叫び声がうるさかったらしく後ろに身を引いた男が、少し眉を顰めながら口を開く。

「・・・・何でこんなところで寝てるんだ?」

「へっ!?は・・・えーっと・・・」

 目は覚めたけどパ二くった私はきょろきょろと見回す。

 台所の電気だけつけて手には雑巾を握ったまま座り込んでいた。

 ありゃあ~・・・!ちょっと休憩、のつもりががっつり寝てしまったんだああ~!

「・・・あ、その・・・寝てしまったのね、私」

 わたわたと体を起こす。

 彼も立ち上がって、居間の電気をつけた。今日もラフな格好。どうやらスーツ族ではないらしい。

 時計を見るともう夜も11時半過ぎ。

 ヤツは今帰宅したところなんだろう。私はある程度の片付けを終えて、台所の床を雑巾掛けしていたんだった。

「うわ~、こんな時間じゃん!お腹、すいてるよね?」

 雑巾をバケツに投げ入れて、私が振り返ると、相手は無言のまま頷いた。

 はいはい、ちょっとお待ち下さい!

 先に食べておくつもりだったので支度は済んでいた。っつっても簡単な親子丼と根野菜の炊いたのと味噌汁だけど。

 寝ちゃうなんてどうよ~!と言いながら、バタバタと私は動き回って用意した。

 まだ勝手が判らないのはお互い様で、彼はしばらく洗面所やら自分の部屋やらをうろうろしていた。




 何がどこにあるかを確かめているらしい。最初に全部やって、後は休みたいタイプか?手を動かしながら目の端でヤツの行動を観察していた。

「はい、出来た。ごめんね、お待ちどうさま」

 声をかけるとやってきてストンと椅子に座る。

 一日働いてきた割にはあまり疲れた様子もない。

「頂きます」

 お辞儀までしたから驚いた。おお!面倒臭がりでも躾はされてるんだなあ!って。確かに、ちゃんとした家の息子さんっぽい・・・。

 私も同じようにする。

 一度寝てしまったけど、私もお腹が空きまくりだった。

「・・・いきなり人の住む家になったな」

 前でヤツが呟いた。私は顔を上げる。だけどヤツはご飯に集中していて視線は合わなかった。

 無口ってわけでもないのか。よかった、会話にはなりそうで。私は嬉しくお味噌汁をすすって、そうそう、と話す。

「洗面所とお風呂はバッチリでしょ?何かリクエストある?使ってるシャンプーとか、こだわりあるなら買っておくよ」

 首を振った。・・・何でもいいってことか?ならパパイヤの香りとかにするぞ、コラ。

 このダレ男からパパイヤの香り。想像して、つい味噌汁を噴出しそうになった。

 そしてしみじみと考える。

 この漆原大地って男は、真っ直ぐに立つ。姿勢も別に悪くないし、歩みが亀のようにノロイ、とかでもない。だけどもいつでもだらだら~っとした雰囲気があるのは何故?




 喋り方?長めの前髪?口癖の影響?表情がないから?でもそれだと怖い雰囲気になるような・・・別に怖くないしな。邪魔じゃないって感じ。存在感は薄めで・・・何しか、だれだれ~・・・

 一人で考えて込んでいると、前から噂の男が声を出した。

「・・・お金」

「へ?」

「給料、4分の3てやつ」

 ヤツは前髪の間からちらりと見た。

 私はうん、と言ってお箸を止める。やっぱり苦情出るのか?自由に出来るお金もっと欲しいのかな。一般的なダンナ族のお小遣いってどのくらいなんだろ。でも正しくはお小遣いじゃないしな―――――――――

 黙ったままの私に、ヤツはぼそっと言った。

「計算して入れるの面倒くさいから、管理任せる。俺の分、給料日のあとに一括でくれたらそれでいいから」

「え」

 私は止まった。・・・いや、それじゃあ同居人じゃないでしょうが。ってか軽く責任放棄?てめえの金だろうがよ。

「いや、でも。私も同じようにするんだし、君の方が出すの多いんだし・・・他人をそんなに信用したらダメよ、漆原君」

 つい言ったら、面白そうな顔をした。

 あら、そんな顔も出来るんだ。はっきりした表情あるの初めて見たかも~、私はちょっと興奮する。




「・・・他人。まあ、言いたいことは判るけど。でもそうしないと振り込むのとか引き出すのとか俺忘れると思う。それじゃ困るだろ?」

「困る」

「じゃ、管理宜しく」

 ・・・あれ?私がするって決まっちゃった?ばたばたと瞬きをした。

 え?どこからヤツ主導になった?あれ?

 目の前でご飯を食べる男を、私は若干見直した。この人、奥が深いかも、と思って。

 深夜の晩ご飯を食べ終わるとヤツは自分で食器を流しに運び、そのまま通帳と印鑑とキャッシュカードを一揃え私の前に置き、お風呂入るぞ、と言って行ってしまった。

 私は、はーい、と後ろから言った。

 風呂は沸かしてない。ヤツが沸かすんだろうな、きっと。さっき洗面所見てたついでに中も覗いただろうしな。

 私も食器を流しに運び、もう片付けは明日で、と決めて、今日用意したばかりの大きめのホワイトボードを壁に貼り付けた。

 そして、専用のマジックで書く。

「都:4月4日の予定」

 バイトの時間と連絡先も書いておいた。ま、初めだし。

 昨日決めた事項をヤツが覚えていれば、明日のご飯の有無をここにかいてくれるはず。

 台所の電気を消して、伸びをした。

 お風呂も明日にしよ。手と顔だけ洗面所で洗って。

 やっと、一日が終わった。




 そんなわけで、ただ何となく始まった同居生活は、1ヶ月くらいが過ぎると、もう完全にその状態が日常生活になった。

 同居する相手が父と母からヤツに変わっただけでOL時代は一人暮らしだった私は、結構快適だった。

 なんせ、やつは両親みたいに干渉しない。

 勿論小言もない。

 そして、相手が欲しい時には話し相手になるくらいの会話はある。

 お互いが好きなように淡々と落ち着いて毎日を暮らしていた。

 平日も休日も別々だったし、最初は戸惑ったそのすれ違い生活も、慣れてしまえば「同居ってこれか!」と思う気楽さがあったのだ。

 私は予定通りに居酒屋のバイトを辞め、昼間の歯医者の受付の仕事を少し増やして貰った。だけどそれでは時間が余るから、部屋を改造したり緑を育てたりした。

 OL時代、妻がいる上司と過ごせない休日は、ベランダガーデニングで心を慰めたものだった。

 そんな記憶は思い出したくはないが、緑に責任はないし、実際のところ、土いじりは心が安らぐ。しかも今の私には収入を心配する必要がないって好条件があるのだ。

 就活をやめたわけではなかったけど、経済的にも心理的にも余裕が違った。

 アパートの2階で庭なんか勿論ないけど、大家さんに許可を貰えたので、アパートの廊下の端で自宅玄関前に小さな収納棚を置いて鉢植で植物を育てている。

 ハーブや、ミニトマトなどの食べる系や、サボテンやベゴニアなどの観賞系を色々と。




 ヤツは意見も文句もなかったから、ご飯も一緒に食べられるときは一緒に食べ、それ以外は友達と外食したり、一人で気ままに食べたりしていた。

 両家の親戚筋からはお祝いが届いたりして気を遣ったけど、それは両方の母親が一緒に対処をしてくれたし、友達や知人には別に結婚そのものを知らせなかった。

 必要がなくて。

 写真も撮ってないから、結婚しました葉書を敢えて送るのもどうだかな~と思ったのもあるし、ただ単に、いつまで続くか判らないから、というのもあった。

 ゴールデンウィークも目前の頃、私は平穏な毎日に浸りきった状態で、アパートの郵便受けを開けたのだ。

「おっと・・・」

 新聞の間から葉書が一枚零れ落ちて、足元を滑る。

 屈んで指で拾い上げたら、漆原の名前がつく男性の方からの、法事の案内だった。

「・・・法事」

 人事みたいに思っただけだった。その時は。ヤツも大変ね~、せっかくの連休に法事なんてね~って。ゴールデンウィーク後の日曜日だった。

 私は、形の上では夫婦なんだってことを完全に忘れていたのだ。だから、漆原家の法事には勿論私も出なくてはならないってことが、頭から抜けていた。

 その余りにも当たり前の事実が頭の中を駆け巡ったのは、ヤツの母親から電話があったからだ。

『都ちゃーん、元気~?』

 うちの母親の学生時代の親友である漆原冴子さんの華やかな声が聞こえて、私は電話で笑ってしまう。




 明るく積極的な人なのだ。本当にあのダレ男の母親か?と何度か疑ったことがある。

 親友の娘ってこともあって、初めから気安く接してくれていた。今ではご飯のレシピなどは自分の母親よりもこっちの母親に聞くことのほうが多いくらいだ。

「はい、元気ですよ~。彼は今いませんが、ご用ですか?」

 未だに呼び方が判らなくて、親御さんの前では大地さんとか彼とか曖昧にもごもごと呼んでいる。ヤツも私のことは名前で呼ばないからお相子だけど。

 二人とも、用がある時は、おーい、とか、ねえ、とか、そんな呼びかけだ。

 法律上は義理の母親である人もコロコロと笑った。

『違うの、あの子に言ってもどうせ反応ないから、都ちゃんに言っておこうと思って』

 何の気構えもなしに、はい何ですか?と私は聞いた。

『法事の案内、来たかしら?』

 ああ―――――、と私は新聞を退ける。葉書を手にして、はい、と返事をした。

「今日来てました」

 言いながら葉書をひっくり返す。これはヤツにきたものだからとちらっと見ていただけだった。

 電話の向こうで朗らかな声が言った。

『これ、法事自体は13回忌だからそんなに大きくしないんだけど、この時に都ちゃんのお披露目を兼ねて集まるらしいのよ~。宜しくね~』

 ―――――――――何ですと???




 私の目は漫画みたいに点になっていたに違いない。

 本気で一瞬視界が狭まったもの。

 ・・・ええ?お披露目?何を?誰に?

 巨大なクエスチョンマークを頭の上にぶち上げて、私は何とか声を出す。

「・・・はい、ええーっと・・・え?お披露目、ですか?」

『そうよ、大地の嫁さんを見たいって。式も披露宴もしてないし写真も送ってないから、ちゃんとした紹介が出来てないでしょう』

 耳の奥で義理の母親の声がこだました。

 ・・・・ひょえええええええ~!!!

 しょ、しょ、紹介なぞいりませんんんんん~!!見て貰うような外見じゃあないし、もう、そんな、結構ですうううう~!!そんな、ワタシ、そういう意味では嫁ではありませんから!ただの同居人なんです!そりゃあついでにヤツの下着は洗ってるけど、でもその中身を見たことはないんですうううう~!!

 パニくって頭の中でまくし立てる。後で考えたら口に出さなくてよかった、て内容だった。

 危ない危ない・・・。

「・・・あ・・・あの~・・・ええーと・・・。つまり、私も参加、ですか?」

 恐る恐る問いかける。だけど答えは判りきっていた。

 だって、嫁なのだ!!




 必死でヤツのお母さんが言うことをメモした。手が震えて酷い字になった。日時、持っていくもの、心構え。彼にその日は空けておくように言う事。はいはい、お供えは用意してくださるんですね、ありがとうございます、はい。

 毎日快適かどうかの確認をして、じゃあね~と華やかな声でヤツの母親は電話を切った。

 私はずるずると座り込む。

 ・・・・マジで。嫌なんだけど、漆原家の親戚一同に会うのなんて。

 愛のない結婚のうんざり、二個目はこれだわ。

 あーあ。


 8時過ぎに帰って来たヤツの反応は、いつもの通り淡白だった。

「・・・ふーん」

 私はじろりと前に座ってご飯を食べる男を睨む。

「ふーんじゃないでしょうが。お披露目なんて嫌よ~」

 ぐだぐだと言いながら本日のメニュー、ロールキャベツを口に突っ込む。

 ヤツはお茶を飲みながら顔を上げて、首を傾げた。

「・・・行かなきゃいいんじゃないか?」

「そんなわけにいくかい!!」

 アホか、あんたは!机をバンと叩く。どこの世界に顔を見せたくないからと法事をさぼる息子夫婦がいるのだ!それが通じる家出身ならわざわざ葉書で案内なんか出さねーんだよ!