読むだけじゃ足りない。書いてみたいと思ったのは、ずいぶん昔。
おれの知ってる世界は白ばっかりだ。病室の白。医者や看護師の白衣。自分の肌の青白さも知ってる。病名さえ、「白」。
現実世界の白は嫌いだ。でも、画面の中の白はいい。
ディスプレイに表示させた白いノートに、文字を打ち込んでいく。一語一語、地道に紡いで、キャラクターに息を吹き込んで、彼らを出会わせて、ときに戦わせて、時代を動かして。
そうすれば、ほら。おれの物語が、色鮮やかに動き出す。生と死のはざまを知ってるから、おれには書ける。
おれは今、病室につながれている。
だから、代わりに、おまえらが暴れてみせろよ。おれがおまえらの晴れ舞台、ここに用意したから。
「完成させなきゃ、死ねない」
全部だ。おれの中にある全部をぶち込んで、とっておきの物語を書く。
時代の流れに抗いながら、命の意味に惑いながら、懸命に生きたおまえらの物語を、おれがこの手で息づかせてみせる。
真っ黒な猫に出会ったんだ。もうずいぶん前のこと。
「胸の病気は黒猫を飼えば治る」って、近藤さんが言った。
「祇園《ぎおん》の坂で見付けた」って、土方《ひじかた》さんが黒猫を拾ってきた。
それは、金色の目をした黒猫だった。ボクはそいつに、ヤミって名前を付けた。ヤミはいつもボクのそばにいた。
「オマエさ、祇園の猫なら、ボクについてきちゃダメだよ。もう一生、こっちに帰ってこられないよ」
熱にうかされて見る悪夢のはざまに、そう言ってやったんだけど、結局ヤミは今もボクの枕元で丸くなっている。
今、ここはどこだっけ? 京の屯所を引き払ったの、いつだった? 大坂から船に乗って、江戸に着いたんだっけ?
ときどき意識が現実まで浮上する。おかげで、知りたくもない出来事を、ボクはちゃんと理解してしまっている。
大勢、仲間が死んだ。
守りたかった。守れなかった。
みんなまとめて犬死するのが宿命だとしても、せめて最期まで一緒に戦いたかったのに、ボクはそれすらできなかった。病がボクのチカラを奪ってしまったから。
ボクはもう刀も握れない。
ヤミがすり寄ってくる。二股に分かれた尻尾。魔のチカラを秘めている証拠の、尻尾。
「このまま死ぬのは、イヤだよ……」
ねえ、誰か聞き届けてくれ。
一度だけ、時を巻き戻せるのなら、ボクを連れていってくれ。
戦場へと。
ボクたちが生きた、血風の時代へと。
円環の紋様が呼んでいる。時代の流れが再び乱れる。
「今回はアンタか」
乱れたところで、流れは変わらない。人は皆、それを知らない。流れを変えようと必死になる。魂を闇に染めてまで必死になる。
オレは時司《ときつかさ》。人とは違う存在。そんな役割を負わされた存在。
何度でも時の流れに乗って、時の流れる道筋が不変であることを確かめる。それがオレの役割。
動乱の時代は、何度も何度も経験した。どいつもコイツも、やり直しを願う。時間をさかのぼって、悪あがきをする。
「まあ、嫌いじゃないがな」
オレは、浅葱《あさぎ》色の羽織にそでを通した。刀を腰に差す。
アンタたちが望むなら、何度でも付き合ってやる。
時を巻き戻そうか。アンタたちとオレが生きた、血風の時代へと。
書きかけの唄が聞こえる。
LA LA love-me…
まだサビしかなくて、歌詞もなくて、めちゃくちゃな英語をつないで歌っている段階。早く形にしてあげたいな、と思うのだけれど。
何を歌いたいのかな、あたし。
気持ちが煮え切れない感じ。
tender, you’re not, AH…
歌うあたしの声は、そこで不意に途切れた。
目覚まし時計の代わりに、あたしはあたしの唄を聴く。そのとき書きかけている唄を。そうしたら、すっと眠りが遠のくの。あたしは起きなきゃいけないって気付く。生きているんだな、今日も朝が来てくれたんだなって。
あたしは、そっと目を開けた。
白いシーツが目に入った。丸めていた体を伸ばしながら、上を向く。白い天井。横を向いても、白い壁がある。
「そっか。昨日から、検査入院だった」
ここは病室だ。小児病棟の個室。
カーテンが開いている。ゆうべ、看護師さんが閉めていった後、あたしが開けた。外が見えないのは苦手だから。
朝の光が差し込んでいる。今日の天気は晴れ。十月の今は、暑くもないし寒くもない。外を散歩したら、気持ちよさそうだ。
あたしはベッドから起き上がった。布団を整えて、髪にくしを通す。部屋の小さな洗面台で顔を洗う。鏡に映った自分の顔は、我ながら思うけれど、十七歳の割にとても幼い。
パジャマのままで病室を出た。ちょうど、顔見知りの看護師さんと鉢合わせする。
「おはよう、優歌《ゆか》ちゃん。よく眠れた?」
「おはようございます。いつもちゃんと寝ていますよ」
看護師さんはニコッとして、隣の病室に入っていった。望《のぞみ》ちゃんを起こしに行くんだ。
あたしは、自分の病室のプレートを見る。
遠野優歌《とおの・ゆか》ちゃん
入院、人生で何度目なんだろう? 小学校に入学するまでは、自宅で暮らした日数よりも、小児病棟で過ごした日数のほうが多かった。だんだん自宅がメインになってはきたけれど。
あたしは「体が悪い」わけじゃないと思う。「体が弱い」だけ。
体が悪いのと弱いのの違いは、治療できるかどうか。体が悪いのを治す薬はあるけれど、弱いのは案外、どうしようもない。薬じゃ治らなかったりする。
今回の検査入院に先立って、初めて受けた質問がある。
「入院先は、一般病棟と小児病棟、どっちがいい?」
この病院の小児病棟は、原則として十五歳までの子どもしか入院できない。十七歳のあたしはもう卒業しなければいけないのだけれど。
「すみません、小児病棟がいいです」
わがままを言ってしまった。主治医の先生も、あたしの答えを予測してはいたみたい。あたしのわがままは、あっさり通った。
小児病棟では、動ける子はみんな食堂に集まって、朝ごはんを食べる。
「おはようございます」
あたしは精いっぱい元気に、食堂の看護師さんたちに挨拶をした。看護師さんたちは、必死そうな笑顔であたしに応えた。
「ちょうどよかった! 優歌ちゃん、ヘルプ!」
「はい、何をしましょう?」
「ちびっこたちの手洗いと消毒をチェックして!」
「わかりました」
子どもたちの食事は大変だ。集まったら、みんなわーわー騒いじゃうし、ぐずったり、床にひっくり返ったり、爆笑したり、ケンカを始めたり。
配膳も、絶対に間違えられない。年齢や病状、薬に合わせて、一人ひとり、違う食事が用意されているから。
食事のメニューで言えば、実は、あたしがいちばん面倒かもしれない。あたしが食べられるものは、極端に少ないから。
あたしが病院にかかりっきりの理由。それは、重い食物アレルギー。
生まれつき、食べてはならないものが多すぎる。例えば、ふわふわのパンや、ぴかぴかの白いごはん、肉汁のしたたるハンバーグ、しっとり大人な風味のチーズケーキ。おいしいはずのものたちが全部、あたしが食べると毒になる。
もっと言うと、母乳が飲めない赤ちゃんだった。市販のミルクももちろんダメ。なぜかというと、あたしの体は、お乳に含まれるたんぱく質や糖質をきちんと分解できないから。誤った分解をして、それが体の毒になる。
医学が発達していないころだったら、あたし、赤ちゃんのころに死んでいたはず。お乳をもらうと、どんどん具合が悪くなっていく。そんな赤ちゃん、誰がどうやっても救えなかったと思う。
二十一世紀も半ばを過ぎた今だから、あたしは生きている。医学の力で生かしてもらっている。
「優歌ちゃん、お願い! 勇大《ゆうだい》を迎えに行って!」
また、看護師さんの声が飛んできた。
「はーい」
あたしは返事をして、廊下を急ぐ。
看護師さんたちは、疲れていても元気だ。あたしも体が動く日は、一緒に頑張る。同世代の女の子と比べたら、運動オンチなんて言葉では表せないくらい、本当に体力がないのが情けないけれど。
寝坊した子を迎えに行く。ぐずる子をつかまえて、なだめすかして食堂に連れてくる。
十歳の望ちゃんと勇大くんは、頼もしい味方だ。
「優歌ちゃん、お手伝いできるわよ」
「おれもおれも!」
「勇大、あんた、寝坊したくせに」
「だ、だから、そのぶん今から手伝うって!」
あたしは二人の病名を知らない。二人とも、ずっと入院している。大変だったときもあるけれど、今は小康状態らしい。普通の小学生みたいに、よくケンカしている。
「望ちゃんも勇大くんも、ちょっと静かにね。みんながまねしてしまいます」
「はーい」
「あっ、あいつ、別のやつのお盆を持ってる。おい、ダメだぞー」
手分けをして、間違えがないように気を付けて配膳をする。みんなをちゃんと席に着かせる。いただきますをしたら、小さな子どもたちを見張る。
男の子って、なぜだか、早食い競争をしたがる。よく噛んでねって、看護師さんに注意されたら、今度は「必ず五十回噛む」という縛りのある早食い競争になった。
でも、ぐずぐずして食べないよりは、たぶんいいよね。そう思うことにしている。あんまりガミガミ言っても、よくないと思うんだ。ただでさえ、きつい治療を受けている子がほとんどなんだから。みんなで集まっているときくらい、楽しみたいよね。
自分で動ける子たちが食べ終わって、洗面台で歯磨きを始めると、あたしはやっと自分の朝ごはんを食べられる状態になった。
食事介助が必要な子は、まだ食事中だ。小児まひの由士《ゆうし》くんと目が合った。「こっち来て」っていう目だ。あたしはお盆を持っていって、由士くんの正面に座った。
「ここで食べますね」
由士くんの目がニコッとした。
あたしがいただきますをした直後だった。歯磨き中の子どもたちが、わっと騒いだ。
「うわ、朝綺《あさき》先生!」
「界人《かいと》さんも!」
「おはよーございます!」
「先生たちもここで食べるの?」
朝綺先生、と聞いて、あたしはスプーンを取り落とした。食器の中で、特製のシリアルがカサッと鳴った。
飛路朝綺《とびじ・あさき》先生。あたしの憧れの人。
朝綺先生はさっそく、子どもたちに取り囲まれている。サラサラの茶色っぽい髪に、線の細い完璧な横顔。いたずらっぽく笑っている口元。年齢は知らないけれど、たぶん二十代前半。
服がいつもちょっと目立つ。ロックバンドのロゴが入ったTシャツとか、ダメージ入りジーンズとか。病院のスタッフさんでも私服の人はいるけれど、朝綺先生みたいなスタイルは珍しい。
今日もカッコいいです。
口に出しては言えないことを、あたしは胸の内側でつぶやいた。
朝綺先生は、院内学園で勉強を教えている。子どもたちに好かれているのはもちろん、ママさんたちにも朝綺先生ファンが多い。メインは理系らしい。でも何でも知っていて、どんな教科もできる。
今朝の朝綺先生は車いすに乗っている。車いすを押すのは、風坂界人《かぜさか・かいと》さん。朝綺先生の親友で、介助士をしている人。
界人さんは背が高くて、いつもにこにこしている。優しい性格が、声にも話し方にも表れている。くしゃっとした髪に、銀のフレームのメガネ。ファッションは、ヘルパーさんとして普通な感じ。汚れてもいい、動きやすい服装だ。あんまりオシャレではない。
界人さんファンも多い。でも、あたしは断然、朝綺先生派。みんなの前では隠しているつもりだったのに、望ちゃんにはバレバレだった。
あたしは、朝綺先生に見とれてしまう目を、無理やり引きはがした。今はまず朝ごはんを食べないと。
と、まじめにスプーンを動かしていたら、いつの間にか。
「おはよ、優歌」
いつの間にか、朝綺先生が隣にいた。
「お、おお、おはようございます。びっくりした」
「悪ぃ悪ぃ。この車いす、音がしねぇだろ? けっこう上等なんだ」
「そ、そうなんですね」
「優歌はあいつらの面倒見てから食事か? 毎朝、大変だな。ご苦労さん」
「大変ですけど、楽しいですよ」
「そうだな。散歩のついでにこっちまで来てみたんだけど、いやぁ、にぎやかなもんだ。おう、おはよう、由士。ご機嫌だな。美人の優歌と一緒に朝飯で、嬉しいんだろ? うらやましいやつめ」
あたしはうっかり、変な声を上げてしまうところだった。朝綺先生の口から「美人の優歌」だなんて言葉が飛び出すなんて。カーッと顔が熱くなってくる。
由士くんはしゃべるのが苦手だ。でも、朝綺先生は不思議な人で、なかなか聞き取れないはずの由士くんの話を、即座に理解してしまう。
ダメだ。ついつい、視線が朝綺先生のほうへ向かっちゃう。
朝綺先生の右の頬には、薄い一文字の傷痕がある。よほどちゃんと見ないと気付かないけれど。でも、あたしはそれにも気付いてしまった。だって、しょっちゅう見てしまうから。
「ところで、優歌。ここ来たのは、優歌に用事があって」
「あ、あたしにっ?」
朝綺先生は声のトーンを落とした。節張った手を、車いすのアームレストから持ち上げて、口元に添える。
「まだほかのやつらには内緒な。今日からメンツが増えるんだ」
ああ、なんだ。院内学園の話か。
「つまり、転校生ですか?」
「そう。優歌と同じ高校生だぜ。昨日、入院したばっかりなんだ」
「わかりました。楽しみですね。どんな人なんでしょう?」
「今日の昼ごろでも、一緒に挨拶に行くか?」
「はい」
「オッケー。ちなみに、転校生、イケメンだぞ」
「……はあ。そうなんですか」
「あれ、興味ねぇの? まあ、優歌は目が高そうだもんな」
朝綺先生はすさまじく鈍感なリアクションをした。あたしがいつも見ちゃっていること、朝綺先生は全然わかっていないんだ。
そうですね。確かにあたし、目が高すぎるかもしれませんね。朝綺先生ってステキすぎるもの。
「そういや、優歌」
「はい?」
「そのパジャマ、かわいいな」
反則なセリフをサラッと投げて、朝綺先生はテーブルを離れていった。両手で転がす車いすは、床の上を滑るように、音ひとつ立てない。
響告《きょうこく》大学附属病院。
病院としても研究機関としても国内最先端で、特に人工細胞を使った難病治療は世界的に有名だ。
この響告大附属病院が、あたしのかかりつけの病院だ。あたしの居場所、と言ってもいいかもしれない。
朝ごはんの後、あたしは自分の病室で服を着替える。
白いカッターシャツ、赤いリボンネクタイ、チェック柄のワンピース、白いソックスと黒いローファー。前髪をヘアピンで留めたら、ちょっとレトロな女子高生の出来上がり。
とはいっても、これは本物の制服ではなくて。だって、あたしが在籍しているのは、課題のデータを送信するだけの通信制高校。課題送信型で、出席の必要がなかったのは、小学校のころからずっとだ。
「望ちゃん、行きましょう?」
「うん!」
望ちゃんが病室から飛び出してきた。セーラー服っぽいワンピースだ。ベリーショートの髪は、ようやくここまで伸びたところで、帽子をかぶらなくてもよくなった。
あたしたちは並んで院内学園へ向かう。途中で合流した勇大くんは詰襟の上着で、ズボンにはセンタープレスがキッチリ入っている。
院内学園では、いつしか、みんな制服ごっこをするようになった。ママたちも協力してくれている。あたしたちが学校生活を送れる場所は、ここだけしかないかもしれない。だから精いっぱい、普通に楽しみたい。
朝綺先生はもう、教室でスタンバイしていた。挨拶をすると、チラッと右手を挙げて笑ってくれる。座っているのは普通のいすだ。車いすを転がすんじゃなくて、歩いてここまで来たらしい。
下は五歳から、最年長は十七歳のあたし。勉強する内容は一人ひとり違う。学校に通えなくて勉強が遅れている子が多い。逆のパターンもあって、勉強が闘病の息抜きになっているっていう賢い子もいる。
朝綺先生は、教えることにおいては完璧だけれど、できないこともある。
「おーい、優歌。ちょっと助けてくれ」
「はい。何ですか?」
「理生《りお》にひらがなの書き順、教えてやってくれ」
「わかりました。おいで、理生くん」
朝綺先生は、病気の後遺症で筋力が弱い。車いすを使うのも、そのせいだ。
完全な寝たきり状態を脱して、リハビリ生活に入ってから、まだ一年。荷物はほとんど持てない。たぶん食事も不自由だと思う。その証拠に、あたしたちの前では食事をしない。
六歳の理生くんが、あたしを見上げてニコッとする。
「優歌ちゃん、お願いしまーす」
あたしは理生くんの後ろに立った。コンピュータを広げて、タッチペンを握る理生くんの手を、あたしの手で包み込む。
「じゃあ、一緒に書いてみましょうか」
コンピュータに表示されているのは、ひらがなワークだ。「な」の字のお手本の下に、二人で「な」を書いていく。
「一画目は横。二画目は斜め。三画目は点。四画目は、くるっと穴を作ります。穴の形は、丸じゃなくて三角がきれいですよ」
実際に手を動かすワークは、朝綺先生にはできない。だから、あたしが代わりに教えるの。
三回一緒にくり返して、最後に理生くんひとりで「な」を書いた。最初より、ずっと上手になった。理生くんのお礼の言葉を受け取って、あたしは自分の席に戻る。
ちょっと手が空いてから、朝綺先生は立ち上がって、ゆっくりとあたしのところへやって来た。
「ありがとな、優歌。いつも助かる」
朝綺先生の笑顔はクッキリしている。口角がキュッと上がって、えくぼができて、大きな両目が弓なりにやわらぐ。筋力が弱いはずなのに、表情筋は誰よりもよく動くんじゃないかな? そう思うくらいの、パッと明るい笑顔だ。
ドキドキするのを隠して、あたしも笑う。
「どういたしまして。教えるのは楽しいから好きです」
「でも、自分のぶんの勉強、進まねぇだろ? 悪いな」
「ちゃんと自分でやってますから、大丈夫です。三角関数だけ、後で少し教えてください」
「りょーかい。ほんと、優歌は頼りになるし、優秀だよ」
「そ、そんなことないですよ」
「謙虚だよな。もっと自信持てよ。優歌はみんなのステキなおねえちゃんだよ」
朝綺先生は誉める。ひたすら誉める。誉め言葉も殺し文句も、恥ずかしいほど口にする。
半年くらい前だけど、あたしはどうにも照れくさくなって、やめてくださいって言ってしまったことがある。そうしたら、朝綺先生はニヤッとした。
「やめねぇよ。おれには口しかねぇからな。頭ポンポンしてやりたくても、手がうまく上がらねえ。だから、そのぶん口で伝えるんだよ」
すごく、すごく当たり前のことだ。でも、普通はできないこと。それをサラッとやってしまう朝綺先生は、考え方や生き方がやっぱりカッコいい。
院内学園で過ごす時間は、あっという間に過ぎていってしまう。みんな集まって、それぞれの勉強をしているだけなのに。
ううん、している「だけ」だなんて、ぜいたくな言い方だ。あたしたちにとっては、普通みたいな、当たり前に似た、この学校みたいな空間はかけがえのないものだから。
朝綺先生がみんなに呼びかけた。
「もう十一時だぞ。そろそろ今日の授業はおしまいだな。忘れ物がないように、病室に戻るんだぞ」
望ちゃんが口をとがらせた。
「あーあ、お昼になっちゃう……」
お昼ごはんはみんなバラバラで、午後には治療や検査が入っている子が多い。みんなにとって、午後は苦しい時間なんだ。
「望ちゃん、今日の夕方は予定がありますか?」
空いていたら、遊びに行ってあげよう。そう思ったんだけど。
「ごめんね、優歌ちゃん。今日からまた治療が始まるから」
「あ……そうなんですね」
望ちゃんは手をぱたぱたさせて笑った。
「やだなー、優歌ちゃん。そんなしょんぼりな顔しないでよ。大丈夫だよ。ちょっと具合が悪くなって、髪がなくなっちゃうだけだからさ。あ、最近ね、おばあちゃんから新しい帽子をもらったの。治療が始まったら、あれをかぶるんだ。超楽しみ」
そこへ勇大くんが走ってきて、望ちゃんに体当たりした。
「ほら望、病室まで競走するぞ!」
「やったなぁ! 待て、勇大!」
勇大くんと望ちゃんがバタバタ走っていく。台風みたいだ。
「……二人とも長期入院の病児なのに」
あたしが思わずこぼすと、朝綺先生もまぶしそうな目をして笑った。
「すげぇよな。薬の副作用なんか屁でもねえって感じで。おれもあいつらに交じりたいよ」
「近いうちに、交じりに行けるんじゃないですか? だって、朝綺先生、どんどん動けるようになっていますから」
「まぁな。みっちりリハビリやってっから」
「午後に毎日、ですよね? どこでやっているんですか? 見かけたこと、ないんですけど」
朝綺先生は、冗談っぽく片目をつぶった。
「言わねぇよ。努力をひけらかすようなまねはダセェだろ」
「ダサい、ですか?」
「うん。少なくとも、優歌たちの前では、おれはひたすらカッコよくありたいんだよ。さて、みんな帰ったし、例の転校生のとこに行くか」
「はい」
朝綺先生は、ポケットからイヤフォン型の電話を取り出した。ちょうどそのときだ。
恋の変数xにトキメキの値を代入して
失恋ダメージの最大値を求めましょう
あの子の未来の彼氏に片想いしたピエロ
唄が鳴った。朝綺先生の着メロだ。透明感のある甘い声。明るい曲調で、BPM300の超アップテンポ。
あたしは悲鳴を上げそうになった。慌てて口を押さえる。
幸い、朝綺先生はあたしの様子に気付かなかった。「ちょうどよかった」なんて言って、イヤフォンを耳に付けて通話を始めた。
「もしもし? おう、今から行こうと思ってた。そっちも都合いいか?」
どうやら転校生さん関連の誰かが相手みたい。朝綺先生は親しげな口調で話している。
あたしの心臓は、壊れそうなくらいバクバク鳴っていた。
何で? どうして朝綺先生があの唄を? 配信されてまだ二週間。ピアズの外では全然無名なはずなのに。
ということは、朝綺先生もピアズのプレイヤーなの?
「じゃ、優歌と一緒に、すぐ向かうから」
朝綺先生がイヤフォンを外した。口を隠したまま固まったあたしに、朝綺先生は首をかしげた。
「優歌、どうかしたのか?」
「あ、あの……さっきの、着メロ……」
「ん? 『失恋ロジカル』って曲。最近のお気に入り。曲調も声もすげぇ好きで。あるゲームの特典でダウンロードできるんだ。歌ってる子がまた美少女でさ。おれ、彼女の唄は全曲コンプしてるんだぜ……って、おい、優歌っ?」
朝綺先生が焦ったように叫んだ。あたしがフラッと倒れそうになったから。貧血じゃなくて、その真逆。頭に血が上って、顔がほてってクラクラしたせいだ。
あたしは何とか踏みとどまった。
「そ、そのゲームって、ピアズ、ですよね?」
アクションRPG『PEERS’ STORIES《ピアズ・ストーリーズ》』。通称、ピアズ。西暦二〇五九年の今、唯一公認されているオンラインゲームだ。
三十年近く前、オンラインゲームが原因で大きな犯罪が起こった。その解決の手段として、ネットの世界が大幅に規制された。オンラインゲームは完全に粛清されて、西暦二〇五〇年、ようやくピアズが唯一、解禁された。
離れた場所にいるユーザが同時にログインして、一つの物語を共有して、協力して戦う。ピアズは、そんな出会いのゲームだ。
「え? 優歌もピアズやってんのか?」
「は、はい。その……歌っているのは、ミユメ、ですよね?」
「ん、そうそう。人気急上昇中の歌姫で」
唄《うた》は、半年前に実装された新システムだ。一つのステージに一曲が割り当てられていて、条件を満たしてステージをクリアすると、ダウンロードできる。オフラインで楽しめるコンテンツであると同時に、唄はバトルに役立つスキルでもある。
「ミユメはバトルも強いって話だろ? 会ってみたいもんだよなー」
「……会えますよ……」
「マジで? ミユメのこと知ってるのか?」
「知ってるというか、ええと……あたしの声、あの、気付きません?」
あたしはささやいて、ギュッと目を閉じた。
朝綺先生の凍り付いた気配。
やっちゃったかもしれない。だって、朝綺先生にとって、ミユメはキラキラした存在のはずで、でも、目の前にいるあたしなんて、体が弱くてちっちゃくて、へなちょこで。
いきなり、朝綺先生はおたけびを上げた。
「すっげえ! マジかーっ!」
「あ、あの……」
「マジでミユメなんだなっ?」
「……は、はい」
「うおぉぉぉ! 優歌、おまえ、すごいな! 作詞も作曲もアレンジも自分でやってんだろ? うわぁぁ、マジか! おれ、優歌のファンだよ! くっそ、飛び上がれねぇのが悔しい」
あたしはポカンとした。
朝綺先生がはしゃいでいる。大きな目に楽しそうな光をキラキラ躍らせて、見とれるくらいの満面の笑みだ。
遠くから看護師長さんに叱られた。
「お二人さん? ちょっと声が大きいんじゃない? あなたたちが騒いだら、子どもたちまで騒ぎ出します。お静かにね」
朝綺先生がペロッと舌を出した。あたしは思わず笑ってしまう。
「なあ、優歌。今、仲間《ピア》と一緒なのか?」
「いいえ。今は一人です」
「じゃあ、おれと組まねぇか?」
「朝綺先生と?」
「おれっていうか、おれたちっていうか。実は、手伝ってほしいことがあるんだ」
朝綺先生は小さな咳払いをして、少しまじめな顔をした。
「お手伝いですか?」
「そう。ピアズの中でバイトしねぇか?」
「バイト?」
「おれの本業、プログラマなんだよ」
「はい、知っています」
院内では有名な話だ。筋力ゼロだった朝綺先生は、驚異的なスピードで、手首から指先までの機能を回復した。なぜなら、朝綺先生は一刻も早くコンピュータを使えるようになりたかったから。
朝綺先生の仕事は、ゲーム関係のプログラミングだ。ゲームをプレイするほうも大好きらしい。
「おれ、実はピアズの開発にも関わってて、今もいくつか案件を抱えてるんだ。そのうちの一つを優歌に手伝ってほしい」
「あたしにもできるお仕事なんですか?」
「うん。やってくれる?」
黒い目に見つめられて。断れるはずなんてないから。
「お役に立てるなら、ぜひ」
朝綺先生の顔に、パッと笑みが咲いた。
「サンキュ! じゃあ、優歌のピアズのアドレス、教えてくれ。後でサイドワールドのメッセに招待状送っとく。それで、今夜八時、招待状からログインして」
「わ、わかりました」
「楽しみだな、今夜」
「は、はい……!」
憧れの人との冒険の約束だなんて。とんでもなく幸せで、ワクワクする。
「じゃあ、転校生のとこ、行くぞ」
「あ。そうでしたね」
あたしは、うっかり忘れていた現実に連れ戻された。