最も有名な物は「広式」と呼ばれる広東省のスタイルで、柔らかめの餡や皮を用い、茹でた鹹蛋(xiándàn; シェンタン。アヒルの卵を塩水に漬けたもの)の黄身を入れたものに人気がある。小豆餡の他、ハスの実の餡やナツメ餡なども一般的である。一方、北京など北方の物は一般的に水分が少なめの餡を使い、クルミや松の実などのナッツを入れたものが多い。一般的に砂糖を多く含む他、ラードなどの油脂分も含むため、見た目以上にカロリーが高い菓子である(新クイズ日本人の質問の中で、うな重に匹敵するカロリーの菓子として紹介された)。
水分が少ない分、保存性は比較的高いが、これは元々大きなサイズのものを少しずつ切り取りながら食べていた為で、最近では小型なものが一般的になり、また香港では、アイス月餅など新しく作られたバリエーションが豊富である。古代の月餅はお供え物として中秋節に食べられていた。しかし時の移り変わりとともに、月餅は中秋節の贈り物に用いられる食品へと変わっていった。中秋節に月餅を食べる習俗は唐代に出現した。
『洛中見聞』によれば、唐の僖宗は中秋節に御膳房に銘じて新科の進士に紅綾で飾った餅を賜ったという。北宋の時には、このような餅は「宮餅」とよばれ、宮廷內で流行した。やがて民間にもつたわり、当時は「小餅」や「月團」と俗称された。北宋の詩人蘇軾は「小餅如嚼月,中有酥和飴」と書き残している。この中の「小餅」はつまり月餅であろう。「月餅」という言葉は最初に南宋の呉自牧の『夢梁録』に現れた。当時の月餅は菱葩餅のような形をした食べ物で、後に円形を型どり、団円を寓意するようになった。
明代の田汝成の『西湖遊覧記』に"八月十五謂之中秋、民間以月餅相饋、取團圓之意。"と記述がある。ここから月餅が当時民間で流行していたことが分かる。清代にはすでに月餅の作り方を詳細に述べた書籍があった。清の楊光輔は「月餅飽裝桃肉餡,雪糕甜砌蔗糖霜」と書いている。
伝説によれば、元代の漢人はモンゴル人の支配下で苦しみ、朱元璋は反元の旗を掲げた。しかし元軍の監視が厳しく、反乱軍が連絡を取り合うことができなかった。よって劉伯温の献策により、中秋節に中に「八月十五殺韃子(八月十五日にモンゴル人を殺せ)」と書いた紙の入った糕餅を送り合い、反乱の合図とした。
別の伝説によれば、清代の台湾で反清運動をするとき、月餅に紙を入れて反清復明の合図とした。