あの日のきみを今も憶えている

美月ちゃんが目覚めたのは、真夜中のことだった。


「ん……、あれ。ヒィ?」

「起きた?」


私は、机に座って、壁にかかる『エトワール』を眺めていた。
カーテンの隙間から差し込む月の光の中で、たおやかな踊り子が舞っている。


「あたし、寝てたんだね」

「うん」

「そっか」


床に寝ていた美月ちゃんは、ゆっくり体を起こす。
それからふるりと頭を振って、ため息をついた。


「話の途中で寝ちゃった、んだっけ」

「うん」

「そっかそっか」


起き上がった美月ちゃんは、その場で膝を抱えて座った。
机の前にいる私を見上げる。
私は、そんな彼女を見つめた。
少しだけ、見つめ合う形になる。


「言いたいことがあるのね、ヒィ。そんな顔してる」

「……穂積くんが、言うの」

「うん?」

「ミィには、タイムリミットがあるんじゃないか、って」


声が少しだけ震えた。


「四十九日。それがこの世に居られる期限かもしれない、って」


もし、穂積くんの言う通りならば。
美月ちゃんとは一緒にいられるのはあと僅かしかない。

そのことに目を逸らして、見ないことにはできない。
失ってからでは、遅すぎる。
美月ちゃんが、ふっと視線を逸らす。


「そんなこと、ないよね。ミィ」

「……その話か。うん、あたしも、そう思ってる。多分、穂積くんの言う通りだ」


足元から、何かが崩れ落ちていく音を聞いた。
「あたし、よく寝るじゃない?
最近、それが『寝る』という言葉が当てはまらないんじゃないかって言うくらい深いの。
深い深い、音もしない水底に沈んでしまう感じっていったらいいかなあ」


美月ちゃんは続ける。


「最初は、ヒィの体を使うことってすごく疲れるんだな、っていうくらいしか考えていなかったんだ。
だけど、だんだん怖くなってきた。
もしかしたら、眠ったまま永遠に目覚めなくなっちゃうんじゃないかって」

「だから、私の体に入らなくなったの?」


思い当たって訊くと、美月ちゃんは頷いた。


「まあね。こういうの、延命対策っていうんだっけ?
最初はまあ、そんな感じで。
だけど、入らなくなっても眠りはどんどん襲ってきたから、意味ないんだって分かったけど」


肩を竦めて言う美月ちゃんの声は、どうしてだかさっぱりしていた。


「終わりが近いんだって、気付いた。そして、それがいつかって考えた時、四十九日目なんだろうなって。
死んだ人は四十九日間だけこの世をウロウロできるって、昔おばあちゃんに教わったし」

「どうして、それを言ってくれなかったの」


対して私の声は、かさかさに乾ききっていた。
かすかに震えて、私の方が死にそうだ。


「言おうとは思ったよ。でも、ぎりぎりまでは、黙っていたかった。普通通りに、過ごしたかったから」


美月ちゃんは、壁にかかったカレンダーに視線をやって、「8月31日」と言う。


「夏休み、最後の日。それがあたしの、この世での最後の日になると思う」

「それは、どうしようも、ないの……?」

「うん、きっと。やだ、ヒィ泣かないで」


美月ちゃんが私を見て立ち上がる。


「泣かなくていい。あたしはまだここにいるし」


ね? と笑う美月ちゃんに、首を横に振る。


「やだよ。私、美月ちゃんと一緒に居たい。もっとたくさん、もっと、いっぱい」


美月ちゃんが、笑みを引っ込めた。困ったように眉尻を下げる。


「私、どれだけでも体を貸す。なんでもする。だから、これからも一緒に居たい」

「……ヒィ、その気持ちは嬉しい。とっても、嬉しい。でも、あたしの気持ちも分かって」


美月ちゃんが私に手を伸ばす。
細くて白い手は、私の頬をすり抜けた。


「……ヒィにしか見えない。声も届かない。触れられない。大好きな人が倒れても、何もできない。『好き』ってたった二文字も、自分の口じゃ伝えられない。そんなのもう、嫌なの」

「ミ、」


手がするりと離れる。
その手をぎゅっと握りしめて、美月ちゃんは視線を落とした。


「あたし、告白するよ。
だんだん、自分が嫌な子になっていってたの。
あーくんと笑い合えて、なんてことない会話ができるヒィが、羨ましいって思ってた。
ううん、羨ましいなんてものじゃない。
……妬ましいって、思うんだ」


握りしめた手が震えている。美月ちゃんはこぶしを見つめたまま続けた。


「……馬鹿だよね。
ヒィはこんなにもあたしのこと考えてくれる。何でもしてくれる。
なのにあたしは、ヒィのこと、ズルいなとか、いいなとか、考えちゃうんだよ。
あたしにはもう何もないのに、ヒィは何でも持っている。


家族も、友達も、体も、命も、……未来も。

あの、たった一瞬で、あたしは全部を失ったのに。
ヒィは、持ってる。


それが、眩しいくらい羨ましくて、妬ましいんだ」

「ミィ」

「ほんとに、笑えるくらい馬鹿でしょ。でも、どうしようもないの」


ぽたりと、美月ちゃんのこぶしに涙の粒が落ちた。


「さっきだって、そう。ヒィがあーくんのこと好きだって分かった時、あたしがまっさきに何を考えたか分かる?
すごくどす黒い気持ち。
あんな汚い感情が自分の中にあるなんて、思いもしなかった」

「そんなの、仕方ないことだよ! 私みたいな存在を知ったら誰だって、嫌になる」


美月ちゃんは首を横に振る。


「そのあとヒィの気持ちを知って、あたし、なんて恥ずかしいんだろうって、思ったんだ。
こんなに心が綺麗な子にここまで想われてるのに、なのにあたしは、何を考えてるんだろうって。最低だよ」

「ミィ、そんなことない。私は」

「ううん。あたしはこれ以上、自分のことを嫌いになりたくない。ヒィに好かれている自分を堂々と好きでいたいの。だから、わかって」


美月ちゃんは、絞り出すようにして叫んだ。


「あたしは、自分が本当に嫌な女になる前に、この世から去りたいの……!」


涙の粒は美月ちゃんの手に幾つも降る。
それはつう、と流れ、手から零れ落ちる。

だけどそれは、フローリングに落ちる前に、消えた。


「ねえ、彼に伝えて」



5.花のために、星に祈りを









君という花が
永遠でありますようにと
月に
星に
全てに祈るよ
そしてまた
咲き誇る日が来ることを
信じてる





私たちの目の前には今、びっしりと予定の書かれたレポート用紙が置かれていた。
8月30、31日での、サマーキャンプの計画表である。


「ドキドキ★サマーキャンプって、なあ……」

「支度にあと一日しかないんだけど」


レポート用紙を覗き込んだ男の子二人が、呆れた口調で言う。


「ちょっと、文句言わないでよ! このあたしが、行きたいって言ってるんだから!」


定位置と化した、食堂の端っこ。
私の体を支配した美月ちゃんが元気よく二人に声をあげた。


「キャンプ場はここから近いし、さっきコテージの予約もとった! これだと、支度なんてたいしたことないよね」

「ええっと、何か、はりきってるね、美月ちゃん」


穂積くんが驚いたように言うと、美月ちゃんは深く頷く。


「もちろん! だって、行きたいんだもん。あーくんは、文句ある?」


ふん、と胸を逸らして言う美月ちゃんに、誰がノーと言うだろうか。
男の子二人は彼女の勢いに押されて、「かしこまりました」と答えた。


「お気に召すままに、美月姫さま」

「あ。なんだか穂積くんから、そこはかとない見下し臭を感じる」

「まさかまさか。本当に、楽しみだよ」


クスクスと笑った穂積くんが、予定表を摘み上げる。


「だって、夏の総仕上げって感じだ。ねえ、杏里」

「ああ。こういうの、嫌いって訳じゃない」


結局、二人とも好きなんだ。
最終的には、二人で予定表にガリガリ書き込みを入れて、ああでもないこうでもないと言い合いになった。

私は勝手に持っていく物を指定され、どころか意見一つ言う間もなく集合時間まで決められた。
おい、張り切りすぎだろ。

男の子たちは美月ちゃんが私の体から強制排除され、眠りに落ちた後も話し合いを(勝手に)続け、とにかく明日の30日からキャンプに行くことになったのだった。


「やばい、楽しみだな」


書き込みで黒ずんだレポート用紙を覗き込んで園田くんが笑う。


「夏休みの、最後の思い出だもんね」

「おう!」


途中、穂積くんがトイレに席を立った。
二人きりになった私たちは少しぬるくなったジュースを飲みながらキャンプの打ち合わせをする。


「なあ、ヒィ」


と、ふいに園田くんが声音を落とした。


「ん? なあに、園田くん」

「美月がこんなことを言い出したのは、何でなんだ?」


笑顔が、凍りついた。


「美月があんな風に妙に張り切ってるときは、辛いときなんだ。
キツイの見ないようにして無理すると、あんな感じになる」


下を向いていた園田くんが、私を掬うように見た。
その、探るような目に射抜かれて体が強張る。
言葉を、呼吸すら見失った。


ああ、美月ちゃん。
園田くんは、美月ちゃんのことを、とてもとても、よく分かってる。
下手な嘘がつけないくらいに。


「……えっと、白状すると、実は、私が行きたいって言ったんだ」


無意識に、口を動かしていた。
園田くんが、驚いたように口を開ける。


「は? ヒィが?」

「そう。あの、私、実はそういう友達との夏の思い出って全然なくて。
そんな話をミィにしたら、あたしに任せて、って……」


モグモグと言う。すると、園田くんは「そうなのか」と呟いた。


「うん。今まで、本当にそういう経験なくて、さ」


そっと俯く。
それは、恥ずかしい告白をしている照れでは、ない。

園田くんに、私の嘘を見抜かせないため。


私は、美月ちゃんと一つだけ約束をした。

約束とは、彼女がこの世から消えるその時まで、園田くんに事実を告げないこと。
別れを、感じさせないこと。


『あーくんには、あたしがこの世からいなくなることをギリギリまで知らせないでほしい』


昨日の夜、美月ちゃんはそう言った。


『あーくんに引き留められたら、あたしは逝けない』


部屋の中に、月明かりが差し込む。
その光の中で、影を生み出さない美月ちゃんは寂しく笑った。


『いつまでも、逝けない。
だから、さよならって言って、終わりにしたいんだ』

『ミィ……』

『誰にも言えない、最後のお願いだよ、ヒィ。
明日からの残りの三日間を、あたしにちょうだい。
なんてことない、でも最高に幸せな日を、あたしにちょうだい。
我儘だと思う。だけど、最後だと思って、きいて』


ああ、美月ちゃん。
私は、そのお願いをきくよ。


『三日間、あたしは精いっぱいできることして、満足していなくなることができたらなって思う。
あーくんのことが大好きで、ヒィや穂積くんも大好きで、そんな人たちと笑って過ごす。
そんな三日を、あたしに下さい』


きくよ、きく。
あなたの願いを、私は。

それが、誰もが間違いだと言ったとしても。
それが、好きな人を悲しませるかもしれない嘘であったとしても。

だって、これ以上辛い思いをさせたくない。
私は美月ちゃんが、美月ちゃんの笑顔が本当に、好きなんだ。

その花のような笑顔がいつまでも咲いていて欲しいと思うくらいなんだよ。

だから私は、嘘をつく。


「多分、美月ちゃんは私に同情してくれてるんだと思う。それで、今回の企画なの」


園田くんに少しも違和感を与えたくなくて、俯いたまま言う。


「そんなこと、ねーだろ。でも、それなら納得」


ポン、と頭に手が乗る感覚があって、顔を上げる。


「俺だって、そんな話を聞いたらめっちゃ張り切るもんな」


園田くんが、笑っていた。


「全力で、一生忘れられない思い出刻んでやる。美月の気持ち、すげえ分かる。ていうか、ヒィは夏の思い出がないなんて悲しい事言うな」


園田くんが、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「俺も、気合入れるわ」

「わ、わあ! もう、髪が乱れちゃうじゃん!」


ぷう、とほっぺたを膨らませてみせて、その胸の中でもやもやが広がっていく自分。
嘘が通ってほっとしていて、そして、騙した罪悪感。


「夏休みが終わってもしばらくは暑いし、まだ夏っていえる。どっか行きたいなら、みんなで行こう。海にする? プールがいいか?」


ニコニコと笑う顔に、泣きそうになる。

私は、なんて弱いんだろう。
もう、仮面が剥がれそうになる。

だけど、美月ちゃんの寝顔をみて、気を奮い立たせる。


「いや、キャンプだけでいい。あんまり色々経験すると、知恵熱出ちゃいそうだもん」


へらりと笑うと、園田くんも笑う。


「ヒィはホントにインドアだな」

「ええ? こういうのもインドアって言うの?」


嫌われてもいい。恨まれてもいい。
きっといつか、園田くんは分かってくれる。
彼女の選択が、どうしようもなかったことを。

私は、必死に笑顔を張り付けた。