あたしは、スーッと大きく息を吸った。インターフォンのマイクに口を近付ける。
「壮悟くんッ!」
〈……ぅわっ〉
歌うときの声をマイクにぶつける。アカペラでも通りすぎる、あたしの声。音響機器との相性もバツグンで、要するに、とてもうるさい。
「話をさせてくださいッ! どうして意地悪ばっかり言うんですかッ?」
〈ちょっ、おい……〉
「ここ、開けてくださいッ! それとも、勝手に入っていいんですかッ?」
〈……声、響きすぎ……〉
まっすぐ突き抜けるようなクリアな声って、よく言われる。ハイトーンだと、特にそう。 あたしの声はインターフォンを通じて、壮悟くんの病室じゅうに反響しているはず。
うるさいでしょう? 我慢できなくなるまで、しゃべり続けてあげる。あたしは再び、スーッと息を吸った。
そのとき。
「うるっせーんだよ! 朝のガキどもの十倍うるせえ。その声、いろんな意味で凶器なんだよ。病人相手に何しやがんだ」
病室のドアが内側から開いた。怒った顔の壮悟くんが、あたしを見下ろしている。
朝と同じ、不良みたいに見える格好だ。ニット帽は、治療の副作用で抜けた髪を隠すためで、スウェットスーツは洗濯しやすいからで、そういうことはわかっているのだけれど。
思いっきりにらまれると、やっぱり、不良にからまれているみたいで怖い。顔立ちが整っているせいで、ますます怖い。
怖いけど、でも、ここで引き下がれない。
あたしは腹をくくって、笑顔をつくった。
「やっと出てきてくれましたね」
壮悟くんは、ぷいっと横を向いた。相変わらず顔色がよくない。
「その声、マジで加工ゼロなんだな。普段から、本当にこんな声とはね」
「え?」
「ハートを射抜く歌声、だっけ。声の響きがストレートで硬質、明るくて甘いハイトーン。ハマるやつが多いのもわかるけど、狭い病室であの音量は二度とやるなよ。脳みそに光線銃でも食らったような気分だ」
あたしの歌が評価されているのは、ピアズの中だけだ。それを壮悟くんも知っている。ということは。
「壮悟くんも、ピアズをやるんですね?」
「…………」
壮悟くんは答えずに歩き出した。あたしはその背中を追いかける。
「あたし、ずいぶん前からプレイしているんです。体を動かして遊ぶことがあまりできない体質で、でも音楽は得意なんです。音楽を作るソフトを使うのも、音楽系ゲームも。だから、ピアズのバトルも得意で」
「あっ、そう」
壮悟くんは背が高くて、脚が長い。大股でゆっくり歩いているように見えるけれど、小柄なあたしは、軽い駆け足になっている。
「今は、古い日本風のステージにいるんです。平和じゃない時代なんですけど、活気があって、カッコいいなって思います。ステージガイドさんもステキなキャラで。思いがけない行動をとるから、ちょっと困るけど」
突然、壮悟くんが足を止めた。あたしを見下ろす目が真剣だ。
「ほかに、感想は?」
「はい?」
「そのステージの感想。ほかには?」
口調が変わった。そんな気がした。
「えっと、キャラが魅力的です。人数は多いんですけど、一人ひとり、ちゃんと書き込まれていて、個性的で、生き生きしているんです。まだほんの序盤なんですけどね」
壮悟くんが、ふっと息を洩らした。笑ったんだ。
「個性的ね。そりゃそうだ。オリジナルの彼らが個性的なんだから」
「え? え、待って」
知っているの? 配信前の、誠狼異聞というステージを?
「カッコいいに決まってんだよ。あいつらなんだから」
あたしは息を呑んだ。
「もしかして、壮悟くんって……!」
ラフ先生が言っていた。誠狼異聞のシナリオを書いた人は若いって。書いた当時、十五歳だった、って。
シナリオオーディションは去年だった。去年、壮悟くんは十五歳だったはず。
あたしは事実を確かめたかった。でも、壮悟くんにさえぎられた。
「まあ、関係ない話だな」
「か、関係ありますよ? だって、あたしはテスターで……」
「だったら、ますますだ。テストする側と、される側。仲良しごっこしちゃいけない間柄だろ」
それって肯定ですよね? 壮悟くんが誠狼異聞を書いたという意味でしょう?
朝綺先生もそれを知っている。だから、リアルで会う前から知り合いだった。そうでしょう?
あれこれ想像してみる。いろいろつながって、ワクワクして、すごいなって思った。何もかも全部すごいなって。
壮悟くんはまた歩き出した。あたしも付いていく。
ずんずん歩いている。小児病棟の階段を上って、空中回廊に出て、回廊をぐるっと巡って、研究棟に入って。
「あんたさぁ、いつまでついてくんの?」
「壮悟くんは、どこに行くんですか?」
「どこだっていいだろ」
「今日、治療や検査はないんですか?」
「薬、何十錠も飲んでる。逆に、あんたは何? 割と元気そうだけど、どこが悪いわけ?」
つっけんどんな言い方だ。でも、腫れものにさわるような扱いより気楽かもしれない。
「あたしは食物アレルギーです。食べ物に含まれるタンパク質に反応しやすくて、食べられるものが極端に少ないんです」
「食べられないんだ。だから、そんなにちっちゃいのか」
「ち、ちっちゃいのは家系のせいもあって」
両親も大きくないし、姉も妹も小柄で華奢だし。あたしがいちばんちっちゃいけど。
「それで? アレルギー反応起こして担ぎ込まれたってわけでもないだろ。ピンピンしてるし」
「今回は検査入院です。どの構造のタンパク質が大丈夫なのか、逆にダメなのか、いろいろ調べる臨床試験に協力しています」
「そんな試験、何になるの?」
「ほかのアレルギー患者さんの治療の基礎研究とか、特定のタンパク質に対する反応式の解明とか。あたしの体質は敏感すぎるから、生活には不便ですけど、研究には役に立つんです」
「へー。実験動物ってわけ」
研究棟の廊下を突っ切って、階段を降り始める。ざっくばらんな訊き方を壮悟くんがしたから、あたしも単刀直入に尋ねた。
「壮悟くんは白血病なんですよね?」
「そうだけど」
「白血病は、がんの中でも治療の研究が進んでいるって聞いたことがあります」
「どうだか。七十年も前から同じ治療法なんだぜ。副作用も欠点も、いくらでもある方法だ」
皮肉な言い方だった。
階段を降りる足がゆっくりになる。あたしは壮悟くんに並んだ。
「欠点って?」
「白血病がどんな病気か、知ってる?」
「えっと、血液のがんですよね?」
「正確には、血球のがんだけどね」
「あ、はい、確かに。血液の中にある血球、つまり白血球と赤血球と血小板を、上手に造れなくなる病気ですよね」
背骨の内側に骨髄《こつずい》がある。骨髄の中に造血幹細胞《ぞうけつかんさいぼう》がある。
造血幹細胞が血球を造っている。血球の種類は三つあって、外から侵入した敵を退治する白血球、肺が吸収した酸素を全身に運ぶ赤血球、そして、傷口の出血をふさぐ血小板だ。
がんに冒されると、造血幹細胞は血球を正しく造れなくなる。だから、その患者の体は、白血球によって外敵の侵入を防げなくなる。赤血球によって酸素を全身に運べず、貧血になる。血小板によって傷口の血を固めることができなくなる。
「ちなみに、がん細胞の定義、知ってるか?」
「無制限に増え続ける細胞、ですよね。普通の細胞には寿命があって、サイクルがあります。古い細胞が死んで、新しい細胞が代わりに働くようになるけれど」
「計画細胞死《アポトーシス》。死なない存在はないんだ。人が必ず死ぬのと同じ。細胞レベルでも、必ず死は訪れる」
「でも、がん細胞は死なないんですね」
「がん細胞ってのは、要するに、遺伝子に異常が起きた細胞なんだ。遺伝子の中の染色体がイカレてるわけ」
「染色体の異常。聞いたことがあります。ヒトの遺伝子には四十六本の染色体があるけれど、がん細胞は、正常なヒトの遺伝子構造を保たなくなってしまった細胞だって」
「がん細胞は狂ってる。死なずに増え続ける。そんな狂ったやつらがおれの中にいるんだ。まともな細胞の居場所を奪って、無制限に増えて、おれの体を壊していく」
淡々と、壮悟くんは言った。肩で大きく呼吸をする。
何だか様子がおかしい。息が切れている。壮悟くんは歩いてきただけ。ずっと小走りしていたあたしとは違うのに。
「壮悟くん、大丈夫ですか?」
顔色が蒼い。荒れた唇が紫色になっている。
壮悟くんは階段の手すりをつかんだ。そうしながらも、足を止めない。しゃべるのも止めない。
「白血病の治療法、知ってる? 二十世紀の終わりごろ、つまり六十年も七十年も前から、有効だって言われてるやつ。抗がん剤や放射線で白血病細胞を殺して……生きてる血球や細胞もろともだから、副作用がひどくて」
壮悟くんは肩で息をして、足を止めた。
一階まで戻ってきたところだ。廊下は、がらんとしている。立ち並ぶ研究室のドアは閉ざされていた。壮悟くんは壁に寄りかかって、荒い息をした。
「……くそっ、このくらいで……」
「具合が悪いんですか?」
「ただの貧血。ヤベエ、頭痛ぇ」
「そ、そんな、どうしましょう?」
「騒ぐなよ。あんたの声、頭に響く。休めば収まる。こんなの……ちくしょう。一度は治ったのに」
壮悟くんは、壁に寄りかかって体を支えたまま、眉間にしわを作って目を閉じた。男の子なのに、まつげが長い。
「一度は治ったって、どういうことですか?」
「そのまんまだよ。おれ、今回のは、再発なんだ」
「再発……」
壮悟くんは唇を噛んだ。荒れていて痛そうなのに、きつく噛んだ。
「何ベラベラ話してんだか。こんな無関係なやつ相手に」
無関係でも何でも、聞かせてほしいと思った。興味とか好奇心とか、そんなんじゃなくて。
皮肉の理由、意地悪の理由、本当の心を隠すような態度の理由。話すことで解き放てるのなら、壮悟くんの苦しみがやわらぐのなら、あたしはどんな話でも聞きたい、聞かせてほしいと思った。
目を閉じた壮悟くんは低い声で言った。
「白血病の、おれが受けたタイプの治療には二段階あってさ。抗がん剤治療の後、骨髄移植《こつずいいしょく》をする。抗がん剤は、がん細胞もろとも、普通の細胞もまとめてダメにしちゃうから」
「別の人から、正常な造血幹細胞を分けてもらうんですよね。それが骨髄移植」
「ああ。でも、移植は簡単なことじゃない。新しい骨髄を、体が外敵だと認めてしまったら、体は激しいアレルギー反応を起こす。下手すりゃ死ぬらしい」
「あたしにも、そういう経験ありますよ。うっかり口に入れてしまったものがアレルゲンを含んでいて、脳細胞が破壊されそうなくらいの高熱が出たり、自力で呼吸ができなくなったり、何日間も意識を失ったりして」
人間の体はとても臆病で繊細だと思う。怖がりだからこそ、攻撃的でもある。排除しなければならないモノだと認識したら、自分自身まで殺しそうなほどの攻撃をするんだ。それがアレルギー反応。
壮悟くんは、大きな手で額を覆った。
「十歳のころ、抗がん剤治療が一段落してから一年以上、何度も入院しながら、骨髄移植のチャンスを待った。骨髄の型が家族とも親戚とも合わなくて、骨髄バンクを当たってもドナーが見付からなくて」
「移植、できたんですか?」
「できた。やっとできたと思ったのに、二年とたたずに再発しやがった。絶望的だね。なあ、あんたは金持ちの娘なんだろ?」
壮悟くんが、うっすらと目を開けた。その顔を見つめていたあたしはドキッとする。
「お金、ですか?」
「入院って、金かかるよな。うちの場合、親が親戚じゅうに頭下げて借金したんだ。親も親戚も何も言わないけど、たぶんまだ全然、返せてない。なのに、再発した。もういっそのこと死んで保険金もらったほうがいいんじゃねぇかって、おれ、本気で思った」
「そ、そんな」
「ポロっと妹にそんなこと言ったら、めちゃくちゃキレて泣いて。でも、それじゃどうすんだよって八方ふさがりだったとき、話が舞い込んだ。響告大学附属病院での臨床試験。風坂麗のマウスにならないかって話」
壮悟くんが、ふぅっと息をつく。体が小さく震えた。もしかしたら、熱が上がり始めているのかもしれない。
「風坂麗先生って、人工的な万能細胞を使った治療の専門家ですよね?」
「ああ。風坂麗の技術があれば、他人から骨髄を移植してもらう必要がなくなる。おれの細胞を使って、人工的に、おれ自身の健康な造血幹細胞を作れるから」
「そっか。他人の骨髄を使わないなら、ドナーを待つ必要も、アレルギー反応を心配する必要もなくなるんですね」
「しかも、今回のはまだ実験段階。データを全部提供する代わりに、費用は無料。造血幹細胞を移植する前段階の抗がん剤治療も、かなり安くで受けられる。家族はこの話に飛び付いた」
壮悟くんが急に、うっ、と苦しげな息をした。きつく眉をひそめたと思うと、あたしを見つめるまなざしが、ふと焦点を失う。
一瞬、完全に壮悟くんの体は力を失った。
「きゃっ」
壮悟くんがあたしのほうへ倒れかかってきた。抱きすくめられる。重みがかかる。タタッ、と乱れた足音が廊下に反響した。壮悟くんはどうにか踏みとどまっている。
抱きすくめられている。
荒い呼吸が耳をかすめる。ささやく声が頬に触れた。
「……悪ぃ。今、マジで余裕ない。支えがなきゃ、立って、られない……」
熱い。壮悟くんの体、すごく熱い。
鼓動の音がする。苦しいぐらいの心拍数だ。あたしの鼓動なのか、壮悟くんの鼓動なのか、混じってしまってわからない。
顔と頭に血が集まる。のどがカラカラになる。
「あ、の……」
舌が回らない。声が出ない。
「その先、行ったとこ、ドアがある……庭に、出られるから、あっちへ。芝生で横になれるから」
「わ、わかりました。歩けます?」
壮悟くんはかすかにうなずいて、あたしを支えにしながら、ゆっくり歩き出した。
そこは小さなイングリッシュガーデンだった。伏せたお椀のようなガラスドームに覆われている。背の高い建物に囲まれて、空は狭く切り取られていた。
建物の三階よりも低いガラスドームの内側には、柔らかな熱を放つ人工太陽がほのかに輝いている。青々とした芝生。満開の秋バラが、さわやかで甘い香りを放っていた。
芝生の上で、壮悟くんは倒れ込んだ。もちろん、あたしも巻き添えにして。
「……ゃっ……!」
「ゴメン……しばらく……」
仰向けの背中の下に、あたしを抱きかかえる壮悟くんの腕がある。
息が、できない。
心臓がドキドキしすぎて、苦しい。
これは事故。これは偶然。壮悟くんは貧血を起こして、自由に動けなくて、だから、これは仕方のない状況で。
わかっている。ドキドキする必要なんてないはずなのに。
あたしの耳元で震える、壮悟くんの呼吸。やせていても、骨が太くて体じゅうが硬くて、ずっしりと重い。あたしのものとは違う肌の匂いがする。
壮悟くんのニット帽が、あたしの頬をこする。
重なり合った胸。鼓動が響き合っている。生きて動いている心臓が二つ。
鼓動って、一生懸命な音だ。愛しい、と感じた。
その命が、その鼓動が、尊くて愛しい。
単純に、純粋に、切ないほど、泣きたくなるほど、この鼓動と体温が大切で。
この気持ちは何?
生きているんだなって、急に強く感じた。あたしひとりじゃなくて、こうやって鼓動と体温を重ねているから。
どれくらいの間、そうしていたんだろう?
たぶん、長い時間だった。でも、一瞬だったような気もした。
いつの間にか、壮悟くんの呼吸が落ち着いている。胸のドキドキは速いままだった。あたしの胸の鼓動も走りっぱなしだ。
あたしの背中の下で、壮悟くんの腕が動いた。そっと引き抜かれる。壮悟くんが芝生に両手を突いた。そして、ゆっくり体を浮かせた。
呼吸が楽になった。
壮悟くんが、あたしの顔を見下ろした。まだ青白い顔をしている。血がにじんだ唇、深い色と澄んだ光を宿した目。
目尻に、うっすらと涙があるのは、苦しかったせいだろう。怖かったせいでもあるだろう。自分の体が壊れていくように感じるときは、ただただ、絶望に呑まれてしまう。目の前が真っ暗になるような気持ちになるから。
あたしは、微笑んでみせた。
「生きてますよ。大丈夫。ね?」
壮悟くんは息を呑んだ。その目の奥に、キラリと、驚きに似た何かが走り抜けた。
次の瞬間。
視界いっぱいに壮悟くんの黒い瞳があった。
唇に、感触。
カサリと乾いて柔らかいもの。弾力があって、少し冷たい。
これは、唇……?
壮悟くんの目に、あたしの目が映り込んでいる。合わせ鏡みたいに、一つの情景が、いくつも見えた。
キス、されている。
壮悟くんがまぶたを閉じる。まつげの長さに驚かされる。肌の匂い。皮膚の熱。
一瞬、唇が離れた。すぐに再び落とされるキス。
どうして?
少し温まった壮悟くんの唇が柔らかい。甘い。とても甘い。頭が痺れてくる。
あたしはキスをしている。
その時間は唐突に終わった。唇が離れた。あたしはまぶたを開いた。いつの間に目を閉じていたんだろう?
壮悟くんはまだ、あたしを体の下にとらえている。壮悟くんは、静かな目をしていた。不思議そうでもあった。
「人間って、動物なんだな。急に、食べたいって思った。本能ってやつ? 衝動に抵抗できなくて。気付いたらキスしてた」
意味がわからない。
あたしは我に返った。あたしの好きな人は、ほかにいるのに。
「からかわないでください」
ファーストキスだった。
「からかってるわけじゃない」
まっすぐな目にのぞき込まれる。さっきの合わせ鏡を思い出した。
あたしも同じだった。
壮悟くんを動かしたのが本能なら。とろけそうになったあたしも同じだ。本能に抵抗できなかった。キスはとても甘かった。ずっとずっと唇を重ねていたいくらいに。
どうして?
あたしは恋をしている。あたしが好きな人は、壮悟くんじゃない。
「どいてください」
あたしは横を向いた。壮悟くんの腕が視界に入った。手首の骨の形が、あたしとは違う。ずいぶんゴツゴツしている。
この腕に抱きしめられたんだ。そう思ったら、また胸のドキドキが速くなった。
壮悟くんは素直に体を起こした。あたしも起き上がった。
ここは四角い庭の角のあたりだ。秋バラの茂みの陰になった場所。ぐるりと見渡したとき、庭にほかの誰かがいることに気付いた。
茂みの隙間から見えた。小さな庭の反対側の隅っこに、ベンチがある。男の人と女の人がいた。笑い合っている。
気付かなかったなんて。大好きな声なのに。
「ほんと、料理が上達したよな、麗」
朝綺先生。
優しいだけじゃなくて、甘い笑顔だった。先生としての普段の顔じゃないって、あたしには直感的にわかった。
朝綺先生は、麗先生の前だから、そんな笑い方をするの?
麗先生は、今は白衣を着ていない。シンプルなワンピースだ。ふわっとした色が似合っている。ひざの上には、大き目のお弁当箱がある。
「料理は、やったことがなかっただけよ。あたしは、やれば何でもできるの。上達して当然でしょ」
ツンとした言い方だけど、意地悪そうに振る舞うのは口調だけだ。お弁当箱から何かをすくうスプーンの手つきは、この上なく優しい。麗先生は朝綺先生の口元にスプーンを運ぶ。パクッと、スプーンから食べる朝綺先生。
ただの食事介助、には見えなかった。
麗先生は、自分の口にも食事を運ぶ。朝綺先生と同じスプーンで。
「朝綺、お茶いる?」
「もらう。ああ、タンブラーくらい、自分で持てるよ。ストロー差してあるし」
あたしの隣で、壮悟くんが声をひそめた。
「あの二人が付き合ってるって噂、マジなんだ?」
「付き合ってる? そんな噂あるんですか?」
「風坂麗が万能細胞による医療技術をマスターした理由は、恋人のためだっていう噂がある。つまり、最初の患者は自分の恋人で、人体実験って言えるくらいの無茶な治療だけど、恋人を生かすためにやってのけたんだって」
恋人。朝綺先生と麗先生が、恋人同士。
胸が痛い。心臓が打つたびにバラバラになりそう。痛い、痛い、痛い。
秋バラの茂みの向こうに見える二人は美男美女で、お似合いで、それに、噂が本当だとすれば、命を懸けた絆で結ばれているはずで。他人が割り込む余地なんて少しもない。
目を背けたい。目がそらせない。
あたしが気付いていなかっただけで、二人はたぶん、あたしたちより前から庭にいた。同じスプーンでの二人の食事が終わって、麗先生がお弁当箱にふたをする。
「朝綺は近ごろ、何でも食べられるようになったわね」
「胃腸の機能はけっこう完全に近いよ。まあ、量はあんまり食えねぇけど。不随意筋《ふずいいきん》のほうが先に回復した形だな。肺と心臓がいちばん早かったし」
不随意筋。自分の意識とは関係なく動く筋肉のことだ。内臓を形づくる筋肉がそう。朝綺先生は、筋肉が動かなくなっていく病気を持っていたと、この間言っていた。
「随意筋のほうはやっぱり時間が多少かかるのね。随意筋を動かす指令の出し方を、脳がもう覚えてないのよ。朝綺は電動車いすやロボットアームを使っての生活が長かったんだから」
「飯くらいスマートに食えるようになりたい」
「焦らないの」
朝綺先生がいたずらっぽく笑った。
「でも、たまにはいいよな。こうやってお姫さまに食事の世話してもらうのも」
「何を甘えてるのよ?」
「甘えさせてくれよ。おれ、リハビリも検査もテストも、一日もサボってないんだぜ。たまにはご褒美をもらったっていいはずだ」
違う。知らない。
朝綺先生がこんな甘い声をしているなんて、あたしは知らなかった。悲しい色をした心臓が飛び出してしまいそうで、あたしは口を押さえた。
麗先生が小さなケースのふたを開けた。
「林檎も食べる?」
「ん、食べる食べる」
ピックに刺された、くし切りの林檎だ。麗先生に差し出されて、朝綺先生の口が、サクッとかじり取る。
「味、どう? 共同研究してるラボからもらったの。その林檎も、遺伝子のじっけ……」
麗先生の言葉は、途中で食べられた。朝綺先生が、麗先生に、キスしている。
やだ。
見たくない。
麗先生が目を閉じる。朝綺先生が首を傾ける。大人のキスは深くて、きっと、甘い秘密の林檎の味がする。
見たくないのに。
キスがほどかれる。唇は離れても、見つめ合う目は近い。
朝綺先生の腕がゆっくりと持ち上がる。麗先生は林檎のケースをベンチの上に置いた。二人の距離がゼロになる。ふわりと、朝綺先生が麗先生を抱きしめた。
ガラスの庭の中では、風もない。しんとしている。
自分の心臓の音だけが、うるさく鳴っている。
「麗……」
秋バラよりも、さわやかで甘い声。
朝綺先生はもっと儚い存在だと思っていた。恋人を抱きしめることができるって知らなかった。
「力が強くなったわね」
「これが今のおれの全力。すぐ疲れちまうから、お姫さま専用な」
「当たり前でしょ?」
クスクスと笑い合う声。
「なあ、今夜、来れる?」
「行ける予定よ」
「よっしゃ、頑張ろ」
「頑張るって何よ?」
「いくらおれでも、昼間っから口に出せねぇよ。それとも、言わせたいわけ? お姫さまのエッチ」
「ば、バカ」
「知ってる」
「……そろそろお昼休み終わっちゃう。行かないと」
「わかった。じゃあ、夜を楽しみに、リハビリ頑張るとするか」
甘い約束を交わした二人が庭を出ていく。寄り添い合って、ときどき笑いながら、ゆっくり歩いていく。
頭の中が真っ白だった。何も考えられなくて。動けなくて。
失恋したんだ。
あたし、また失恋した。勝手に好きになって、勝手に失恋して、悲しくて悔しいけど、こんな気持ち、誰にぶつけようもない。
「何で……」
つぶやいたら涙が出た。
壮悟くんが立ち上がった。そうだ。この人、隣にいたんだ。忘れていた。
「おい、あんた。いつまでここにいるつもりだ?」
「…………」
あたしは座ったまま壮悟くんを見上げた。壮悟くんは、驚いた顔をした。
「な、何だよ、どうして泣いてんだよ? おれのせい? いや、もしかして……あんた、朝綺ってやつのこと好きなのか?」
壮悟くんの言葉が胸をえぐった。あたしの涙が止まらなくなる。壮悟くんはそっぽを向いて、あたしに手を差し出した。
「立てよ」
「…………」
あたしは黙ったまま、動かずにいた。そうしたら、壮悟くんの手があたしの腕をつかんだ。グイッと引かれて無理やり立たされる。
「泣くなら、部屋で泣いてろ。そんな顔、見せるな」
壮悟くんが歩き出す。
引っ張られて、あたしも歩き出す。
「……きみには関係ないです」
「うるせぇよ。黙ってろ。ムカつく。あんたも飛路朝綺も風坂麗も、すげぇムカつく」
階段ではなくエレベータを使った。空中回廊を通って、小児病棟に戻る。
病棟特有のにおいがする場所まで来ると、壮悟くんはあたしの手を離した。つかまれていたところがジンジン痛い。
「ここから先、泣くなよ。おれが泣かしたみたいに見えるんだからな」
壮悟くんがあたしに背中を向ける。あたしはのろのろと、その背中を追いかけた。置いていかれると思ったけれど、壮悟くんはずいぶんゆっくり歩いていた。
自分の病室に戻ったあたしは、ログインまでの間に涙を枯らそうと思った。
枕に顔を押し当てて、泣いた。
ログインしたら、みんなもう揃っていた。ラフ先生とシャリンさんとニコルさんが、新撰組の屯所でアタシを迎えてくれた。
「お待たせしました」
笑顔であいさつをする。うん、大丈夫。優歌の目は赤く腫れているけれど、ミユメはちゃんと笑顔だ。
部屋に沖田さんの姿は見えない。斎藤さんが刀の手入れをしていた。浅葱《あさぎ》色の羽織は、部屋の隅にたたんで置かれている。白いハトがくつろいだ様子で、とことこと部屋の中を歩いている。
斎藤さんが顔を上げた。
「池田屋への突入から、もう八ヶ月。早いもんだ。年が明けても、京は寒くてかなわん」
部屋には火鉢がある。アタシは水と氷の魔法に特化していて、寒さには強い。ラフ先生たちも防寒は万全で、対大気防御のアイテムを装備している。
屯所の庭では、隊士たちが剣術の練習をしていた。にぎやかな声が響いている。はだしで木刀を振りながら、汗びっしょりだ。
「新撰組、にぎやかになりましたね。池田屋事件の後に、もう一つ、大きな活躍があったんでしょう?」
アタシが言うと、うなずいた斎藤さんの頭上に選択肢のポップアップが表示された。斎藤さんルートのダイジェストムービーを見ますか、という質問だ。沖田さんルートで池田屋事件があっていたとき、斎藤さんルートでは別のエピソードが展開されていたらしい。
「どうする、ミユメ?」
ラフ先生の問いに、アタシは斎藤さんのほうだけ向いて答えた。
「お願いします」
ディスプレイが切り替わる。
エピソード名は、禁門の変という。池田屋事件で新撰組の実力が知れ渡って、それから一ヶ月ほどして起こった事件だった。
禁門というのは、天皇が住まう御所の門、という意味だ。
その事件は、京の町の中で起こった大戦闘だった。池田屋事件で倒した敵と同じ陣営の志士たちが、大挙して武装し、御所へと詰めかけようとした。新撰組は幕府から要請を受けて出陣。御所の禁門を背に守って戦った。
激しい戦いだった。鉄砲や大砲が火を噴いて、すさまじいエネルギーが両軍からぶつけられる。京の町の家々も燃えた。
新撰組を擁する幕府軍は勝った。新撰組の活躍も認められた。池田屋事件と禁門の変。この二つの戦闘での大手柄によって、新撰組は華々しく生まれ変わった。
斎藤さんは、口元を小さく微笑ませた。
「徳川の将軍と、会津《あいづ》の殿さま。ご両人から、たんまり褒美をもらった」
「会津の殿さま?」
「オレたち新撰組の直接の上司だ。『新撰組』の名付け親でもある」
「武士にも上司っているんですか?」
「当然だ。武家は将軍を頂点として、厳しい上下関係を定められている。そうした上下関係の固定化によって秩序を保ったのが、徳川幕府の治下の世の中だ」
ニコルさんが話に首を突っ込んできた。
「新撰組はもともと、その上下関係の厳しい武家社会からはみ出してしまった若者の集団だった。浪人といって、武家に生まれたけれども仕事のないゴロツキみたいな人もいたりしてね」
「あ、なるほど。はみ出し者ばっかりだったから、新撰組にはお金がなかったんですね」
「そうだね。沖田総司くんや斎藤一くんも貧しい家の出身だし、そのまま実家にいても、武士としての仕事には就けそうになかった。だから、同じような立場の、実力を示すことで仕事を得ようとするメンバーと一緒に、新撰組を盛り立てている」
ラフ先生がニコルさんの隣に立った。カメラアイにそれをとらえた途端、アタシは斎藤さんのほうに向き直った。ラフ先生の声だけは避けようもなく、ヘッドフォンから聞こえてくる。
「実力を示すことで出世っていうのがもう、動乱の時代だよな。二十一世紀の今とは違って、自由に仕事を選んだり、能力に見合うところで働いたりなんて、江戸時代のそれまでの社会だったら、考えにくかった」
斎藤さんのAIがアタシの視線を感知したらしい。斎藤さんは小首をかしげて口を開いた。
「何か問いたいことでも?」
「えっと、会津のお殿さまって、どんなかたなんですか?」
「病弱だが、気骨のある殿さまだ。京の治安維持の仕事を将軍に任じられている。オレたち新撰組はもともと、野良犬の集団のように、京の町の厄介者扱いされていた。そんな集団の飼い主なんて、普通は引き受けたくもないだろうが」
「でも、会津のお殿さまは、新撰組を大事にしてくださるんですね?」
小さく微笑んで、斎藤さんはうなずいた。
「オレは、あの人のことは嫌いじゃない」
不意に外が騒がしくなった。木刀を振るう掛け声が止まって、わらわらと、ばらけた歓声があがる。
「近藤さんだ!」
「局長、御所へ行かれるんですか?」
「すごい、カッコいいっす!」
アタシはふすまを開けた。庭の一角に、近藤さんが姿を現したところだ。みごとな甲冑姿。髪もピシッと結ってあって、背も高いから堂々としている。隊士たちは汚れるのもかまわず、ひざまずいて近藤さんを見上げている。
「見違えますね!」
アタシは手を叩いた。
近藤さんはアタシを目に留めたけど、一瞬チラッと笑っただけだった。池田屋のときは頭をポンポンしてくれたのにな。ちょっと遠い人になってしまった感じ。仕方ないか。新撰組は立派になって、そのリーダーである近藤さんも大出世したのだから。
シャリンさんは腕組みをほどかず、鼻を鳴らした。
「イヤな感じね。調子に乗ってて」
「え? 近藤さんのことですか?」
「さっき、永倉新八っていう、昔からのメンバーもぼやいてた。一連の手柄があって昇進してから、近藤はチャラチャラしてるって。腰ぎんちゃくを連れて威勢がいい割に、人と語り合うことをしなくなった。人の批判を受け入れなくなってしまったって」
斎藤さんが苦い顔をした。
「オレもシャリンに同意する。近藤さんは勘違いしている。オレたちは、子分じゃない。同志なんだ」
斎藤さんは、この話はおしまい、と言うように刀の手入れを終えた。スッと鋭い音をたてて刀を鞘にしまう。
廊下から静かな足音が聞こえた。
「斎藤、ちょっといいか?」
障子が開けられる。そこに立っていたのは、副長の土方さんだった。
「なんだ、全員ここにいたのか。このきまじめな斎藤と一緒にいて、楽しいか?」
「きまじめ、か。土方さんに言われたくない」
「オレは、羽目を外すときは外している。むさくるしい屯所ではなく、華やかな花街でな。浮名を流すのも男のたしなみだぞ、斎藤」
土方さんは、ずば抜けてキレイな顔立ちをしている。髪も服もピシッとしていて、いかにも大人っていう「きちんと感」がセクシーだ。ただ、少しナルシストかも。土方さんの部屋にお邪魔したときには、箱いっぱいのラブレターを自慢された。
斎藤さんはクールに、土方さんのモテ自慢を受け流した。
「副長自ら足を運ぶとは、何か機密に関わる用事か?」
土方さんは眉間にしわを寄せた。
「ああ。よくないことが起こった。斎藤と、シャリンとニコル。探してほしい人物がいる。行き先はつかめているから、居場所を確認して、オレに報告を上げてほしい」
「わかった」
「詳しくはオレの部屋で話す。来てくれ」
斎藤さんはシャリンさんとニコルさんを連れて、部屋を出ていった。
「秘密の任務なんですね」
「斎藤は、土方のスパイとして働いてるんだ。戦って強いだけじゃなく、頭が切れる男なんだろうな」
「そ、そうなんですね。へー」
ラフ先生と二人きりになってしまった。気まずい。昼間のことを思い出してしまう。朝綺先生が恋人と過ごしていた、甘い時間のことを。
「さて、ミユメ。斎藤のルートに進展があったってことは、オレたちのほうもストーリーが進むはずだ。沖田を探しに行こうぜ」
「あ、は、はい、そうですねっ」
アタシたちも部屋を後にした。庭で稽古をしている中に、沖田さんの姿はない。
藤堂さんがアタシに気付いて、飛んできた。
「あっ、ミユメ! 暇なの?」
藤堂さんは、小柄で愛敬のあるイケメンさんだ。気さくでしゃべりやすいけれど、アタシは目のやり場に困った。木刀をかついだ藤堂さんの上半身、裸なんですけど。
「お、沖田さんを探しているんです」
「総司? このへんにはいないよ」
ピアズのCGはリアルすぎる。藤堂さんの裸の胸に、光る汗が流れた。アタシはドキッとしてしまう。ピアズに匂いは実装されていないけれど、リアルだったら、汗と肌の匂いがするはずだ。
また、昼間のことが頭によぎった。壮悟くんの肌の匂いを思い出した。
アタシは藤堂さんから顔を背けた。
「沖田さんが行きそうなところ、知りませんか?」
「んー、どこだろ? 近藤さんに付いていったわけじゃなかったし、部屋にもいなかったしなぁ。たまに炊事場でつまみ食いしてるけど」
「炊事場、ですか?」
「なあ、それより、ミユメ。総司じゃなくてオレと……」
「失礼します!」
アタシは回れ右した。縁側を速足で歩き出す。ラフ先生が笑いながら追いかけてきた。
「藤堂平助のこと、苦手か?」
「苦手っていうか」
「親しみやすいキャラだと思うけど」
「フレンドリーすぎます」