きみと駆けるアイディールワールド―青剣の章、セーブポイントから―

 のどが渇いて目が覚めたのは、夕方だった。午後五時過ぎだ。あたしは起き上がって、ベッドサイドのタンブラーの水を飲んだ。
 今回の発熱は、アレルギーの影響じゃなくて、疲れがたまっていたんだろうと思う。あたしの体はもろい。幼い子どものように、すぐに熱を出す。
 熱が上がるのはあまり怖くない。眠って、やり過ごせる。あたしがいちばん怖いのは、のどの湿疹《しっしん》。かゆくなって腫れて粘膜が傷付いてしまったら、歌えない。唄を取り上げられてしまえば、あたしは生きていけない。
 あたしは目を閉じた。まだくっきりとした記憶がある。長い長い夢だった。
 夢の中では幸せだった。お花見をして、川べりを散歩して、道場へ行って、源さんの料理を手伝って。
 でも、象徴的だった。みんな一足先に歩いていく。あたしは追いていかれそうになる。斎藤さんだけがあたしの隣にいた。あたしを導いて、守るように。
「沖田さんも、先に行ってしまう」
 ああ、そうだ。朝綺先生に連絡しないと。
 あたしはコンピュータを起動した。昨日ログアウトした形のまま、スリープ状態だ。ゲームアプリ『PEERS’ STORIES』は開きっぱなしで、リップパッチとコントローラも置きっぱなしだった。
「沖田さんのせいで、熱が出たんですよ」
 セーヴデータのアイコンに愚痴を言ってみる。
 沖田さんのせいなのに、夢の中では知らんぷりで、謝りもせずに笑っていた。むしろ、斎藤さんのほうが遠慮がちで、申し訳なそうな表情をしていた。
 胸が切なくなる。沖田さんの笑顔も、斎藤さんの手のひらも。
 あたしはピアズのサイドワールドに入った。メッセージボックスを開いてみる。新着が一件あった。
 from : Laugh-Maker
 朝綺先生からだ。メッセージを開いてみる。

〈体調、大丈夫か?
 18:00までに返信がなかったら
 今日は本編を進めないことにする
 18:00より前にメッセ確認できたら
 インする/しないの返信よろしく
 無理はするなよ〉

 返信のタイムリミットまで一時間近くある。あたしは朝綺先生への返信を作成した。

〈熱が下がりました。
 ご心配をおかけしました。
 午後八時にログインします。
 よろしくお願いします〉

 そっけない文章だ。今日だけは仕方ない。そっけない心でいなきゃ、ログインできない。
 メッセージの宛先はラフ先生で、思い描く相手の顔は朝綺先生。不思議な感じがした。リアルの知り合いとピアを組んでいるなんて。
 ネットの世界は厳正に管理されている。リアルの戸籍と同じくらいきちんとしたIDを提示しなければ、一文字の閲覧も許されない。
 ピアズのルールは匿名性だ。現実の空間を跳び越えて、誰もが出会える世界。だからこそ、お互いに正体を隠さなければならない。個人を特定することは、追放に値するルール違反だ。
 朝綺先生との距離感は特別すぎる。テスターのバイトじゃなかったら許されない。壮悟くんがシナリオを書いていることも、本来だったら知りようがない。
 コンピュータがピコンと効果音を鳴らした。朝綺先生から返信が来たんだ。了解、という一言。朝綺先生もそっけない。
「子どもみたい。あたしも朝綺先生も、みんなも」
 幼いころ、絵本に出てくる山姥《やまんば》が怖かった。おびえて泣いて、熱が上がった。今も同じだ。物語に引きずられて熱を出した。本気で覚悟しなければ向き合えない。それほどのチカラを持つ物語に、あたしは心を奪われている。
 投げ出したりするもんか。怖くて苦しいけれど、あたしは向き合うと決めた。
 あたしは作曲ソフトを起ち上げた。
 音のない夢の中で、曲を聞いた気がする。あのサウンドを完成させたい。
 BPMは360。イントロとCメロだけ、120に減速する。ギターの伴奏は、わざと歪ませていたエフェクトを、太くて柔らかなレスポール本来の音に戻す。ハイキーで走るシンセサイザーの効果音もメタリック・トーンをやめて、かすれる竹笛の音色に。
 編曲でいつも苦戦するのはベースとドラムだけれど、今回は強いイメージが湧いた。冒頭にベースの音がほしい。ドゥン、と優しく低い響きは、心臓の鼓動に似ている。ドラムも中低音のタムをたくさん使う。熱い血潮が駆け巡る音に、それは近いから。
 あたしの書く曲は、当然ながらあたしのカラーになる。だけど、今回の曲は少し違う。あたしの体を動かして、あたしじゃない誰かが書いている。あたしひとりでは書けない唄が生まれようとしている。
 書き直した音源を再生してみる。速いBPM特有の華やかさと、丸みを帯びたギターサウンドのたくましさ、和楽器がかもし出す凛々しさ。
 ベースとドラムが耳に残る。ここにあたしの声が乗るんだ。あたしに歌える? パワー不足じゃない?
「歌ってみないと、わかりませんね」
 サビの終わりの、ドラムソロ。普通のフィルインよりも長く、強く主張するフレーズ。ラストに華やかなシンバルが咲く。
 夕食が来るまで、繰り返し聴いていた。制約だらけの夕食の後、シャワーを浴びた。ログインまでの時間をどうしようかな、と思っていたときだ。
「優歌ちゃん、今いい?」
 隣の病室の望ちゃんが、点滴の台を引きずって訪ねてきた。
「八時くらいまでなら大丈夫ですよ」
「それより前に帰るよ。八時には布団に入ってないと、叱られるもん。熱、早く下がって、よかったね」
「ありがとう。心配かけちゃいましたね」
 あたしと望ちゃんは、並んでベッドに座った。偶然ながら、パジャマは同じような水色で、お揃いみたいだ。
 望ちゃんは目をキラキラさせた。
「あのね、今日はビッグニュースがあるの。なんと、壮悟くんが院内学園に来たんだよ!」
 望ちゃんは両手でVサインを作った。確かにビッグニュースだ。何だか信じられなくて、上手に反応できない。
「壮悟くんが、院内学園に? それは、えっと、どうして急に? あたしも登校できればよかったです」
 望ちゃんがギュッと顔をしかめた。
「んー、あのねぇ。優歌ちゃんが休んでたから、来たんだよね」
「あたしが休んでいたから?」
 壮悟くんはあたしを避けているんだろうか。そんなに嫌われること、したっけ? あたしは勝手に落ち込みかけたけれど、それは違っていた。
「あのね、壮悟くんは優歌ちゃんのお見舞いに来たんだよ」
「はい?」
「壮悟くんが優歌ちゃんの病室から出てきたんだって。そこを界人さんがつかまえて、院内学園に連れてきたの」
「な……えっ、何で、あたしの病室に?」
 あたしは熱があって、眠っていて、そこに壮悟くんが来たの? 何で? 何のために? 何もされてないよね?
 あたしの焦りに、望ちゃんは気付いていない。無邪気に小首をかしげている。
「優歌ちゃんのこと、心配だったんじゃないかな。壮悟くんね、また部屋を抜け出してたんだって。だから、界人さんは壮悟くんを探してたの。二人とも、何か今日は厳しかったよ。二人で壮悟くんを叱ってた。壮悟、おれが何を言いてぇか、わかるよなって」
 望ちゃんは朝綺先生の口真似をした。寝ている女の子の病室に男の子が勝手に入ったなんて知ったら、それは当然、朝綺先生も界人さんも怒っただろう。
「あ……」
 急に、一つ思い出した。ごく短い間、夢が途切れかけたこと。そのとき、誰かがあたしに触れたこと。
 右手だった。斎藤さんの利き手じゃなかった。だから違和感があった。あれは壮悟くんだったの?
 望ちゃんは楽しそうに足をパタパタさせた。
「とにかくね、壮悟くん、お昼まで院内学園にいたの。界人さんが見張ってて、帰れなくてね。ざまー見ろ、みたいな感じ」
 あたしは望ちゃんの頬を、ちょんとつついた。
「壮悟くんより、界人さんでしょう? 望ちゃんにとって、院内学園にいてほしい相手」
「だって、界人さん、カッコいいもん! 読み聞かせとか劇とか、すごく上手だし」
「そうですね。界人さん、優しいですしね」
 望ちゃんは上機嫌になっている。ニコニコしながら、午前中の話をしてくれる。
「壮悟くんって、ムカつくんだよー。ムカつくほど頭いいの。漢字とか、ことわざとか、すっごく知ってる。それと、教科書の中身、いくつか丸暗記してた。『ごんぎつね』とか『水仙月の四日』とか」
 あ、なつかしい。新見南吉や宮沢賢治の童話。あたしも好きだった。
「壮悟くんは、勉強を教えてくれました?」
「あたしは教えてもらってないよ。勇大は教わってた。あいつ、漢字が全然できないから。理生はね、なんか妙になついてたよ」
「そっか。壮悟くん、明日も来てくれたらいいですね」
「理生が迎えに行ったら、来るんじゃない? 壮悟くんも、理生には意外と優しくしてたし」
 壮悟くんの優しい姿? 想像しようとして、失敗する。あたしが思い浮かべたのは、沖田さんだった。子どもたちに囲まれて、笑ったり歌ったりしていた。
 あたしは時計を見た。ログインの時間が迫っている。望ちゃんも時計を見て、ぺちっと自分の額を叩いた。
「いっけない! そろそろ帰らなきゃ。優歌ちゃん、バイバイ。また明日ね」
「うん、また明日。おやすみなさい」
 望ちゃんは点滴を引っ張って帰っていった。プシュッと音を立てて、ドアが閉まる。
 あたしは微笑みを消した。心を凍らせて縛る。夢見がちなあたしを封印する。今日だけは、あたしの心はログインしない。
 ピアズの中こそが現実であるかのように、普段のあたしは、とことんミユメを演じる。この弱い体も枷《かせ》にならない世界、強くて元気で人気者のミユメ、憧れるままの自分でいられる時間。
 だから、あたしはピアズが好きだ。ミユメという自分が好き。恥ずかしいくらい本気で、大好きだ。
 あたしはかぶりを振った。
 リップパッチを唇の両端に付ける。コントローラを手に取る。誠狼異聞にログインする。
「ラスボスを倒すの。多少強くても、あたしが勝てないはずない」
 さあ。
 戦おう。
 だだっ広い力場が展開された。バトルスタートのカウントダウンが切られる。
 3・2・1・Fight!
 全員が一堂に会するバトルは二度目だ。誠狼異聞に入ってすぐの、妖志士との戦い以来。あのときは沖田総司も味方だった。
 今回は、沖田総司こそが、倒すべき敵。
 ポーズボタンを解除する前に、バトルの手順を打合せしてあった。あたしはミユメに唄を発動させる。BPMは345。ミユメが配信している曲の中でいちばん速く、いちばん効果が高い。
 ニコルさんが、開始から一秒足らずで魔法を完成させる。
“賢者索敵―ケンジャサクテキ―”
 ラスボス、沖田総司のステータスが開示される。攻撃力と素早さの数値が異常に高い。ヒットポイントも、味方だったころに比べて激増。魔法耐性は弱い。理性がブラックアウトしている。
「それなりにチートなステータスですね」
 あたしはつぶやいた。指先はコマンドを続けている。補助魔法を発動。
“多重―リピート―”
“応援―チアアップ―”
 ラフ先生とシャリンさんと斎藤さん、打撃系の三人の攻撃力を上げる。一回ぶんじゃ足りない。リミットまで上げ続ける。
“多重―リピート―”
“応援―チアアップ―”
 最も素早いシャリンさんが真っ先に突っ込んでいく。
“Bloody Minerva”
 入った、と思った。目で追えないほどに速い剣技。でも、ポップアップされた表示に唖然とする。
“Miss!”
 ミス? あの速さで?
「生意気ね。刀で受けられた。ワタシと互角の速さだわ」
 ラフ先生が双剣を繰り出す。
“stunna”
 沖田総司は余裕で跳び下がる。二股の尻尾がひるがえる。
 その着地点を、シャリンさんが狙う。沖田総司は振りかぶり、右腕である刀を振るった。刃がかち合わされる。甲高い音。火花が弾ける。
「見た目以上に攻撃が重いわね!」
 悪態をつきながら、シャリンさんが吹っ飛ばされる。
 斎藤さんが斬り込む。迎え撃つ沖田総司の、突きの構え。あれは必殺剣の構えだ。三連続の刺突。
 あたしは強引に魔法を割り込ませる。
“氷壁―アイスウォール―”
“三煖華―サンダンカ―”
 三段突きの衝撃波が、氷のバリアを粉砕する。
「スキルの威力が高すぎますね。沖田総司の攻撃力、削りましょうか」
 あたしの提案に、ニコルさんも乗った。
「素早さも削ろうか。束縛魔法を試そう」
 ニコルさんは、途中だった魔法の詠唱を中断。代わりに、束縛魔法を唱える。手にした杖の先端で、緑色の珠がきらめいた。手首に巻かれた、いばらのブレスレットが、ひゅんと一振りでムチに変ずる。
“魔茨鞭撃―マシベンゲキ―”
 沖田総司は跳んで、簡単にかわした。それもニコルさんの計算のうち。もう一つ、束縛系のスキルが発動する。
“翠綿縛花―スイメンバクカ―”
 杖の先端の珠から緑色の光が湧き出した。光が、沖田総司の着地点をとらえる。
「……ああ、ダメだ。完全じゃない」
 光は沖田総司の右足にまとわりついた。でも、体の動きを封じられる前に、沖田総司は魔方陣から跳び離れた。反則レベルの素早さだ。魔法耐性がないのを、物理的なアクションでカバーするなんて。
 ニコルさんはムチを振るって、沖田総司を追い続ける。沖田総司は走る、跳ぶ、また走る。
 逃げ回る異形の剣士の前に、ラフ先生が立ちはだかった。
「ちょこまかすんな!」
 鋭いモーションで、かかと落とし。
“bugging”
 ヒット判定。初めて、まともにダメージが入った。沖田総司の足取りが乱れる。
 その隙に左右から、シャリンさんと斎藤さんが突っ込む。わずかにタイミングをずらした波状攻撃。
“Wild Iris”
“剋爪―コクソウ―”
 沖田総司の着物が裂ける。手刀が火花を散らす。小ダメージの蓄積。沖田総司の体勢が崩れかける。逃げ回る足が完全に止まった。
 このタイミングを待っていた。あたしは、詠唱済みの魔法のポーズを解除する。
“水檻―アクアケージ―”
 噴き上がる水の檻に沖田総司が触れた。完全にとらえることはできない。逃げられた。だけど、触れただけでも十分。
“氷結―フリージング―”
 濡れた箇所だけ確実に凍らせる、条件付き魔法だ。沖田総司の素早さがダウンする。運よく凍傷も負わせたから、攻撃力も削った。
 斎藤さんが何かを言いかけた。セリフを、誰かがスキップした。
「メロドラマは聞きたくねぇっての」
 朝綺先生の声がスピーカから洩れる。あたしも同じことを思っていた。
 バトルは作業だ。ウィンドウに降る矢印を叩きつぶす精密作業。速さと正確さを競い合うように、プレイヤたちはスキルを次々と炸裂させる。
 あたしの魔法が口火を切る。
“凍柱―アイシクルコラム―”
 氷の柱をいくつも突き立てて、沖田総司に縦横無尽な動きを許さない。着実に逃げ場を奪う。軌道を読んで、攻撃陣がワナを張る。
 手数の多いシャリンさん、破壊力の高いラフ先生、変速的な搦《から》め手のニコルさん。
 斎藤さんのAIはセミオートで、シャリンさんと連動させている。シャリンさんの素早さで翻弄して、すかさず斎藤さんが追撃する。そこをさらに、ラフ先生やニコルさんがたたみかける。
 こっちも無傷ではない。防御を考えない沖田総司の攻撃は、破壊力が半端じゃない。
“双烈薨―ソウレツコウ―”
 斬り下ろして斬り上げる二連撃がラフ先生を襲った。ヒット判定。直後、ニコルさんの回復魔法が発動する。ラフ先生の傷がふさがる。
「勝てますね」
 当然のことをつぶやいてみる。このレベルのプレイヤが寄ってたかって、一体のボスを相手取る。勝てないはずがない。
 突然。
 ぐにゃり、とCGが歪む。力場が揺らいだ。沖田総司のチカラが持続されなくなってきている。
 シャリンさんが剣を振るいながらつぶやいた。
「このまま押し切ればいいのよね? 形態変化なんて面倒なこと、しないでしょうね」
 ニコルさんが植物の種を飛ばす。沖田総司の肩口にヒットした。メリメリと、植物が急激に成長する。宿り木の種だ。
「索敵した感じだと、単一形態だよ。目に見えてるゲージを空っぽにしてやれば、おしまい」
 寄生する宿り木が沖田総司のヒットポイントを吸い取る。絡み付く蔓《つる》が動きを封じる。
 沖田総司が吠えた。苦しんで、いらだっている。
 力場がひしゃげる。もとの景色が戻ってくる。街道沿いの風景。斎藤さんが身を潜めていた大木。あたしの足下に、打ち捨てられた環断《わだち》。
 沖田総司が右手の刀を構える。青眼の構えと呼ぶには、切っ先が低すぎる。がら空きのようにも見える構えは、彼の癖。
 一瞬の空白。
 沖田総司が地面を蹴る。狙いは後衛。ターゲットカーソルを向けられたのは、ニコルさん。焦りの声がスピーカから聞こえた。
「まずい!」
 詠唱中のニコルさんは動きが速くない。植物系魔法に特化したぶん、物理攻撃に弱い。
 ラフ先生が沖田総司の進路に割り込む。双剣をクロスさせた防御姿勢。
「ヤベ、重い!」
 なりふりかまわない沖田総司の突進。ぶつかられた勢いに、ラフ先生がのけぞる。隙ができたところを蹴り飛ばされる。
 シャリンさんがサイドから沖田総司に斬りかかる。沖田総司のカウンターが発動。
“単焔薙―タンエンテイ―”
 重心の軽いシャリンさんが吹っ飛ばされる。コントローラを持つあたしの手に、力が入った。
「今の沖田総司、厄介なコンディションですね。ヒットポイントが減れば減るほど、攻撃力が上がる。理性が飛んだステータスの特徴です。バーサーカー状態ですよ」
 斎藤さんが沖田総司の行く手を阻む。一合、二合。打ち合わされる刀。火花が散る。
 ターゲットカーソルはまだニコルさんにある。ニコルさんが魔法を完成させた。大なぎに振り下ろされる杖。
“翠輝月刃―スイキゲツジン―”
 三日月形の光の刃がブーメランのように飛ぶ。斎藤さんと鍔迫《つばぜ》り合いをする沖田総司。かわす余裕がない。ヒット判定。深いダメージが入った。
「いや、ダメだ。まだ倒れない。攻撃力がまた上がった」
「くそ、魔法耐性が弱いから一撃でいけるかと思ったんだが」
「ニコル、あと一回よ。詠唱に入って」
「了解。この魔法、外しやすいから、足止めを頼むね」
 じわじわとヒットポイントを削っても、反撃が痛い。クリティカルヒットで、一気に倒さないといけないんだ。
 ヒット判定があった直後なのに、沖田総司の動きは鈍っていない。ラフ先生の攻撃を受け流す。シャリンさんの斬撃を弾き飛ばす。斎藤さんに斬りかかって、距離を取らせて。
 剣劇の火花が、ふっと、沖田総司から遠のいた。
 その瞬間、ターゲットカーソルが切り替わった。
 ミユメの真上に赤い警告マークが出る。
「今度はこっち?」
 沖田総司が動き出す。ラフ先生の突き出す双剣がギリギリ届かない。ニコルさんが束縛魔法を飛ばす。つかまえそこねる。シャリンさんの連撃と斎藤さんの刺突。どちらもヒットする。深手じゃない。沖田総司は止まらない。
 あたしは、ミユメの動きの鈍さを呪った。素早さの数値は、わざと下げてある。あたし自身のコマンドの速さでカバーできるから。でも、今回ばかりは敵が速すぎる。魔法も回避も間に合わない。
 ああ、だけど。一か八かの手なら。
 足下にアイテム反応がある。使えるんだ、これ。
 沖田総司が跳躍する。ギラリと光る右手の刀。
 あたしはコマンドを入力する。
“拾う→あしもと”
“装備→刀剣”
 ミユメは環断《わだち》の柄を握りしめる。スキルじゃなくて、単体向け物理攻撃のコマンド。
“単/物→カウンター”
 沖田総司の右腕が振りかざされる。踏み込んだミユメが刀を突き出す。
 ミユメはただ刀を正面に構えて立っていただけだ。沖田総司のほうから、勢いよく飛び込んできた。
 コントローラの、バイブレーション。ダメージ判定。
 カウンターがキレイに決まった。ミユメの環断が沖田総司の腹部を貫いている。クリティカルヒット。沖田総司の動きがやっと止まった。ヒットポイントがゼロになった。
「勝った……」
 息をつく。手が震えている。鼓動が速い。頬のほてりが、スッと引いていく。
 バトルモードが解除される。勝利の表示と、各種ボーナスポイントの加算。自動で振り付けられた、アバターの勝利アクション。
 むなしくきらびやかな画面を視界に映す。見えない。聞こえない。響いてこない。あたしの中が、空っぽになっている。
 やがて、ストーリーモードが再開する。
 血を流して倒れている沖田総司へと、斎藤さんが駆け寄る。その光景を目にした瞬間。
「沖田さん!」
 アタシの心がログインした。
 斎藤さんは地面にひざをついて、沖田さんを抱え起こした。ホロリと、はがれるように、沖田さんの体から黒いものが落ちる。ボロボロになった黒猫のヤミだ。
 ヤミが薄く目を開けた。金色のきらめきが何かを見ようとして、ゆらゆらと揺れた。その目は何もとらえないまま、焦点が拡散する。黒猫は青い光になって消えた。
 アタシは斎藤さんのそばに座った。目を閉じた沖田さんの、布地の裂けた着物の胸が、確かに動いている。
 ラフ先生とシャリンさんとニコルさんが駆け寄ってきた。斎藤さんは、刀傷の走った顔を、くしゃりと歪めた。
「ヤミが身代わりになった。傷も全部持っていってくれた。環断《わだち》で断って、魂が、円環から解放された。今世でいちばん救いたかった魂が……」
 そう。沖田さんの右手の甲の円環は、すでにない。
 斎藤さんの目から涙がこぼれる。泣き顔が見えたのは一瞬で、斎藤さんは沖田さんの肩口に顔を伏せた。
「沖田さん、オレたちの命は、どうして刀の道しか歩めないんだろう? まっすぐな一本道しか行けず、譲り合うことも引き返すこともできない」
 そのまっすぐな生きざまを、美しいとたたえるのは悲しすぎる。愚かと呼ぶのは簡単だから、胸が痛い。
 運命の歯車は回り続けて、誰にも止められない。誰にも変えられない。生き残れば、生き延びれば、生き続ければ、先に逝った仲間への罪悪感が募る。
 仲間の肩にすがって、斎藤さんは静かに泣いている。その背中には大きすぎるものがずっしりと載っている。声を上げて泣いてもいいのに、斎藤さんは黙って背負おうとする。
 ふと、足音が聞こえた。
 斎藤さんが顔を上げて振り返る。アタシもつられて、そちらを向いた。
「どうした、斎藤? 争う声と音がしていたようだが」
 駆け付けてきたのは、土方さんだった。野戦で汚れた格好をしている。研ぎ澄まされた厳しい表情、戦いの中でギラつく本気の男の顔が、前にも増して、土方歳三という人の美しさに彩りを添えている。
 近藤さんを喪った今、土方さんが指揮官だ。土方さんはアタシとラフ先生を見て、目を丸くした。
「ミユメとラフ? なぜこんなところにいる? 総司はどうした?」
 言い終わるかどうかのところで、土方さんは、斎藤さんに抱えられている沖田さんに気付いた。土方さんの顔色が変わる。
 斎藤さんが目を伏せた。
「土方さん、すまない。オレが沖田さんの最期の願いを奪った。一緒に戦うために、死を覚悟で来てくれたのに」
「総司は……」
「まだ生きている。眠っているんだ。次、目覚めるかどうか、もうわからない」
 土方さんはアタシを見た。
「ミユメとラフが総司をここへ連れてきてくれたのか?」
「はい」
「総司は寂しがっていたんだろう? あいさつもなく、放り出してきてしまったから。総司には安全な場所で療養して病に打ち勝ってくれればいいと、オレたちが願っていたのは本当だ。でも、散るならば戦場でと総司が願った気持ちも、オレたちはわかっている」
 土方さんは斎藤さんに目で合図した。斎藤さんはうなずいて、そっと沖田さんの体を草の上に寝かせた。立ち上がって、沖田さんを見下ろす。
 アタシは斎藤さんのそでを引いた。
「行ってしまうんですか?」
「ああ」
「まだ戦いを続けるんですか?」
「ああ。戦う」
 どうして? とアタシは繰り返してきた。でも、もう訊かない。
 それが彼らの生き方だから。
 アタシとは違う世の中を生きた人たちだ。どうやったって残酷な運命に呑まれてしまう。逆らえないならば、せめて自分の選んだ道をまっすぐに進みたいのだと、そこに彼らの誇りがある。命懸けの誇りだけが、彼らを生かしている。
 斎藤さんは、道の伸びていく先を指差した。
「オレたちは会津へ行く。会津は、ここより北にある武断の地だ。新政府軍は、会津の殿さまを狙っている。守らなければならない。オレたち新撰組はあの人のもとで戦う」
 シャリンさんが腕組みをした。
「やっぱり行くのね」
「ああ。ここでお別れだな。シャリン、ニコル、世話になった」
「な……こ、ここで?」
 斎藤さんはアタシたちを見回した。澄んだ、冷静な目をしている。
「頼みがある。沖田さんはもう長くない。オマエたちで沖田さんを看取ってやってくれ。江戸まで連れて帰って、オレたちの代わりに。頼む」
 斎藤さんは頭を下げた。土方さんも黙って、斎藤さんにならった。
「わかりました」
「わかったわよ」
 アタシとシャリンさんが同時に言った。斎藤さんと土方さんが顔を上げる。
 シャリンさんは斎藤さんに近付くと、こぶしを固めて、斎藤さんの胸を叩いた。戦うときのやり方じゃなくて、ごくありふれた一場面のように。
「隠しごとが多すぎるの、アンタは。黙ってばっかりで、一人で抱え込んで。ほんとは全然しっかりしてないくせに。危なっかしいのよ。イライラした。自分自身を見てるみたいで」
 斎藤さんが困ったように首をかしげる。ニコルさんが斎藤さんの肩をポンポンと叩いた。
「一くんには、ボクも驚かされた。すさまじいストーリーを見せてくれたね」
 斎藤さんはかぶりを振った。
「一人じゃ耐えられなかった。任務の重さにも、運命の重さにも。そばにいてくれたこと、礼を言う。ありがとう。アンタたちのこと、嫌いじゃない」
 ニコルさんが微笑む。
「北へ行ったら、出会えるよ。ずっとそばにいてくれる女性に。後日談があるなら、ラブラブなところを見せてほしいな」
 土方さんが斎藤さんを呼んだ。
「そろそろ行くぞ。あまり時間がない」
 斎藤さんはうなずいた。土方さんが、きびすを返して歩き出す。斎藤さんも続こうとする。
「待ってください」
 アタシは再び斎藤さんのそでをつかんだ。斎藤さんが肩越しに振り返った。
「どうした?」
「あの……」
 胸に渦巻く感情をうまく言えない。
 ラフ先生が、アタシの後ろから斎藤さんに声をかけた。
「北へ行く理由を、ミユメに教えてやってくれ。アンタらとよく似た信念を持つ、会津の殿さまのことを」
 斎藤さんはアタシを見て、口を開いた。
「徳川幕府は政権を手放し、江戸城も明け渡した。勝の思惑どおり、争いは極力、避けられてきた。でも、それに不満な連中がいる。江戸を攻め落とす気だった新政府軍の過激派は、振り上げたこぶしを持て余している。こぶしを叩き付ける先を探しているんだ」
 近藤さんが新撰組を率いて戦おうとしたように、新政府軍にも、武力で突き進みたい人たちがいた。暴れたかったんだ。
「まさか、新政府軍の過激派が会津を攻めてくるんですか?」
「将軍を滅ぼしたいヤツらがいた。でも、徳川二百七十年の歴史は、だてじゃない。将軍が殺されれば、国じゅうで暴動が起こる」
 国の統治者というのは遠い存在で、その誰かさんが死んだから暴動が起こるなんて、アタシにはピンと来ない。
 一方で、大好きだったリーダーが殺されて、憎しみがあふれる。そんな状況なら、よくわかる。新撰組局長、近藤勇を喪ったばかりだから。
 斎藤さんは淡々と言葉を続けた。
「新政府軍の振り上げたこぶしの前に、将軍を差し出すわけにはいかない。勝は、会津の殿さまを選んだ。会津の殿さまが将軍の身代わりなんだ」
「じゃあ、会津のお殿さまや会津の人々は、江戸が戦場になる代わりに、犠牲にならなきゃいけないんですか? 勝海舟が、そんなふうに交渉したということ? 勝海舟にとって、新撰組も会津も捨てゴマだっていうんですか?」
「会津の殿さまは、黙って引き受けた。身代わりの役を」
 ひどい。
 大勢を救うために、少ない犠牲には目をつぶる。そうやって悲しみと憎しみを塗り重ねて、この国の歴史は移り変わってきたんだ。
 日の当たる場所は華やかで美しくて、一方では日陰で、自分が滅ぶことを知りながら歩んだ人たちがいた。
 斎藤さんが会津の殿さまを好きな理由も、新撰組が会津へ向かおうと決めた理由も、よくわかった。
 行かないで、と言えたらいいのに。
 死なないで、と引き留めたいのに。
 アタシがそんなことを言っていいはずがない。命の根っこからまっすぐで、歪むことも濁ることもしない。彼らの生きざまを、アタシは、けがせない。
「どうぞ、ご武運を。お達者で」
 微笑むことしかできないという、このやるせない想いを、アタシは初めて知った。
「ありがとう」
 斎藤さんは、かすかに目元を和らげた。
 アタシたちは沖田さんを連れて、千駄ヶ谷《せんだがや》の屋敷へ戻った。
 沖田さんは眠るばかりだった。寝息にときどき寝言が交じる。その額に触れると、沖田さんが見る夢を共有できた。
 幼い日、両親を亡くした沖田さんは、年の離れた姉とその夫の手で育てられていた。姉夫婦を守りたくて剣術を始め、試衛館で近藤さんに出会った。
 九つのころから試衛館で過ごすようになり、仲間たちと出会った。沖田さんは誰よりも才能に恵まれていた。でも、子どもの体ではなかなか勝てず、悔しくて、誰よりも練習した。
 めきめきと腕を上げた沖田さんは、まだ少年と呼べる年のうちから、出張指導も担当するようになった。厳しすぎる、生意気だ、と評判は悪かったけれど。
 試衛館は、道場破りに押し込まれることもあった。そんなときは沖田さんの出番だ。屈強な大人が相手でも恐怖しないし、逆に敵がひるんだとしても、まったく容赦しなかった。
 求心力を持つ道場長、近藤さん。色恋と剣術、二枚看板の土方さん。最年長で面倒見のいい源さん。刀を持つ読書人、山南さん。年上の仲間たちに見守られていた。
 やんちゃで人なつっこい藤堂さん。左利きで、冷静で繊細な斎藤さん。同い年の仲間と剣を交えて、競い合った。
 貧乏暮らしも楽しかった。畑仕事に野良仕事、子どもたちの世話。くたくたになるまで、毎日、駆け回っていた。
 皆、同じ夢を見て、語り合った。
 いつか近い将来、刀で身を立てることができるなら。不安定な政情と外国の接近に揺れるこの国で、誰かを守ることができるなら。
 命を懸けてまっすぐに、誠心誠意、戦い抜こう。それこそが、この動乱の時代に我らが生まれた理由だ。
 沖田さんの見る夢の中では、みんな笑っていた。みんな楽しそうだった。みんな生き生きとして輝いていた。
 二度と戻らない日々。戦のために奪われた短い平穏。彼らがまだ人斬りではなかった時代。美しい夢を、沖田さんは見ていた。
 そして、思い出の夢が尽きるころ。慶応四年の夏の一日、沖田さんは息を引き取った。享年は、数え年で二十五。
 透き通りそうなくらい静かに眠ったまま、仲間たちから遠く離れた場所で、沖田さんはこの世に別れを告げた。
 庭の桜は青々とした葉を茂らせて、夏の太陽の下にきらめいている。縁側に咲いた真っ白な朝顔が、そっと眠りに就くように、淡い花びらをたたんだ。
 せみの声が聞こえる。銅の風鈴が、ちりりと鳴った。