どうして俺は、橋から落ちそうになったクロを助けようとしているのだろうか。
 引きあげたら酷い目に遭うかもしれないのに。ピヨが食われるかもしれないのに。
「てめえボロス! 今更、俺に恩でもうるつもりか」
 予想通り、クロは自力で欄干にしがみつきながら、俺に怒りの咆哮をぶつけてくる。
 ほらな、クロはこういう奴なんだよ。けど、やっぱりどんなことがあっても、曲げられない気持ちってあるもんだろ。
「ああっ、くそっ、黙ってろ。目の前で嫌なの見たら、目覚めも悪いし、朝飯も美味しく食えないだろうが! 助かったら助かったで、好きなようにしやがれ。その後のことは、俺は知らん」
 前にも言ったが、俺さまは平和主義者だ。よって、言葉の通りである。後のことは知らない。けれど、目の前で死の危険にさらされている奴を見殺しにはできない。
「お前なんぞに助けられるなんて、俺のプライドが許さないんだよ」
「プライドなんかで、お前は好意も踏みにじるんだな。じゃあ、勝手にしやがれ。俺も勝手にする」
 そこでクロが反論してくると思いきや、突然、静かになる。暴れるつもりもないようだ。これなら、何とか引きあげることが――と思ったが、簡単にはいかないことに気づいた。
 クロは俺より体が大きいから体重も重い。それなので、俺が引きあげるには力が足りない。クロも事の深刻さに気づいたのだろう。雨が降ったせいで、欄干が滑るようになっているのだ。
「くおおっ、この野郎、持ちあがれ」
 気合いの言葉の成果は見られず、俺も徐々に欄干の端に引っ張られていく。
 これやばいぞ。このままだと俺までクロと一緒に落ちるんじゃないか。
「……しやがれ……せないんだよ」
 その時だ。クロが小さな声で何かつぶやいた。
「何だって? そんな小さな声じゃ聞こえないし、今は取り込み中だから、聞く余裕なんてないぞ!」
「もういいから、手を離しやがれ。お前が俺と一緒に落ちるなんて、俺は許せないんだよ」
 思いがけないクロの叫びに俺は驚いた。
 投げかけられた言葉は俺がクロを助けようとする行動の否定だ。しかし、今度は違う。俺が落ちることも嫌悪しての遠回しの叫びだ。
 その時だ。背中に何かが歩くような感触に気づく。そして、その感触は俺の目の前に降り、クロの古びた首輪をくわえていた。
「ピヨ! よし、いいぞ。このまま一気に引き上げよう」
「ピヨッピッピピヨッピー」
 ピヨがクロの首輪をくわえたまま、思いっきり力を入れて反り返る。しかし、そのピヨの尾羽が俺の鼻に当たっていた。鼻が、鼻がこそばゆいぞ。
「ふっ、ふえ……ふえっ……ぶえっくしょん!」
 俺がくしゃみをした瞬間、ブチッという音が響く。同時にピヨが後ろにひっくり返り、俺の顔に思いっきり衝突した。
「はぶっ! 鼻が痛い……おい、ピヨ。俺の鼻、ペルシャ猫のように潰れてないよな?」
 俺の鼻をじっと見てから、ピヨが首肯する。鼻血が出ていないかと心配だが、今はいい。それよりも、クロを引きあげないと。と思ったら、とんでもないことに気づいた。
 ピヨが俺を見ているということは、クロを離したということだ。ということは、さっきのブチッという音は、首輪が切れた音か。そして、俺の両手が空いているのは――。
「……って、離しちまったあ!」
 クロの悲鳴がフェードアウトしていたのはそのためか。慌てて下を覗きこむと、クロがもうすこしで着水するところだった。
 すまないクロ。わざとじゃないんだ。これは不可抗力なんだ。見ると目覚めが悪そうで目を閉じる。しかし、いつまで経っても着水音がしない。
「ピピヨッピーピーピッ!」
 代わりにピヨが、これでもかってくらい煩く鳴いている。こんなピヨの鳴き声ははじめて聞く。もしかして、下では物凄く悲惨な光景が展開されているのではなかろうか。
「おおいっ、ボロスくん。顔をあげてくれ。そして、こいつを引き取ってくれないか」
 俺が震えていると、あらぬ方向から、じいさんの声が聞こえた。俺の目の前には何もない。それなのに俺の目の前から声が聞こえる。
 恐る恐る目を開けてみると、クロがじいさんに乗った状態で宙に浮いていた。
「うえええっ! 猫って飛べるのか。どうやったら飛べるんだ」
 自分でも馬鹿なことを聞いたと思う。有り得ないからこそ、有り得ない問いをしてしまったのだ。
「ああ、わしは特別だからな。言ってなかったっけ、幽霊だと。そうか、教えたのはピヨくんだけにだったか」
 ピヨ語は俺に通じないから、重要なことが伝えられなかったということか。いや、そもそもピヨは生まれたてのヒナだ。幽霊と聞いて、意味がわかるはずもない。
「……って、幽霊! 幽霊って足があるのか。三角頭巾はしてないのか。物が持てんのか」
「あー、順に説明するよ。それよりクロくんを」
 都合が良いことにクロは、じいさんの背の上で気絶している。これなら喧嘩をうられることもないし、秘密の話も聞かれないから安心だ。
「ボロス、わしはお前さんの父親だよ。だから会いにきたんだ」
 クロを地面におろすと、じいさんはとんでもないことを言いはじめていた。