武士が自分の感情を抑えきれず、野沢恵子の名前を大きな声で呼ぼうとしたとき、目の前の信号機は、青から赤に変わり、信号待ちをしていた車が、一斉に走り出した。


道路の向こう側にいる野沢恵子の姿は、次から次へと走っていく車に隠れ、武士からは見えなくなった。


あの女性は、本当に野沢恵子だろうか?


理屈では、そんなことは考えられない。


でも武士には、あの女性が野沢恵子だという確信があった。


今、自分の目の前に死んだはずの野沢恵子が立っている……。


武士は、いったい、どれくらいの時間を待っていただろう。


何十台もの車が武士の目の前を通り過ぎ、やっと視界が開けたそのときに、あの野沢恵子の姿は消えていた。


彼女は、どこに行ったのか?


本当に彼女は、そこに存在していたのだろうか?


武士は、しばらくの間、野沢恵子が立っていたはずの場所を見つめていた。


彼女は、自分に何かを伝えたかったのだろうか?


それとも……。


武士は背中に寒気を感じ、身震いすると、その場を離れた。


〈 何か不吉なことが起きなければいいのだけど…… 〉


武士の頭の中に、ふと、小夜子と百合子の顔が浮かんで、消えた。