



「なんも、言えねえや。ごめんな。」



「人として好きって、投げ捨てたい?先に言われたから言いにくい?」


「そこまで分かってるなら逆に、おまえは俺に何を求めてるのさ。」


まだ何か言いたそうに立ちすくむあーちゃんにまた人差し指を立てる。



肩に手をかけて起き上がり、唇をかんだあーちゃんに、優しくキスをした。




「意地悪でごめんね。」



私の言葉なんて聞いていないかのように、彼は私の髪に手をかけた。


内側から書き上げて、
それに隠すように。



彼もまた私にキスをした。




今日、言葉にならない声が鬱陶しくて、それを彼も感じていて。



2回目の夜を迎えた。



月に照らされて、
あーちゃんの顔がチラチラと見える。




「あーちゃん、好き。」



溶けてしまいたくなるほど、
優しい風と、熱の中で。



泣きたくなるような弱さが襲うから、
あなたを少し抱き寄せた。



いまにも消えてしまいそうだから、
ただそれが怖かった。



愛してるなんて、
言うだけ傷つけるとわかっていたのに。



「好き。」


私の好きに返すように、
彼もそっと呟いて。



ごめんねの代わりに、
もう一度キスをした。



「風香、好きだよ。」


「風香、好き。」


今だから許される、
今しか許されない。


それは本気の好きじゃないと、
後で投げ捨てられる言葉で。




私が、風香になった日。
彼が、私をもう一度抱いた日。

苦し紛れに歌を歌った。
君は、背を向けて本を読む。


今日は、夜が長い。



感情が高まって泣いてしまいそうになる。喉が閉まる。



誰に届けたいわけでもないのにね、
誰に聞いてもらいたいわけでもない。



苦しくて、それを吐き出したくて。


とめどなく溢れるそれは、もう多分自分じゃどうしようもないんだろう。


もちろん、他の誰にも。




「おまえ、歌うまいのな。」



相変わらず背を向けたまま、あーちゃんは言う。



「私知ってるもんね、あーちゃんが本当に綺麗に荒々しく歌を歌うこと。」



「なんだそれ。」



あーちゃんは呆れたように笑って、
隅に置いてあるギター見た。



「それさー。ジャンク品でな。要はごみ捨て場にあったのがリサイクルショップにいってさ。五千円くらいだったわけさ。」



「うん。」



「自分への当て付けのために買ったんだわ。俺にはこいつで十分だって。人前にも出せないような、クソみたいなギターだって。」




「うん。」






「買ってみたけどアホくせえのな。」




「そう…?」




「もう慰めなくていいよ、おまえもさ。慰めて寄り添っても俺はおまえに優しくなんてできねえし。」



「そういうわけでも、ないんだよ。ごめんね。言いたいこと思ったことしか言おうとしてない。」





「もーうさ、わっかんねえかなあ。」



馬鹿にしたような、
どうしようもなく辛いのか、
よくわからない表情で、でも口元は上げて、私を見ながら。



「重い。」


私は一瞬キョトンとして、
それから優しく笑った。


「そっか。ごめんね。」




すると、あーちゃんは眉間にしわを寄せて、



「話を聞けよ。」



と言ってまた、
目をそらさない。




「お前のその俺を気づかった優しさが見え隠れする言葉自体が本当に辛い。俺は何も返せやしねえし、何より愛せないんだって。だから、」



「それでも、いいっていったじゃん…?」



「なあわかんねえかな、その優しさすら捨てようとする自分が心底いやなんだって、もういい加減捨てろよ利用されてるようにしか思えねえだろうさお前からしたら、なんで、なんなの、なんなんだよほんと、お前のアホさ加減も見てられねえよ、なんで、」




「もう、いいよあーちゃん。ごめんね。」




息急き切って、とめどなく言葉を吐き出す。


これは、自分の意思だけじゃなくてきっと、自分のわからないところで何かに潰されそうになって、そこから漏れ出してるんだろう。



話してるというよりは、
言わされてるかのような。
切羽詰まっているのが手に取るようにわかる。



だけどこれも、
彼にとっては私の被害妄想でしかないんだろうなとも。




人には人の感情と、
見方がある。


今の私には目の前の彼に抱く感情も一つではないし、だからこそ今言葉も出なかった。




「あーちゃん、ごめんね。」


足を投げ出してベッドに腰掛けるあなたの正面に立って見下ろす。



見上るあーちゃんの頬をなでて、
そっと頭を撫でた。



「あーちゃん。好きだよ。ごめんね。」




「俺は、お前を愛せない。」




私は何も言わずにただ笑った。




どんな言葉も、
きっと返したって意味はない。


だけど、だから返さなかったわけじゃない。




きっと、私の笑顔で充分に何を伝えたいかはわかっているはずだから。



「あーちゃん、キスしていい?」




「好きにしろよ。」



「あーちゃんらしいね。」



無愛想な声に笑いながら答えて、
頬に手を添える。



唇を近づけたところで胸が痛くなって、
ふと口を開いた。



「ねえ、あーちゃん。」


「うん。」


「私ね、恋人が出来たんだ。」


月はもう窓を通り過ぎていて、彼の顔はそうはっきりとは見えない。



でも、闇になれた中で、彼もまた目を見開いて、私と目を合わせようとしているのがわかった。



だからこそ、
スッとキスをした。




そしてわざとらしくくるりと回って背を向けて、にっこり笑ってありがとうだなんて言い捨てて、彼の部屋を出た。



きっと彼は、
私が手を離したら追ってはこない。
一歩を早めに階段を下りる。
流れるように玄関に手をかけて、
躊躇なく外へ出る。


これで、
「さようならかあ。」



「それは、さすがにもう無理だろ。」




振り向きそうになるのを堪えて、
出かけた涙を拭う。




「あーちゃん、どうしたの?」