きみと駆けるアイディールワールド―青剣の章、セーブポイントから―

 慶応四年三月一日、甲陽鎮撫隊は甲州へ向けて出発した。
 アタシとラフ先生は、沖田さんの看病で、バトルのない日々を過ごしている。
 おつかいをいくつかこなした。栄養のある食材を買いに行ったり、結核に効く漢方薬を調合したり、甘いお菓子を作ってあげたり、沖田さんのおねえさんに会いに行ったり。
 ある晴れた昼下がりのこと。
 ラフ先生は江戸の町を散策に行った。プログラムの精度をチェックするらしい。
 沖田さんは、今日は少し顔色がよかった。
「ミユメ、縁側に出たい。ちょっと支えてくれる?」
「わかりました」
 縁側ではヤミが日向ぼっこしていた。アタシと沖田さんは、並んで座る。沖田さんは、ヤミの丸い背中を撫でた。
「まいったなぁ。力が全然出ないよ。ヤミとケンカしても負けそうだ。新撰組一番隊組長が、情けないね。猫一匹斬れないくらい弱るなんて」
 斬る、という言葉に反応して、ヤミが金色の目で沖田さんを見上げた。恨みがましく、にゃぁ、と鳴く。沖田さんは少し咳き込んで、そして笑った。
「ゴメンゴメン。ヤミを斬ったりしないよ。例え話だから怒らないで」
「にゃあ」
 庭に桜が咲いている。そよ風が、ひらひらと、花びらをさらう。
「お花、キレイですね」
 桜だけじゃなくて、生け垣のツツジも、池のほとりのタンポポも。
 沖田さんは驚いたように目を丸くした。
「花?」
「はい。たくさん咲いていて。ステキなお庭ですね、ここ」
 沖田さんはゆっくりと庭を見渡した。その顔に微笑みが戻る。
「気付かなかった。八重桜……遅咲きの桜だね。思い出すなぁ。京の桜もキレイで、みんなで見に行った。土方さんが下手な俳句を読んでた」
「下手なんて言ったら失礼ですよ?」
 確かに、土方さんの俳句のセンスは微妙だけど。とりあえず五・七・五のリズムにしました、みたいな感じで。
「花見を題にした俳句には、『岡に居て 呑むのも今日の 花見哉』っていう句があったっけ。土方さんの句はそのまますぎるんだよね。岡場所で飲みながら花見をしてますってさ」
「岡場所?」
「きれいなおねえさんとイイコトをする店。ミユメはまだ知らなくていい世界だよ」
「…………」
「土方さんって人は色気があるのに、句はいまいち野暮ったいよね。『春の草 五色までは 覚えけり』って自慢してたの、知ってる?」
「いいえ。自慢ですか?」
「五人落としたとこまでは覚えてるって意味。口説いたのか言い寄られたのか、知らないけど結局、何人としたんだろうね」
 沖田さんはさわやかに笑ってのけた。話題はちっともさわやかじゃない。
 別に、土方さんの恋に口出しするつもりはないし、すごくカッコいいのも認める。新撰組副長として、仕事中はとても厳しくて、そのぶん、たまに息抜きするのもいいとは思う。
「でも、やっぱり浮気者はイヤです。プロアマ問わず、とっかえひっかえでしょう? 来るもの拒まずの度が過ぎています」
「なるほど。ミユメは一途《いちず》な男が好きなんだ?」
「当然です」
「じゃあさ、想像してみてよ。もしもの話だよ。もしも、この国が穏やかで、人が人を斬らずに済む世の中で、ボクが胸を病んでいなくて、ただ剣術が好きなだけの男だったら、ミユメはボクに恋してくれた?」
 息が、止まった。
 まっすぐで静かなまなざしに見つめられている。
 一瞬で、心臓の鼓動が加速した。熱いときめきが体じゅうを満たして、同時に、悲しくて仕方なくなった。
 沖田総司という、本当はごくありふれた若者。約二百年前の動乱の時代に生まれて、戦って人を斬って、胸の病に苦しみながら、それでも戦って。
 恋に興味がない、というセリフがあった。恋しちゃいけないと思っているせいかもしれない。沖田さんは人斬りだし、死の病に侵されている。未来を想像することなんて、きっと、もうできなくなっているんだ。
 アタシは答えられない。沖田さんが再び口を開く。
「ボクは一途だよ。いや、単純なだけかな。たくさんのことを同時には考えられない。ねえ、ミユメ。こんな世の中だから、ボクは剣術しか頭にないけど、そうじゃないなら、何に一生懸命になるのかな? 案外、キミのことだけに夢中になるかもしれない」
 嬉しいのと悲しいのと、ドキドキするのと切ないのと、全部ごちゃ混ぜになって、アタシは泣きたかった。沖田さんの胸に飛び込んで泣きたい。
「……そんなこと言われたら、好きになりそうです。心の底から、本気で」
 沖田さんは小さくかぶりを振った。
「変なこと言ってゴメンね、ミユメ。それと……ラフ、おかえり」
 沖田さんはアタシの背後を見ながら言った。
 アタシは振り返った。いつの間にか、ラフ先生がそこにいた。
「あ……お、おかえりなさい」
「おう、ただいま。いい雰囲気のところ、邪魔して悪かったな」
「き、聞いていたんですか?」
「まあ、チラッとね」
 恥ずかしすぎる。沖田さんに抱き付かなくてよかった。
 ラフ先生は沖田さんに包みを差し出した。
「みやげだよ。向島《むこうじま》の桜餅だ。ミユメのぶんもあるぞ。スタミナ回復のアイテムだ。道具袋にでも入れとけ」
「ありがとうございます」
 アタシも沖田さんも、桜餅を受け取った。沖田さんが庭に向き直った。ポツリとつぶやく。
「『人の世の ものとは見へぬ 桜の花』」
 ラフ先生は頬の一文字傷のあたりを掻いた。
「その句は、土方が詠んだヤツだな。庭の桜を見て、思い出したか?」
「うん、土方さんの句だよ。相変わらず、うまくはないけど、何だか引っかかるよね。桜は、人の世とあの世をつなぐのかな」
 ヤミが、にゃあ、と鳴いた。沖田さんのひざの上に乗っかる。沖田さんはヤミを撫でながら、桜を見ている。
 ひらひら、はらはら。あるかなきかの風に、花びらが舞い散る。幻想的なくらいキレイな桜は、どうして、こんなに不吉なんだろう?
 沖田さんが右手を空にかざした。骨と静脈が浮いた手の甲に、赤黒く、今にもつながりそうな円環の紋様がある。
「もうすぐボクは妖になる」
 沖田さんはひっそりと微笑んでいた。
「どうして円環のチカラがほしいと願ったんですか?」
「時の流れが逆になる夢を見たんだ。夢の中で、死の間際にボクは願う。みんなを守りたい、そのためなら何だってできる。そして死んだと思ったんだけど、目が覚めたら、二股の尻尾を持つヤミがボクのそばにいて、ボクは生きていた」
「時をさかのぼったんですか?」
「さぁね。ボクの願いがヤミを猫又に変えて、ヤミが仲立ちになってボクは妖のチカラを手に入れた。どっちがどどう働きかけたのか、ごちゃごちゃに混ざってて、わかんないよ。無茶したくせに、ボクは結局このざまで、仲間を死なせちまったし」
 時司である斎藤さんが言っていた。歴史の結果は変わらない、と。途中経過が少しくらい変化したとしても、死ぬべき人がそこで死ぬというさだめは揺るがないんだ。
 沖田さんが少し咳き込む。ラフ先生はひょいとかがんで、沖田さんの背中をさすった。
「痛々しいな、オマエ。見てんのがつらい」
 ふと、そのときだった。
 鳥の羽ばたきが聞こえた。
 沖田さんが顔を上げる。その視線に誘導されて、アタシも空を見る。一羽の白いハトが舞い降りてきた。きっと斎藤さんの伝書バトだ。脚に手紙がくくり付けられている。
 ハトは縁側に降り立った。ラフ先生がハトの脚から手紙をほどく。役目を終えたハトは、すぐさま空へ飛び立っていった。
 手紙に書かれているのは、毛筆の崩し字だった。
「読めねえ」
 ラフ先生が一瞬で放棄する。アタシは少し頑張った。
「斎……、一? 差出人の名前、斎藤一、ですよね?」
「ストーリーの展開からして、そうだろうな」
 沖田さんが手紙を手に取った。
「うん、斎藤さんからだよ。新政府軍が……江戸を総攻撃予定? いや、これは警戒を告げる手紙じゃなくて、総攻撃が撤回されたって書いてある。事、成リテ候? 勝麟太郎が、新政府軍と対話して、江戸城を……明け渡した……?」
「あっ、それって! 勝海舟と西郷隆盛《さいごう・たかもり》の会談ですね!」
 新撰組のことを知らないアタシでも、その会談のことは知っている。中学校の歴史の授業で勉強した。
 一八六八年、京を手中に収めた新政府軍は、勢いに乗って、江戸の旧幕府軍を殲滅《せんめつ》しようとする。
 殲滅作戦が決行されれば、江戸は火の海だ。百五十万人の住民の命が危機にさらされる。旧幕府軍では、意見が二分した。新政府軍と戦おうというグループ。戦いを回避しようというグループ。
 結論として、旧幕府軍は、話し合いによる解決を望んだ。新政府軍との話し合いに臨んだのが勝海舟。対する新政府軍の代表者が薩摩《さつま》の西郷隆盛。
 江戸の薩摩藩邸で、話し合いはおこなわれた。そして、江戸では戦わない、という約束が成立。旧幕府軍は江戸城を明け渡した。
「でも、待ってください。それじゃ、新撰組が甲陽鎮撫隊になって甲州へ行った意味は何だったんですか? 新政府軍を防ぐためだったんでしょう? 甲陽鎮撫隊は、今どうなっているんです?」
 沖田さんが蒼白になっている。手紙を持つ手が震えている。
「斎藤さんの手紙には、これだけしか……みんなの状況は何も書かれてない」
 ラフ先生は額を押さえた。
「勝海舟が甲陽鎮撫隊を派遣した目的は、史実としては知ってるけど、ここで言っちまうのは時期尚早だろうな。しかも、斎藤と勝がつながってるとなると、どうなんだろう?」
「史実とは違うんですか?」
「違う、と断言することはできねぇが、少なくとも、現存する資料には、斎藤が勝のスパイだなんて記録はねぇよ。誠狼異聞のオリジナル設定だ。しかも、斎藤にとって、めちゃくちゃ残酷な設定になってる」
 沖田さんがこぶしを握った。
「行かなきゃ。みんなのところに」
 沖田さんは立ち上がろうとした。でも、激しい咳の発作に襲われて、口元を覆って倒れ込んだ。ごぼっ、という音が、咳に交じる。ポタポタと、血のしずくが手のひらから落ちた。
「そんな体調じゃ無理です」
 ようやく咳が収まっても。沖田さんは立ち上がれない。ラフ先生が沖田さんを布団まで運んだ。血で汚れた沖田さんの口元を、アタシが拭う。
 沖田さんは、すがるような目をした。
「ミユメとラフにお願いがある。甲州へ行って、調べてきて。新撰組のみんなが、今どこでどうしてるのか。調べて、ボクに教えて」
「新撰組の状況がわかったら、どうするんですか? まさか、合流するつもりですか?」
 沖田さんは微笑んだ。
「みんなと一緒に戦いたいんだ。置いていかれて不安なのは、もうイヤだ。最期にみんなの役に立ちたい。あと一回だけ、大きな戦闘もこなせるよ。そのために力を温存したい。だから、代わりに調べてきて。お願い」
 ラフ先生は、庭のほうを向いていた。
「障子《しょうじ》、開けとくぞ。桜を見ながら、土方の下手な俳句でも思い出してろ。ミユメ、行こう。今の沖田は見るに忍びない」
 アタシは胸が詰まって、声が出なくかった。ただ、沖田さんに手を振った。
 アタシとラフ先生は甲州へ向かった。山がちの甲州からは、富士山が間近に見える。
 甲府城の一帯は、すでに新政府軍によって占拠されていた。アタシたちは隠れながら情報を集めて、甲陽鎮撫隊の消息を探った。
 結局のところ。
「甲陽鎮撫隊は間に合わなかったんですね。甲州へ入ったときにはもう、新政府軍が先に甲府城を押さえていた。その状況で、後ろ盾もなく戦って、負けて退却したんですね」
 気分が暗くなった。ラフ先生も大きな息をついた。
「新政府軍のほうが圧倒的に兵力があった。勝海舟は最初からそれがわかっていて、新撰組を甲州に向かわせたんだ」
「そのこと、斎藤さんも知っていたんですね? だから、出発前、何だか様子がおかしくて、ラフ先生とニコルさんもそれをちょっととがめていた」
 甲州で集められる情報は断片的だった。バラバラのピースをつなぐようにして、新撰組の行方を追った。近藤さんや土方さんの故郷、多摩の村々にも足を運んだ。そうこうして、ようやく、流山《ながれやま》に向かったことをつかんだ。
 流山は、江戸の北東に位置している。北へ向かう街道の要所だ。ここから北上していけば、会津がある。新撰組の上司である会津の殿さまが、江戸から追い出されるようにして、自分のお城へ帰っていった。
「主要なメンバーは一応みんな無事みたいでしたけど、これから新撰組は会津へ行くんですか?」
「そのへんは、斎藤らと合流できてからの展開じゃねぇかな。とりあえず、江戸に戻って沖田に報告しよう。それから三人で流山に向かう」
「はい。これって、沖田さんの最期の戦いになるんでしょうか?」
 ラフ先生は髪を掻きむしった。
「イヤだな、最期とか。史実知ってても……知ってるから、きつい。アイツの命日、知ってんだよ、オレ」
 ラフ先生の言い方でわかってしまった。沖田さん、本当にもう長くないんだ。
 悲しい予感を胸に抱いて、アタシたちは江戸の沖田さんのもとへ戻った。調べてきた情報を伝えると、沖田さんは迷いのない顔をして、スッと立ち上がった。
「情報ありがとう。ボクも流山に行くよ。ちょっと待ってて。準備するから」
 そして、おもむろに寝巻の腰紐を解き始める。
「ちょ、ちょっと沖田さん、いきなり着替え始めないでください! こんなシリアスな場面にそういうサービスシーン、いりませんっ!」
 ラフ先生がケラケラと笑い出した。
「というか、今さらなんだけど、最近の沖田、ずっと寝巻姿だったろ? これ、下着と同じようなもんなんだぜ。二十一世紀に置き換えて考えてみな。けっこう赤面モノだろ」
「ややややめてください! 沖田さんストップ! ああもう、だから腰紐解かないでくださいってば!」
 するすると、腰紐が畳の上に落ちた。寝巻の前がはだけかける。のど仏と、鎖骨、色白だけど筋肉の付いた胸板。割れた腹筋……が見えかけて、アタシは回れ右をした。
 ファサッと布が落ちる音がした。沖田さんがクスクス笑っている。
「見られても減るもんじゃないんだけど。それにしても、やっぱり、ここ何ヶ月かで一気に貧相になっちまった。前はもっといいカラダしてたのにな」
「さっさと着替えてください! そもそも、この演出、何なんですか? ピアズでの着替えなんて、装備品のボックスを開いてチェックを付け替えるだけでしょう?」
 アタシの態度がおもしろいんだろう。ラフ先生は手なんか叩いて実況中継し始めた。
「やせて貧相になってもそれかよ。十分すげぇじゃん。無駄な肉が完全に落ちてるぶん、腹筋の形がクッキリだし。あー、後ろ姿、色っぽい。きわどいところに、ほくろ発見。CG細けぇな」
 やめてください。いろいろ想像してしまいます。
 そもそもアタシ、BLもちょっとたしなむほうだから、無防備に脱いでいる沖田さんと、実況したり着付けを手伝ったりするラフ先生のやり取りが……ああもう、恥ずかしすぎる!
 やがて、沖田さんの声が聞こえた。
「着替え終わったよ。ラフ、手伝ってくれてありがとう。ミユメ、こっち向いて大丈夫だよ」
「……ほんとですか?」
「疑い深いなぁ」
 沖田さんがアタシの正面に回り込んだ。キリリとした袴《はかま》姿だ。すでに腰に環断《わだち》を差している。
「久しぶりにその格好ですね」
「うん。背筋が伸びるよ。グズグズしていられない。すぐに出発しよう。おいで、ヤミ」
 沖田さんは、足下にすり寄るヤミを抱き上げた。アタシは、思わず沖田さんの手をつかんだ。
「ヤミのチカラを借りたら妖に近付くんですよね? 大丈夫なんですか?」
「でも、ヤミがいなきゃ動けないから。ボクは大丈夫だよ。妖になったとしても、理性を保ってみせる。近藤さんたちと一緒に最期まで戦いたい。この気持ちがある限り、ボクは闇に呑まれないよ」
 にゃあ、とヤミが鳴いた。沖田さんがヤミを抱きしめて、ヤミが沖田さんの内側に溶け込んだ。沖田さんの姿が変化する。黒猫の耳と二股の尻尾が生えて、微笑んだ口に小さな牙がのぞく。目は金色に輝いた。
 アタシたちは屋敷の外に出た。
 江戸の町は、勝海舟と西郷隆盛の会談によって、戦火を免れた。でも、やっぱり完全に平穏というわけじゃない。新政府軍は、旧幕府軍の残党を取り締まっている。もちろん新撰組も狙われていた。
 アタシたちは新政府軍を避けながら先を急いだ。途中でときどき町の人の噂話を聞いて、情報を仕入れる。
 ある男が言った。
「板橋ってぇ町に、新政府軍の基地があるんでさあ。処刑場が作られて、罪人の首をはねるのが見世物になってやがる。にぎわってるみたいですぜ」
 ラフ先生が、ただならぬ反応をした。慌てて男に詰め寄って、舌の回転が間に合っていない。
「い、板橋? おい、オマエ、今日の日付わかるか?」
 男はのんびり答えた。
「えーっと、四月の、何日だったかなぁ? とにかく四月に入りやしたよ、旦那」
「四月、慶応四年の四月か」
「へい、さようです、旦那」
 ラフ先生は呆然としたように表情を消した。うめいて、ため息をついて、つぶやいた。
「……史実なら、沖田は知らずに済んだのに、ここではそういう流れになるのか」
 沖田さんがラフ先生の肩を叩いた。
「どうしたの? とにかく、先に進もうよ。日光街道沿いに進めば、板橋を通らずに流山へ行ける。新政府軍の基地を迂回できるんだよ」
「いや、あのさ……このフラグの立ち方は、すげぇイヤだ。怖いよ」
「板橋に何かあるんですか?」
「……言えねえ。ストーリー、進めるしかねぇよな。沖田の言うとおり、とりあえず板橋を迂回しよう」
 沖田さんを先頭に、新政府軍が駐屯していそうな宿場町を避けつつ、流山を目指す。
 駆け足の沖田さんの後ろ姿に、二股の黒い尻尾が揺れている。アタシが速度を上げても追い付けず、沖田さんが振り返らないから表情もわからない。
 焦っているんだろうか。
 早く早く、仲間のもとへ。その儚い命がついえる前に。
 アタシは知っている。日本はまもなく明治時代に入る。政治にも社会制度にも改革が起こって、新撰組のような武士はこの世から消える。
 じゃあ、新撰組は最後の武士なんだ。
 滅びてしまうんだ。
 この先、どんなふうに戦っても、どれだけ一生懸命になっても、誠心誠意を貫いても、新撰組は滅びて消えてしまうんだ。
 アタシは、思わず叫んだ。
「お願い、待って! 沖田さん、待ってください!」
 沖田さんが立ち止まる。ラフ先生も足を止めて振り返った。
「どうしたの、ミユメ?」
 いきなり悲しくなってしまったのだということを、どうすればうまく伝えらえるだろう? 時間を進めてしまうのが怖い。この残酷なストーリーの先にあるものを知るのが怖い。
 アタシは気付けば口走っていた。
「逃げましょう。もうイヤです。沖田さんに戦ってほしくないし、新撰組の時間が終わるのがイヤです」
 沖田さんがアタシのほうへ手を伸ばした。その手がアタシの頬を包んだ。
 現実のアタシは、自分で自分の頬に触れてみた。違う。沖田さんの手はもっと大きくて、もっと骨ばった形をしている。
 優しい仕草と裏腹に、沖田さんの言葉はこわばっていて厳しかった。
「先に進むよ、ミユメ。人生の大半の時間を使い切った今のボクにあるのは、最期の戦いに身を捧げたいっていう思いだけだ。キミも一緒に来て、一緒に戦ってよ」
 沖田さんの手が、アタシの頬から離れて、アタシの手を握った。沖田さんに引っ張られて、アタシの足が再び動き出す。
 アタシたちは再び流山を目指した。そこから先は、さほど長く走らなかった。
 突如。
 ハッとして、沖田さんが足を止めた。腕を広げて、アタシとラフ先生にもストップをかける。
 街道脇の大木の陰から一人、黒っぽい服を着た誰かが刀を手にして現れた。覆面をして、目元しか見えない。
 一瞬の緊張感。
 そしてそれが緩む。
「なんだ、斎藤さんか」
 沖田さんが笑顔になった。斎藤さんは、刀を収めて覆面を外した。目を丸くしている。
「どうして沖田さんがここへ? 体の具合は?」
 大木の陰から、あと二人、見知った人たちが出てきた。
 オーロラカラーのロングヘアを揺らす華奢な戦士と、サラサラの長い銀髪に緑色のローブの魔法使い。
「シャリンさん、ニコルさん! よかった、合流できましたね」
「待ってたわ。ここで両サイドのストーリーが一本になるみたい」
「すみません、お待たせして。先に進めるのが何だか怖くて、ちょっとぐずぐずしちゃったんです」
「わかる気もする。こっちもいろいろ悲惨だったから。ワタシは逆に、AIじゃない人間のユーザに会いたくなって、先へ先へ、ストーリーを走らせてしまった感じ」
「甲陽鎮撫隊、負けたんでしょう? 話はだいたい聞いてきました」
 ニコルさんがあごをつまんで、考える仕草をした。表情が冴えない。
「じゃあ、甲陽鎮撫隊出撃の意図は知ってる? 勝海舟が何を目的に、新撰組を甲州へ送ったのか」
「いいえ、そこまでは調べられませんでした」
「そうだろうね。教えてあげるよ。それとも、一くん、キミが自分で伝える? 永倉新八くんを激怒させた、あの話を」
 斎藤さんは、ポツリと答えた。
「オレが話す」
 ひどく素直で、ひどく無力な声音だった。いつもの斎藤さんと、どこか様子が違う。低く落ち着いているはずの話し方が、今は妙に頼りない。
 シャリンさんはそっぽを向いている。にこやかなはずのニコルさんは厳しげな無表情を貫いている。
 ラフ先生は頭を抱えた。
「やっぱ、そういう流れか」
 アタシと沖田さんだけ、状況がわからずに、戸惑いながら斎藤さんの言葉を待っている。斎藤さんはそれでも、迷うように沈黙していた。アタシは焦れた。
「斎藤さん、話してもらえますか?」
 観念するように、斎藤さんは目を伏せた。
「オレは、勝海舟に情報を通じていた。ずっと昔から、オレたちが京に入るより以前からだ。勝にとって、オレも新撰組も、放し飼いの犬のようなものだった。いつか使い捨てるためのコマに過ぎなかった」
「勝海舟さんの、捨てゴマ? 勝さんは何のために斎藤さんを動かしているんですか?」
「勝の目的は、簡単に言えば、日本人同士の争いを避けることだ」
「新撰組が倒幕派と戦うようなことは、勝海舟さんは避けたかったんですか?」
「あれは勝にとって戦闘のうちに入っていない。もっと規模の大きな争いを回避するために、小競り合い程度は黙認していた」
「小競り合いっていっても、命懸けでしたよ?」
「鳥羽伏見の戦いのような大戦闘を、江戸に持ち込ませないこと。勝の頭にあるのは、そういう規模の話だ。日本全土でああいう大戦闘が立て続けに起こったら、軍事力を持つ欧米諸国に、日本という国はたやすく奪われてしまう」
 アタシは、後ろからガツンと頭を殴られたような気分だった。
 そうか。外国というものの存在を完全に忘れていた。新撰組という組織の身近に起こる出来事だけで、頭がいっぱいだった。
 幕末の日本を取り巻く状況は、京の町の治安維持がどうこうという小さな範囲では、確かに説明も解決もできない。
 開国を迫る欧米諸国との関わりの中で、徳川幕府の古い体制のあり方が問われて、日本じゅうが新時代へのうねりに呑まれている。これは、そんな時代なんだ。
「勝は、欧米諸国に対抗できる国力を、日本の中に育てようと考えている。だから、今は国内で戦をしている場合じゃない。国内の混乱を収められるなら、どんな手段でも使うし、誰とでも手を結ぶ。それが勝の行動原理だ。勝の頭の中に、新政府と旧幕府の区別はない」
 沖田さんが眉をひそめた。
「でも、斎藤さん。新撰組は、会津の殿さまの刀だったはずだ」
「オレは、会津の殿さまが嫌いじゃない。感情の上では、あの人の刀だった」
「でも、キミは勝海舟の意図も知ってた。そうでしょ?」
「……オレは、勝のコマの一つだ。腹心でも何でもない。掃いて捨てるほどいるコマの一つであって、勝の考えのすべてなんて、わかりようもなかった」
 沖田さんは斎藤さんに詰め寄った。
「すべてはわからなくても、いろんなことを察していたんじゃない? だって、斎藤さん、ひどく物知りで事情通だよね。土方さんの間者だからだと思ってたんだけど、違ったんだ。勝海舟に教わってたんだね?」
「両方だ。土方さんに、あれを探れ、これを探れと命じられて」
「探ったことを勝海舟にも報告していた? あの白いハトを飛ばして、勝海舟が新撰組というコマを動かしやすいように?」
「……否定はしない」
「今回の甲州への出撃は? 負けるってわかっていたんだろう? 何のために新撰組は負け戦に向かわなきゃいけなかった?」
 沖田さんの金色の目に、赤黒い光が躍っている。牙が、爪が、ギラリとした。斎藤さんは言い訳するように、揺れる声で告げた。
「行き先が甲州である必要はなかった。新撰組が江戸からいなくなればよかった。勝と西郷が会談をする間、新撰組という火種を新政府軍から引き離す。それだけが勝の目的だった。負け戦によって力をそがれたのは、勝にとって一石二鳥の、ただの結果だ」
 近藤さんが言っていた。新政府軍から江戸の町を守らねば、と。近藤さんは新政府軍と戦う気まんまんだった。しかも、新政府軍は、新撰組を目の敵にしている。両者が鉢合わせたら、争いは避けられない。勝海舟にとって、新撰組の存在は邪魔でしかなかったんだ。
 沖田さんが斎藤さんの胸倉をつかんだ。その右手の甲に、赤黒い円環が完全な姿を現している。
「甲州で負けてから、新撰組はどれくらいの犠牲をこうむった? 誰かがケガをして、誰かが脱落して、誰かが死んじまったんだろう? 全部ちゃんと教えて。答えてよ、斎藤さん!」
 観念する様子で目を閉じた斎藤さんが、言った。
「近藤さんが死んだ」
 沈黙。
 空白。
 斎藤さんの言葉が、アタシには理解できなくて。
 コンドウサンガシンダ。
 沖田さんが、だらりと腕を落とした。斎藤さんが後ずさる。疲れ切ったような斎藤さんの横顔に、その見開かれた目に、涙が光っている。
 誰も何も言わない中、斎藤さんの唇が動いた。
「甲州から退却した後、新政府軍に情報が洩れた。甲陽鎮撫隊は新撰組かもしれない、と。指揮官は出頭せよと命令が来て、近藤さんは一人で、板橋にある新政府軍基地へ出向いた。偽名を使っていた。うまくすれば、別人だと言い張れた。でも、身元がバレた」
「なぜバレたんですか……?」
 アタシは呆然と尋ねた。だって、写真のないこの時代の検問では、指名手配されてもシラを切れる。そんなふうにラフ先生と話したことがあった。偽名を使うという単純な嘘でも、効果は十分だったはずだ。
 斎藤さんはアタシの疑問に答えた。
「新政府軍に、近藤さんの顔を知ってるヤツがいた。新撰組の元隊士だ。伊東さんの一派だったヤツが、新政府軍に流れてた。伊東さんや藤堂さんの仇討のために、それまで敵対していた新政府軍に自分の身を売ったヤツがいたんだ」
「あ……そんなことって……」
 沖田さんが斎藤さんをにらんだ。静かな声が怒りに震えている。
「板橋って言ったね。近藤さんは今、板橋にいるの? 死んだって、嘘だよね?」
 斎藤さんは激しく首を左右に振った。子どもっぽいくらいの仕草だった。ギュッとしかめた顔は、ほとんど泣き出しそうだった。
「嘘じゃない。本当だ。近藤さんは死んだ。罪人として首をはねられて、死んだ」
 沖田さんの髪がザワリと逆立った。縦長の猫の瞳が糸のように細くなる。歪められた口から、とがった大きな牙がのぞいた。
「罪人として、首を? ボクたちの新撰組局長、近藤勇が、罪人?」
「オレがこの目で見てきた。シャリンとニコルと一緒に、見てきた。近藤さんを救いたくて板橋へ行って。でも、ダメだった。死なせてしまった」
 スラリ、と音がした。刀が鞘から引き抜かれる音だ。
 白刃が光った。沖田さんの手に、抜き放たれた刀がある。その切っ先は、斎藤さんの眉間に触れている。
「キミは知ってて、止めなかった。新撰組が捨てゴマとして使われていると、知ってたくせに、黙っていたんだな?」
 斎藤さんが沖田さんを見た。血が一筋、つっと流れ出す。斎藤さんは、静かで透明な表情をしていた。
「知っていた。大きな悲劇の予感だけを抱えながら、時司として繰り返し生きて、何度も後ろめたい生き方をして。甲州で負けた後、もう耐えきれなくなった。近藤さんと土方さんに、勝のことを話した。なのに、近藤さんは、自ら判断して板橋へ行ってしまった」
 沖田さんの両眼が赤黒い光に染まっていく。その顔には微笑みの影もない。敵を斬りながら浮かべていた笑みすらない。
 赤黒い光は、狂気的な憎悪だ。
「どうしてだよ。何で守れないんだよ。このチカラがあるのに、ボクは……何で、みんな奪われてしまうんだっ!」
 沖田さんは環断《わだち》を地面に投げ付けた。斎藤さんの顔に浅い傷が走る。
 絶叫。あるいは咆哮。沖田さんが吠えた。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 紋様が燃え立った。赤黒く揺らめく輝きが沖田さんの全身に広がっていく。
 何、これ? どういうこと?
 沖田さんの右手が変化する。五本の指が一つになって、細く長く伸びて、銀色にきらめいて、刀になった。
 黒猫の耳と尻尾と牙と、赤黒くらんらんと光る目。
 獣の咆哮が響き渡った。それはもう、沖田さんの悲痛な絶叫ではなかった。
 パラメータボックスが騒ぎ出す。
 WARNING!!
 敵襲を告げる赤い文字。ボス戦用のバトルモードへと、操作画面の仕様が切り替わる。