院内学園の授業中、このところ、全然集中できずにいる。苦手な数学が、ますます解けない。でも、朝綺先生のところへ質問に行けない。
通信制高校にも当然、試験がある。課題の提出は必須だ。今月の提出期限が迫ってきていて、このままだと、ちょっとまずい。
悶々としていたら、あっという間に、もう終業の時間だ。理生くんが心配してくれた。
「優歌ちゃん、どうしたの? 算数、難しそうだね」
算数なんていうかわいらしいものではないのです。微分積分っていう悪魔は。
「どうやっても解けないんです」
「朝綺先生に訊いたら?」
「うん……」
「優歌ちゃん、朝綺先生とケンカ中?」
「えっ?」
「朝綺先生が困ってた。優歌ちゃんのこと怒らせたかもって。でも心当たりがないって言ってたよ」
びっくりした。朝綺先生、気にしてくれていたんだ。何だか申し訳ない。あたしを怒らせただなんて。そうじゃないのに。
「ゴメンね、理生くん。心配かけちゃいましたね。ケンカしているわけじゃないですよ。何でもないんです」
「ほんとに?」
「うん、大丈夫だから。朝綺先生にも、ちゃんと話してきます」
理生くんはニコッとした。
「じゃあ、よかった。算数の問題、解けたらいいね。ほら、朝綺先生、行っちゃうよ。追いかけなきゃ」
笑顔で急かされる。いや、ちょっと待って。まだ心の迷いが……なんて言ってばかりもいられないか。えい、仕方ない。微分積分、解かなきゃ。
「ありがとう、理生くん。行ってきます」
あたしは手早く片付けをして、朝綺先生の向かっていったほうへ、廊下を早歩きした。
朝綺先生の足取りはゆっくりだ。すぐに追いつけるはず。
予想どおりだった。廊下の角を曲がったら、いた。朝綺先生だ。立ち止まっている。
声をかけようと思った。だけど、できなかった。どうして朝綺先生が足を止めたのか、その理由に気が付いて、同じ理由で、あたしも動けなくなる。
廊下の先、朝綺先生の背中よりも先に、壮悟くんと女の人が向き合っている。白衣をまとった後ろ姿は、麗先生だ。
壮悟くんが、押し殺した声を出した。
「何度言えばわかるんだよ? おれは待ちたくないって言ってんだ」
壮悟くんがこぶしを固めているのが見えた。麗先生は、一言一言、噛みしめるように告げる。
「体への負担を考慮しているの。それに、今回のケースは再発。ほかの場所への転移が本当にないかどうか、慎重に見極めながら、治療を進めていかないといけない」
壮悟くんが足を踏み鳴らした。廊下に音が響く。
「ふざけんなよ。イライラすんだよ。ちんたらすんのは嫌いだ。副作用がどんだけあったっていい。さっさと終わらせろよ。さっさと治せよ!」
「無理。だいたい、それをわたしに言って、どうするの? わたしは抗がん治療の担当医じゃないわ。現段階の治療のこと、口出しできない」
「口出しできない? マジかよ? おれの腕に針刺す権利はあるのに? おれの細胞、試験管の中でいじる権利まであるのに?」
「できない」
壮悟くんは麗先生に詰め寄った。
「誰に言っても同じなんだよ! 自分の一存じゃ決められないって、そればっかりだ。グズグズしてんじゃねぇよ。手っ取り早く治してみせろよ。国内で最高の病院なんだろ? 不治の病まで治す、奇跡の病院なんだろ?」
後ろ姿の麗先生はかぶりを振った。苦しそうに肩が上下した。何かを言いたそうな空白があった。けれど、絞り出された言葉は、ほんの一声。
「……焦らないで」
壮悟くんが一瞬、チラッと目を上げた。朝綺先生に気付いて、あたしに気付いて。壮悟くんは再び、麗先生をにらんだ。
「魔女のくせに良識派ぶるなよ。医療用万能細胞を操って、死という運命に介入できる、恋人さえ人体実験の材料にするってさ、ほんと、魔女だよな」
「な……わ、わた、しは……」
「何でもできるんだろ? 技術も発言力もあんたにはある。そのチカラ、さっさと使えよ。おれは待ってられないんだよ!」
不安なのか、恐怖なのか。壮悟くんを追い詰めているのは、何なのか。
麗先生がポツポツと、苦しそうな呼吸を挟みながら。途切れがちにゆっくりと言う。
「勘違い、してる。魔女かもしれない。でも……わたしには、できないの。チカラは限定的で。魔女でもいいの。救いたい命があった……あの人は特別。必ず、だけど、壮悟も救うから。絶対。わたしにできることは、全部、やるから」
壮悟くんが、こぶしで自分の太ももを打った。
「そんなごまかしみたいな言葉が聞きたいわけじゃない! 今すぐおれを治せって言ってんだよ。ダラダラ時間かけて金かけて、何やってんだ? そんなことしてる余裕はないんだよ!」
「……事情は、知ってるわ。わかってる。だけど……」
「わかってない、あんたら全員わかってない! 親にも借金させて、妹もいろいろ我慢して、おれはもうこれ以上、ダラダラ入院ばっかりで生かされたくなんかねえ。おれがアッサリ死んだほうがマシなんだよ!」
「やめて!」
麗先生が大きな声を出した。壮悟くんはそっぽを向いた。
「……んだよ?」
「やめなさい。死にたくないくせに」
「別に、死んだってかまわない」
「嘘。あんたの言葉……あんたの物語が、本当。命の意味を探してる。書きたいもの、あるんでしょ? 死んでどうするの」
壮悟くんはカッと目を見開くと、麗先生の白衣の胸倉をつかんだ。
「わかったような口、利くなよ。いちいちムカつくんだよ、あんた」
朝綺先生が何か言いかけた。足を踏み出す。少しよろける。壮悟くんが、麗先生の頭越しに朝綺先生を見た。キッパリとにらむ。
止める間もなかった。
壮悟くんは麗先生を壁に押し付けた。そのままの勢いで、噛み付くように、壮悟くんは麗先生の唇を奪った。
時間が止まったように感じた。長すぎる一瞬だった。
麗先生が壮悟くんを突き飛ばした。白衣がひるがえる。麗先生が、こっちを向いた。朝綺先生を見付けてしまった。
口を押さえた麗先生の大きな目から、どっと涙があふれる。言葉はない。麗先生はきびすを返して、走り去っていく。
壮悟くんは空っぽな表情をしていた。まなざしは、どこでもない場所に向けられている。
低く押し殺された声が廊下を這った。
「おい、壮悟」
朝綺先生はこぶしを握りしめていた。腕がわなわな震えている。
壮悟くんは顔を上げた。歪んだ笑いが、口元に浮かんだ。
「悔しい?」
「てめぇ、何のつもりだ?」
抑え込まれた口調に、すさまじい怒気がにじむ。
「見りゃわかるだろ。ただの八つ当たり」
「何だと?」
「でも、魔女も万能じゃないね。あんた、回復して一年だっけ? リハビリって、ずいぶん時間かかるんだね。そんな体じゃ悔しいだろ? 自分の女の危機だってのに、何もできなくて。そのざまで、ちゃんと満足させてやって……」
「ふざけんなっ!」
突然の怒号に、壮悟くんはビクリと震えた。
朝綺先生は再び声を低く抑え込む。
「皮もむけちゃいねぇガキが、ナメんなよ。からかってるつもりか? 人の女に手ぇ出しやがって。さっきの一回、どんだけ価値があると思ってんだ。麗は、ガキが勝手にしていいような薄っぺらい女じゃねぇんだよ」
壮悟くんが歯を食いしばった。
「か、カッコつけんなよ。今さら」
「粋がってんじゃねえ。教えてやるよ。女を泣かせるってのは、あんな幼稚なやり方のこと言うんじゃねぇんだ。ダセェんだよ」
「う、うるさい。あんたなんか、どうせ口先だけじゃん」
「上等だろ。てめぇ程度のガキ一匹ひねりつぶすくらい、口先ひとつで十分なんだぜ。惚れた女を泣かすのもいかせるのも、口と舌でことは足りる。ガキにゃあわからねえだろうが」
「…………」
「次、麗に手出ししやがったら、容赦しねえ。どんな方法を使ってでも思い知らせてやるぞ、このクソガキが」
圧倒的だった。
一歩も動かない朝綺先生の静かな口調で語られる怒りはあまりに圧倒的で、後ろ姿を見守るだけのあたしでさえ、息をするのも忘れた。壮悟くんは完全に固まっている。
朝綺先生がゆっくり歩き出す。一歩ずつ、引きずりながら踏み出して、確実に足を交わして、歩いていく。動けない壮悟くんのそばを通り過ぎる。
どっちも、声をかけない。視線も合わせない。
ぱたっ。
ぱたっ。
ぱたっ。
ぱたっ。
朝綺先生の足音を、あたしは数えていた。朝綺先生が廊下の角を曲がって、足音が聞こえなくなるまで。
壮悟くんは、いつしかうつむいていた。唇を、ごしごしと、何度も手の甲でこすった。
あたしの足が、急に動き出した。壮悟くんは顔を上げた。あたしは壮悟くんと目を合わせなかった。壮悟くんの脇を駆け抜けて、あたしは朝綺先生を追いかけた。
朝綺先生はエレベータに乗った。あたしは、すんでのところで追い付けなかった。朝綺先生を乗せたエレベータは上へ上へ向かっていく。
あたしはボタンに触れて、エレベータを呼んだ。三台あるエレベータは、ちょうどお昼時のせいもあって、なかなか来ない。やっと来ても、お昼ごはんのカートがギリギリいっぱいに載っていた。
ようやくのことで、あたしは屋上にたどり着いた。小児病棟の屋上は、小さな公園になっている。ガラスドームに覆われていて、すべり台とブランコ、かわいい色のベンチがある。
出入口は施錠されて、普通の人は出入りできない。あたしは特別だ。カードキーを貸してもらっている。
朝綺先生は一人、ベンチに座っていた。背もたれに体を預けて空を見ている。淡い青色の秋空だ。白い雲が、かすれながら、たなびいている。
あたしは、わざと足音を立てて歩いた。朝綺先生はこっちを見ない。あたしはベンチの隅っこに腰を下ろした。朝綺先生は空を仰いだまま、息をついた。
「優歌も、ここの鍵、持ってたのか。誰も来ねえと思ってたんだけど」
軽やかな、いつもの口調だった。
あたしは両手の指をひざの上で組み合わせた。親指の爪を、意味もなく見る。
「ここ、あたしにとっては音楽スタジオなんです。録音するときは、いつもここで歌ってます。ガラスドームのおかげで、音の響きがちょうどいいんです」
「なるほどね」
朝綺先生は、吐息のような笑い方をした。それは普段の笑い方じゃなかった。子どもたちの前での笑顔とは、別だ。
「あの、朝綺先生。さっき、あたし……」
「聞いてたんだろ? おれの後ろ側にいたよな」
「気付いていたんですか?」
朝綺先生は一度も振り返らなかった。あたしも声を出したりしなかったのに。
「おとなげないところ、見せちまったな。余裕なくなってた。しかしまあ、おれはほんっとに言葉汚ねぇよな。仮にも教育者だってのに」
おとなげないって、そんなことない。怒って当然だった。
「少し怖かったです。でも、麗先生のために本気で怒っていて、カッコいいなと思いました」
「ほんとはぶん殴ってやりたかった。結局、口だけなんだよな。久々だぜ、こんなに悔しいの。壮悟に対する怒りもあるんだけど、それ以上に、悔しい。動けない自分が悔しい」
朝綺先生の口調は相変わらず軽やかで、かすかに笑っているような、からかっているような、いつもの雰囲気だ。
でも、こぶしに力が入っている。まだ不十分なはずの握力だけれど、男の人のこぶしの形をしていた。
「麗先生、大丈夫でしょうか?」
「んー、大丈夫じゃないかも。何て言ってやればいいかな? あいつ、必要以上に落ち込んでるだろうからさ」
「必要以上って?」
「子犬に噛み付かれただけだろ、あんなもん。おれは麗を責めるつもりなんてないけど、麗は自分を責めてるだろうな。関係ねぇのに。そんくらいで、おれが……って、ちょい待ち! 優歌、おれと麗の関係、もともと知ってたのか?」
朝綺先生は、切れ長な目をこの上ないほど丸く見開いている。
「あ、えっと、この間、見てしまって」
「いつどこで何を見た?」
「何日か前、研究棟の庭で、二人でいるところ、見たんです。あの、お弁当……」
「えぇぇ、マジか?」
「は、はい。マジです」
「うわぁ……」
朝綺先生はそっぽを向いた。耳が真っ赤だ。あんなに堂々といちゃいちゃしていたのに、それを目撃したと言ったら、照れている。
「あの、朝綺先生? 麗先生とのこと、秘密なんですか?」
「そりゃまあ、大人の事情がいろいろ。ここ、麗の職場だし。研究に私情がからんでるとか、中傷されたくねぇんだ。もしスッパ抜かれて叩かれたとしても、おれは開き直れるよ。むしろ自慢してやる。でも、あいつは中傷とかバッシングとか、そういうのに弱いからさ」
「大丈夫ですよ。あたし、絶対に黙っておくので」
朝綺先生は顔を背けたまま、うなずいた。
少しだけ、沈黙が落ちた。それから朝綺先生は、言い訳をするように続けた。
「研究棟の庭、低いガラスドームになってるだろ。あれ、マジックミラーなんだ。外から中の様子は見えねぇの。おれはあそこでリハビリすることも多くて、研究上の機密や制約があるのは病院のスタッフなら誰でも知ってるから、みんな遠慮して入ってこねぇんだ」
なるほど。だから、安心してデートしていたんだ。
「見ちゃって、すみません。偶然だったんですけど」
「いや、別に、やましいことではないし。でもまあ、なんつーか、やっぱ恥ずい」
大人の顔を見せたと思ったら、赤くなって照れる。開き直れると言った割に、ごもごもと歯切れが悪い。
言葉が荒いところは少年っぽいかもしれない。でも、もしも体が自由に動いたとしても、きっと壮悟くんを殴ったりはしなかった。自制しながらも憤りに震える後ろ姿は、とても強くて優しかった。
やっぱり朝綺先生は魅力的な人だ。あたしには手が届かない人。胸が痛いけれど、切ないけれど、あたしは心の底から祝福する気持ちだった。
「朝綺先生と麗先生、すごくお似合いですよね。うらやましかったです。あたしもステキな彼氏ができたらいいなって、憧れます」
朝綺先生がようやくこっちを向いた。まだ顔が赤い。右頬の傷が白く浮かび上がって見える。照れ笑いをしている。
「ありがとな。たまに自信なくすんだけど。壮悟も言ってたろ? 満足させてやってんのかって。あれ、実はけっこう応えた。キレて怒鳴っちまったもんな」
満足っていうのは、たぶん、大人な意味なんだと思う。カラダの関係、夜の愛情表現。病気やまひで体が動かなくても、性的な欲求や反応は当然あるわけで、朝綺先生の体がどれくらい自由に動くのかわからないけど、やっぱり、もどかしいんだろうな。
朝綺先生が「うわぁ」と言って顔を伏せた。
「ゴメン、優歌。おれ、やっぱ今おかしいな。女子高生相手に何言ってんだか。てか、今日はほんとに下ネタ発言ばっかなんだけど、そのへん意味わかった?」
「壮悟くんに対して言ったことですよね?」
「うわー、もう、マジでスマン。教育者がしていい発言じゃなかった。反省してる。誰にも言わんでくれ」
「言えませんって。でも、あたし、一つ上の姉がいて、基本的にはおとなしい人なんですけど、たまにすごく大胆で、彼氏さんとの話を聞いたりするので、それなりに慣れてます」
「あー、そっか。なるほどね。進んでんなー。優歌の一つ上ってことは、受験生か?」
「はい。姉もその彼も響告大志望です」
「じゃあ、来年からは二人ともおれの後輩かな」
「朝綺先生、響告大出身でしたね」
「ああ。工学部でプログラミングやってた。介助士の界人もね。十三年来の付き合いになるかな」
「え? 十三年?」
朝綺先生は二十代前半に見える。もしかして、飛び級して大学に入った? でも、それにしても、年数に無理がある気がする。
首をかしげるあたしに、朝綺先生は、いたずらっぽい笑い方をした。
「おれ今、二十八だよ。見えないだろ?」
「もっと若いと思っていました」
「界人はおれより四つ上だけど、同級生。おれは飛び級して十五歳で大学に入ったんだ。界人は大学時代から、おれの世話焼いてくれてる」
朝綺先生のことを、あたしはあまり知らない。朝綺先生も、あたしのことを知らない。お互いにプライベートな話をしたことが、あまりなかった。
今、話したいと思った。話をしたら、あたしは開き直れる。失恋した相手じゃなくて、信頼できる大人として、朝綺先生と対面できるようになる。
あたしはちょっと背筋を伸ばした。
「実はですね、あたし、去年の今ごろ、好きな人ができたんです。姉の友達って、最初は紹介されて、カッコよくてまじめな人で、勉強を教えてもらったりして。あっという間に好きになりました」
瞬一《しゅんいち》さんという人だ。姉の親友の笑音《えみね》さんが連れてきた。姉と瞬一さんと笑音さんの三人は仲がよくて、あたしの家でよく一緒に勉強会をしていた。
「クリスマスの直前に知ったんですけど、姉もその人のことを好きなんだって。姉の親友から、二人をくっつけるから手伝ってって頼まれて、複雑でした」
笑音さんから事情を聞かされて、姉と瞬一さんの様子を観察して、わかってしまった。瞬一さんも姉のことを好きなんだって。
「結局、バレンタインでした。姉がその人にチョコを渡すところを見たんです。カップル成立の瞬間を目撃しました。あたし、最初から登場人物じゃなかったんです。舞台の外で、勝手に失恋した感じでした」
瞬一さんへの想いが一回目。今回が二回目だったんですよ。勝手な片想いのまま失恋したのって。朝綺先生、あなたのことが好きでした。
そんなふうに、あたしは胸の中で付け加えた。バイバイ、朝綺先生への恋心。
もしかして、と朝綺先生が言った。
「あの曲、そのときに作ったのか? 『失恋ロジカル』って、実話?」
「はい、実話なんです。どの唄も正直な気持ちで書いていますけど、『失恋ロジカル』は本当に感情が入りましたね」
ロックチューンに乗せて、悲しいんだけど、明るく駆け抜けるような唄。失恋ソングとはいっても、応援ソングでもあって。
あたしは朝綺先生に笑いかけた。
「麗先生のところ、早く行ったほうがいいですよ?」
「んー、わかってんだけど、どんなふうに声かけりゃいいのか」
「元気出してください。応援したいから、歌ってもいいですか?」
「え? 唄?」
「ミユメのミニライヴ。リアルの側での開催は初めてなんですけど」
あたしはポケットからコンピュータを取り出した。画面を起ち上げて、ミュージックポッドを呼び出す。
「マジで? おれ一人のために、ミユメが歌ってくれるわけ?」
「はい。特別ですよ」
ミユメのファンだと言ってくれた朝綺先生の前で、今いちばんの正直な気持ちを込めて。
音源を再生する。BPM300。ハイトーンのギターリフから、曲が始まる。あたしは、ミユメと同じトーンで叫んだ。
「戦唄―バトルソング―!」
恋の変数xにトキメキの値を代入して
失恋ダメージの最大値を求めましょう
初めて言葉を交わしたのは
秋の曇った木曜日の放課後
最初は他人行儀のキミ
あの子は「彼は友達」って言った
見つめられたら不思議
自分が自分じゃなくなった
ふわり 飛んでいきそうな体
じわり 甘く染みるこれは恋
恋の定数a=(数学教えてもらう距離)
隣に座って肩が触れて ゴメンと言って
白い解答欄 キミのペンが走ります
心臓ドキドキの最小値を求めましょう
キミの隣は幸せすぎて息ができない
数学が苦手なままでいいと思いました
雪が降りそうで降らない
クリスマス前の月曜日の放課後
降って湧いた噂に衝撃
「あの子と彼は両想い」ってホント?
気付かなかったの 鈍感
キミの視線の行く先を追って
くらり ショック受ける寸前
ふらり 見ないふり自己防衛
恋の関数 グラフを書いてみれば
同一胸キュン平面上 キミとあの子の座標
あたしだけz軸の上で迷子です
片想い係数を正直に代入しましょう
キミのことをどれだけ好きなのか
あたしとあの子の恋する連立方程式
簡単な割り算でした
二で割って 余りゼロ
簡潔な解はキレイです
割り切れないのは勝手な片想い
一人じゃ恋はできなくて
二人の恋が結ばれて
解は出てたの 最初から
あたしはピエロな三人目
恋の変数xにトキメキの値を代入して
失恋ダメージの最大値を求めましょう
あの子の未来の彼氏に片想いしたピエロ
恋の方程式を丁寧に解いてみました
流した涙のぶんだけ応援できるよ
キミとあの子が幸せになる未来を
心の成長率三% お子様でゴメンなさい
ホントのコト言えば 泣き足りません
キミの笑顔を独り占めしたかったんです
愛の経験値+x 泣き笑いでいいよね
心の振れ幅 絶対値でくくったら
等しい値のエールを贈りたくなりました
泣き笑いでいいよね
エールを贈りたくなりました
歌い終わって、屋上を後にして、エレベータホールで朝綺先生と別れた。
あたしは、お昼ごはんの匂いに満ちた小児病棟の廊下を突っ切った。壮悟くんの病室の前に立った。インターフォンを押すと、中から看護師さんの声がした。壮悟くんもいるみたい。
「失礼します」
あたしはドアを開けた。壮悟くんは、食事に手を着けていない。また看護師さんを困らせていたんだろう。
ベッドに腰掛けて、目を丸くしている壮悟くんに、あたしはまっすぐ近付いた。右手を振り上げる。
ぱん!
小気味のいい音が鳴って、右手がジンジンした。
「預かりものです。本当はぶん殴ってやりたかったんだそうですよ。それじゃ、失礼しました」
あたしは壮悟くんの病室を立ち去った。すごく、せいせいした。
季節が巡るたびに、沖田さんの病状は悪化していった。
池田屋事件から三年半がたったころには、沖田さんは完全に療養生活に入っていた。屯所を離れて、近藤さんの知人の家で、一日の大半を横になって過ごしている。
アタシはラフ先生に尋ねた。
「沖田さんの結核、どうしようもないんですね?」
「史実に従ってるなら、もう戦闘には復帰できねぇよ」
そのとき、家の主である女性が部屋にやって来た。
「ミユメさま、ラフさま。お客さまどすぇ」
女主人の後ろに立っていたのは、斎藤さんだった。
「沖田さんの様子を見に来た。眠ってるのか?」
「今日は目を覚ましてくれません」
斎藤さんは沖田さんの枕元にひざまずいた。沖田さんの顔にかかる髪を、そっと払う。
「ミユメ、ラフ。頼みがある。沖田さんを大坂の港へ連れてきてほしい」
「大坂の港へ? どうしてですか?」
「江戸へ渡る船が、大坂に停泊している。新撰組は近々、江戸へ引き上げることになった。もちろん沖田さんも一緒にだ」
「京の守りは、もういいんですか?」
「とっくにお払い箱だ。知ってるだろう? 徳川幕府は二ヶ月前、政権を返上した。幕府はすでに倒れたんだ。オレたちの後ろ盾はなくなってしまった」
教科書では、大政奉還というキーワードで書かれているできごとだ。
徳川幕府の最後の将軍、徳川慶喜《とくがわ・よしのぶ》は、政権を天皇に返上した。二百七十年近く続いた江戸時代が、ここに終わった。
幕府の代わりに新たに誕生した政治機関は、明治政府。天皇を頂点とする、倒幕派だった人々による国づくりがスタートした。
京の町はもう、新撰組の敵だらけだ。池田屋事件や禁門の変のころは味方だった勢力も、だんだんと徳川幕府を見限ってしまったから、今では新撰組に敵対している。
斎藤さんは、ポツリと言った。
「戦わないといけない」
「どうしてですか? 倒幕派の手から幕府を守るという役目は、終わったんですよ。それなのに、何のために戦うんですか?」
「会津の殿さまのためだ。将軍が戦うと言うから、会津の殿さまは将軍を守るために戦うと表明している。だったら、会津の殿さまの刀であるおれたちだって、後には退けない」
ラフ先生が遠慮のない言葉を放った。
「負けるぜ。新政府軍の新型兵器には勝てねえ。斎藤、オマエや土方はわかってんだろ?」
斎藤さんはうなずいた。
「外国を打ち払おうという古い考えを先に捨てて、外国の新型兵器を買い揃えたほうが勝つ。これは、そういう戦だ。オレたちは遅かった。人数だけは新政府軍よりも多い。でも、軍備は明らかにあっちが上だ」
「不利だとわかってても、戦場に行くのか? オマエ、今回ばかりはさすがに勘付いてるだろ。新撰組は、年明けの鳥羽伏見《とばふしみ》の戦で負ける。ケガするヤツばかりじゃない。死ぬヤツも出る」
斎藤さんはかすかに首をかしげた。
「新政府軍は、新撰組を目の敵にしている。おれたちは連中の仲間を殺しすぎた。今さら連中に頭を下げて、どうにかなると思うか? 下げた頭を胴体から斬り離されるのがオチだ」
誠心誠意まっすぐに生きる。命を懸けているからこそ、引き返せない。それが新撰組の生き方。
「斎藤さん」
呼びかけたアタシの声は歪んだ。ミユメの顔も歪んでいる。現実のアタシが泣いているせいで、表情筋を連動させたアバターまで、同じ泣き顔をしている。
「何だ、ミユメ?」
「斎藤さんは死にませんよね?」
「……わからない」
ただのゲームなのに。二百年近く前のできごとを描いたフィクションなのに。同じ時を生きている仲間ではないのに。
アタシには、彼らの生きざまがつらい。生きてほしくて、願ってしまう。
斎藤さんが少し目を泳がせた。よそを向いたまま、そっと左手を挙げる。斎藤さんの左手が、アタシの頭に載せられた。髪を優しく撫でられる。
「大坂の港で会おう」
斎藤さんは、そして部屋を出て行った。
ラフ先生がアタシの肩を叩いた。
「心配するな。斎藤一って男はしぶといからさ」
「はい。でも、不安で……だって、近藤さんはケガをして動けないし。それに、藤堂さん、亡くなったし」