アタシたちは階段を駆け上がった。二階の大部屋は、ふすまがピッチリ閉ざされている。パラメータボックスに警告が表示された。
「敵が多いみたいですね」
「だな。ミユメ、索敵魔法、使えるか?」
「もちろんです」
「調べてくれ」
素早くコマンドを入力する。
「索敵―エネミースパイ―!」
ふすまが透けて見えた。敵は二十人。全員、もう刀を抜いている。こちらがふすまを開けた瞬間に、きっと彼らは斬りかかってくる。
「ザコが十五と、力場使いが五人。力場使いは、部屋の奥で構えています」
近藤さんがふすまに手を掛けた。アタシたちを振り返る。
「覚悟はいいな?」
「はい!」
「OK」
「いつでもどうぞ」
「にゃあ」
全員の返事を聞いて、近藤さんは、ふすまを勢いよく開けた。
白刃。
近藤さんが敵の刀をかいくぐる。剛剣がうなった。乱戦が始まる。
「くそ、狭ぇよ!」
ラフ先生が悪態をつく。沖田さんが敵と切り結びながら叫んだ。
「ボクたちの相手は、奥の連中だよ! 近藤さんを力場に巻き込んじゃいけない!」
「氷嵐―アイスストーム―!」
氷のつぶてをばらまきながら、アタシは志士たちの間を突っ切る。
アタシの後にラフ先生が続く。
「頼もしいな、ミユメ! この調子で、アイツらも倒そうか!」
「はい!」
沖田さんも追いついてきた。
近藤さんは部屋の外だ。普通の志士全員を相手取っている。数が多い。大丈夫なんだろうか。
「こっちはオレ一人で十分だ!」
たくましい大声が聞こえた。沖田さんがクスッと笑った。
「張り切っちゃって。それでこそ近藤さんだ」
力場使いの五人が一斉に吠えた。その額に円環の紋様が赤黒く光る。旅館の大部屋が消えて、独特のバトルフィールドが立ち上がる。どこまでも広い、いびつな空間。
ラフ先生がナイフを双剣に持ち替えた。
「よっしゃ、本領発揮!」
アタシは唄を発動する。
「戦唄―バトルソング―!」
物理攻撃力を中心に、味方全員のステータスが上昇する。
妖志士たちの様子が変化を始めた。赤黒い紋様の発光が、彼らの全身を包む。
「えっ、何ですか、あれ?」
ぐにゃりと、彼らの体の輪郭が歪んだ。手足が胴体に呑み込まれて、凹凸がなくなる。五人だった妖志士が、くっついて、つながった。
「大蛇かよ」
不気味に赤黒い光をまとって、彼らは、一体の巨大なヘビになった。ウロコは、いろんな色が交じり合うまだら模様。
「感心するほど悪趣味だね」
ヘビがアタシたちを見回した。とぐろを巻きながら、ぬらぬらと動く。裂けた口、細く長い牙、二股に分かれた舌。
赤いヘビの目が沖田さんをとらえた。ぶわっと、吹き付けるように殺気がかさを増す。
と同時に、沖田さんが技を仕掛ける。
“単焔薙―タンエンテイ―”
横なぎの一閃。飛び掛かってくるヘビへと、正面からぶつかっていく。
「無茶だろ!」
ラフ先生がヘビに横から突撃した。両腕の剣を、ハサミの刃に見立てて。
“chill out”
三つ巴にぶつかり合うエネルギー。ヘビの巨体がのけぞる。ラフ先生もダメージを受ける。でも、バランスを崩しながらも着地する。
沖田さんは吹っ飛ばされて、フィールドに倒れ込んだ。
アタシは魔法を完成させた。まずラフ先生に――。
「激励―チアアップ―!」
攻撃力アップの魔法をかけて。
アタシは沖田さんに駆け寄る。もう一つ、魔法を唱えながら。
「氷壁―アイスウォール―!」
倒れた沖田さんの前に、氷のバリアが生まれる。追撃をかけてくるヘビがバリアに跳ね返された。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ったアタシは、沖田さんのパラメータをチェックする。ギョッとした。スタミナが極端に減っている。
沖田さんは立ち上がれない。ひどく咳き込んでいる。今までの、乾いた咳じゃない。胸の奥にからむような深い咳だ。
「にゃあ」
ヤミが沖田さんにすり寄った。二股の尻尾がゆらゆらして、沖田さんの体にまとわりつく。
ふーっ、と、うっすらとした効果音が聞こえた。
黒猫の体から黒い波動が染み出している。波動は沖田さんを包んだ。沖田さんの顔から苦痛の表情が引いていく。咳がようやく止まる。
「ありがとう、ヤミ。楽になった」
沖田さんはヤミを撫でた。その手のひらに、血が付いている。よく見れば、微笑んだか形の唇の端にも、赤い色。病気のせいで血を吐いたんだ。
氷のバリアの向こうで、ラフ先生が戦っている。アタシも急いで援護の魔法をコマンドした。狙うのは、とぐろを巻いた胴体。
「水檻―アクアケージ―!」
ガチン、と音を立てて、ヘビの体に拘束が掛かる。ヘビは重くて大きくいから、長時間はもたないけど。
「サンキュ、ミユメ! これなら叩きやすい!」
ラフ先生の豪快な双剣がうなる。ヘビのヒットポイントを着実に削っていく。
アタシはまた魔法の詠唱に入りながら。沖田さんを振り返った。
「戦えますか?」
沖田さんは口元を手で拭った。
「当然。戦えないんじゃ、ボクが生きてる意味ないからね。ヤミ、おいで。一緒に戦おう」
ヤミが、にゃあ、と返事をした。
沖田さんの右手の甲の紋様が、ゆらり、と光を発した。赤黒く、不気味な光だ。沖田さんが目を閉じる。
ヤミが沖田さんの体にすり寄った。そのまま、スッと沖田さんの中に入っていく。
ザワザワと風が起こった。沖田さんの体の内側から、黒い風が。
「沖田さん?」
ああァァ、と沖田さんが息を吐いた。その口が、にぃっと笑う。
黒髪の合間から黒猫の耳が生えた。はかまの腰から二股の尻尾が生えた。口元に小さな牙がのぞいた。
手の甲の、途切れがちで未完成な円環が光る。紋様がひとりでに描き込まれる。完全な円環に少し近付く。
沖田さんが目を開いた。金色だ。瞳の形は、猫のような縦長。らんらんと、楽しげに、金色の目が笑う。
「よし、ここから本気で行くね」
沖田さんは刀を構えた。と思うと、もう足は地面を蹴っている。
速い。沖田さんのパラメータ、格段に上がっている。
ラフ先生が、攻撃の手を緩めずに叫んだ。
「よっしゃ、連携して一気に叩くぞ! ミユメ、援護はいらねえ! コンボが途切れねぇように、波状攻撃かけるぞ!」
「わかりました!」
「さぁて、何連撃いけるかな? ヒットポイント高いヤツは、叩き甲斐があっていいね」
怒涛の連続攻撃だった。
攻撃を食らったヘビがぐらりと揺らいでも、二人の戦士は、倒れる隙さえ与えない。ラフ先生の双剣は破壊力バツグンだ。沖田さんの刀は精密で素早い。
アタシは――。
「多重―リピート―!」
「氷槍―アイスランス―!」
凍った魔法の槍を上下左右から繰り出し続ける。威力の低い、でも、小回りの利くスピーディな攻撃。これがアタシの役目だ。ラフ先生と沖田先生の攻撃の間をつないで、ヒットの連鎖を途切れさせない。
BPM300。超アップテンポに鼓動がなじむ。呼吸が弾む。笑みがこみ上げる。バトルを楽しむ自分がいる。敵を倒すことが楽しくて、楽しくて。
これが本性だとしても驚かない。
アタシはおとなしくなんてない。
夢を持てば、攻撃的にもなる。生き生きとして生きるためには、ねえ、むき出しの闘争心も必要でしょう?
「よっしゃ、あとちょい! 五、四、三、二……!」
ラフ先生のカウントに合わせて。
「氷槍―アイスランス―!」
“c-ya”
“単焔薙―タンエンテイ―”
三人同時に攻撃を叩き込んだ。一瞬の静寂。そして、ヘビの体がひび割れる。亀裂から青い光が染み出して、光が急速に、強烈に広がって。
ヘビは光って弾けて、消えた。
一方的な展開でバトル終了。各種ボーナスがキラキラの効果音とともに表示される。アタシは勝利のポーズも省略しない派だ。きらりんっと光って、戦闘コスチュームが解除される。
旅館の座敷の風景がディスプレイに立ち現れた。薄暗い。
「さて、これで……うっ」
刀を拭って鞘に収めた途端、沖田さんがうめいてふらついた。
「沖田さん!」
アタシは駆け寄った。
ヤミが、にゃん、と鳴いた。沖田さんの猫耳と尻尾は消えている。ステータスを上昇させる合体が解けて、沖田さんの体に一気に負担がかかったらしい。
ラフ先生が沖田さんのそばにひざをついた。
「ダメだ、気絶しちまった。オレが背負うよ。と思ったけど、剣が邪魔か。しゃーない。お姫さま抱っこするか」
ラフ先生が沖田さんを抱え上げた。
沖田さんは青白い顔でぐったりしている。乱れた黒髪がサラリと流れた。うっすら開いた唇が、かすかにあえいでいる。
アタシは思わず手を叩いた。
「絵になりますね!」
アタシ、実はちょっとだけBLをたしなむのです。写真撮っちゃってもいいでしょうか? なんちゃって。
ラフ先生はガクッとうなだれた。
「男が男をお姫さまだっこって、そんなもん、絵にならんでいいよ」
「えー。誉めてるんですよ?」
「ゴメン、全っ然、嬉しくねえ」
「そうなんですか?」
部屋の外では、近藤さんが一人、座り込んでいた。くたびれ果てているけれど、大きなケガもない。近藤さんは沖田さんを見て顔をこわばらせた。
「総司? おい、総司は……」
「眠っているだけです。体調が悪いのに無理して、疲れたみたいで」
「なんだ、そうか。オマエたちも無事で、よかった」
外がにぎやかだ。アタシは耳を澄ませた。聞いたことある声が耳に届く。ラフ先生も気付いたみたい。
「土方隊、到着したのか」
近藤さんがうなずいた。
「さっき着いた。池田屋のまわりを固めてくれている。敵を逃がさなかっただけじゃない。よそ者の加勢を入れず、手柄を新撰組だけのものにした」
「よかったです。これで新撰組も評価されますよね。賞金、たくさんいただけたらいいですね」
近藤さんは、大きな口で豪快に笑って、アタシの頭をポンポンと優しく叩いた。
「今回はオマエたちにもずいぶん助けられた。さすが、総司と斎藤が認めるだけのことはある。これからも手伝ってもらえると嬉しいんだが。どうだ?」
近藤さんのまっすぐに見つめてくるまなざしは、熱くて力強い。頼もしいリーダーだ。この人についていけば安心だって、不思議なくらい自然と感じさせる笑顔。
「手伝わせてもらいます」
「右に同じ」
アタシとラフ先生の答えに、近藤さんは、顔をクシャクシャに笑わせてうなずいた。にゃん、と足下のヤミも嬉しそうだった。
壮悟くんが入院して、三日が経った。新しい子が入院してきたという情報は、もうみんなが知っている。
でも、壮悟くんの姿を見た人は、あまりいない。壮悟くんは病室に引きこもっていて、朝ごはんの食堂にも院内学園にも来ないんだ。
「壮悟くんを迎えに行ってあげようよ!」
朝ごはんのとき、望ちゃんが元気よく言った。勇大くんも理生くんも賛成して、三人の期待のまなざしがあたしに集まった。
「じゃあ、行ってみましょうか」
小学生の三人が「やったー!」と歓声を上げた。
みんなそれぞれ制服に着替えると、あたしの病室の前に集合して、壮悟くんの病室に向かった。インターフォンを鳴らして、迎えに来たよ、院内学園に行こうよ、と声をかける。
壮悟くんはインターフォン越しに、一言。
「帰れ」
望ちゃんたちは顔を見合わせた。だけど、今さら引っ込みがつかない。
「失礼します!」
勢いよくドアを開けて、病室に入って、そこでピタッと固まった。
背の高い壮悟くんに見下ろされて、にらまれている。壮悟くんの入院着はストリート系のスウェットスーツで、頭にはニット帽もかぶっているから、なんていうか、ちょっと昔の不良みたいな格好で。
正直言って、ガラが悪くて怖いです。
壮悟くんは不機嫌そうに吐き捨てた。
「何度も言わせんなよ。帰れ」
あたしたちは見事に追い返されてしまった。
「……というわけなんです。だから、望ちゃんと勇大くんは怒ってるし、理生くんは落ち込んじゃったし、壮悟くんも院内学園に来てくれなかったし。あたし、何もできなくて、すみません」
一連のできごとを、あたしは朝綺先生に報告した。
朝綺先生は眉を掲げて、やれやれと首を振った。ラフ先生だったら、もっと大げさに、両腕を広げながら肩をすくめていると思う。
「優歌が謝ることじゃねぇだろ。わざわざ行ってくれて、ありがとな。壮悟のことは、しばらく様子見を続けようぜ。ちっとは丸くなってくれりゃ助かるけど」
「病室から出たくないなら、仕方ないです。でも、どうして外に出たくないのか、ちゃんと言葉で伝えてほしかった。望ちゃんたち、怖がっていました」
「優歌、怒ってるのか?」
「少し怒っています。壮悟くんは、ここではおにいさんなんだから、年下の子どもたちには優しくしてほしいです」
朝綺先生が柔らかく目を細めた。
「優歌がいれば、子どもらも安心だな。壮悟のことも、ついでに面倒見てくれねぇか? 男ってのは、年齢よりガキっぽいもんなんだ。あいつも、ああ見えてガキなんだと思うぜ」
「朝綺先生がそう言うなら、わかりました。また壮悟くんと話をしてみます」
「よろしく頼む。あいつの入院も長引くはずだし。まずは友達になってやってくれ。おれじゃ拒否られるんだ」
あたしも拒否されるかもしれないけど。でも、朝綺先生の頼みは断れない。
院内学園の放課後、あたしは病室でお昼ごはんを食べた。歯磨きをして、髪や服をチェックして。
「よしっ」
ギュッとこぶしを握って、気合いを入れた。壮悟くんの病室へ、いざ出陣。
小児病棟の端っこの病室。ここに来るのは、これで三回目。でも、あたしひとりでっていうのは初めてだな。
緊張してドキドキするのを、深呼吸でなだめる。ピンッとインターフォンを鳴らした。
〈……誰?〉
低くて、ちょっとかすれた声。緊張が高まる。
「あ、あたし、遠野優歌です。朝からも、お邪魔したけど……」
〈邪魔と思うなら来るな〉
意地悪。わかりやすく、意地悪。
「邪魔かもしれないけど、あなたとお話ししたいことがあるんです」
〈おれはあんたと話すことなんてない〉
「そんなふうじゃ困るんです。というか、困るのは壮悟くんのほうだと思います」
〈困らない〉
「長期入院なんでしょう? 少しでも楽しく過ごせるように工夫……」
〈余計なお世話だ〉
どうしよう。何を言っても、切り捨てられる。朝綺先生も拒否されると言っていたけど、こういうことなんだ。
「あの、壮悟くん、明日……」
〈帰れ〉
「えっと、明日がダメなら、今からとか」
〈帰れってば〉
「ご、午後から治療か何か、あるんですか?」
〈あんたには関係ない〉
関係ないけど関係あるの!
もう、強硬手段。あたしをおとなしくて気が弱い女の子だと思っているのなら、大間違い。絶対に話をするんだから。
あたしは、スーッと大きく息を吸った。インターフォンのマイクに口を近付ける。
「壮悟くんッ!」
〈……ぅわっ〉
歌うときの声をマイクにぶつける。アカペラでも通りすぎる、あたしの声。音響機器との相性もバツグンで、要するに、とてもうるさい。
「話をさせてくださいッ! どうして意地悪ばっかり言うんですかッ?」
〈ちょっ、おい……〉
「ここ、開けてくださいッ! それとも、勝手に入っていいんですかッ?」
〈……声、響きすぎ……〉
まっすぐ突き抜けるようなクリアな声って、よく言われる。ハイトーンだと、特にそう。 あたしの声はインターフォンを通じて、壮悟くんの病室じゅうに反響しているはず。
うるさいでしょう? 我慢できなくなるまで、しゃべり続けてあげる。あたしは再び、スーッと息を吸った。
そのとき。
「うるっせーんだよ! 朝のガキどもの十倍うるせえ。その声、いろんな意味で凶器なんだよ。病人相手に何しやがんだ」
病室のドアが内側から開いた。怒った顔の壮悟くんが、あたしを見下ろしている。
朝と同じ、不良みたいに見える格好だ。ニット帽は、治療の副作用で抜けた髪を隠すためで、スウェットスーツは洗濯しやすいからで、そういうことはわかっているのだけれど。
思いっきりにらまれると、やっぱり、不良にからまれているみたいで怖い。顔立ちが整っているせいで、ますます怖い。
怖いけど、でも、ここで引き下がれない。
あたしは腹をくくって、笑顔をつくった。
「やっと出てきてくれましたね」
壮悟くんは、ぷいっと横を向いた。相変わらず顔色がよくない。
「その声、マジで加工ゼロなんだな。普段から、本当にこんな声とはね」
「え?」
「ハートを射抜く歌声、だっけ。声の響きがストレートで硬質、明るくて甘いハイトーン。ハマるやつが多いのもわかるけど、狭い病室であの音量は二度とやるなよ。脳みそに光線銃でも食らったような気分だ」
あたしの歌が評価されているのは、ピアズの中だけだ。それを壮悟くんも知っている。ということは。
「壮悟くんも、ピアズをやるんですね?」
「…………」
壮悟くんは答えずに歩き出した。あたしはその背中を追いかける。
「あたし、ずいぶん前からプレイしているんです。体を動かして遊ぶことがあまりできない体質で、でも音楽は得意なんです。音楽を作るソフトを使うのも、音楽系ゲームも。だから、ピアズのバトルも得意で」
「あっ、そう」
壮悟くんは背が高くて、脚が長い。大股でゆっくり歩いているように見えるけれど、小柄なあたしは、軽い駆け足になっている。
「今は、古い日本風のステージにいるんです。平和じゃない時代なんですけど、活気があって、カッコいいなって思います。ステージガイドさんもステキなキャラで。思いがけない行動をとるから、ちょっと困るけど」
突然、壮悟くんが足を止めた。あたしを見下ろす目が真剣だ。
「ほかに、感想は?」
「はい?」
「そのステージの感想。ほかには?」
口調が変わった。そんな気がした。
「えっと、キャラが魅力的です。人数は多いんですけど、一人ひとり、ちゃんと書き込まれていて、個性的で、生き生きしているんです。まだほんの序盤なんですけどね」
壮悟くんが、ふっと息を洩らした。笑ったんだ。
「個性的ね。そりゃそうだ。オリジナルの彼らが個性的なんだから」
「え? え、待って」
知っているの? 配信前の、誠狼異聞というステージを?
「カッコいいに決まってんだよ。あいつらなんだから」
あたしは息を呑んだ。
「もしかして、壮悟くんって……!」
ラフ先生が言っていた。誠狼異聞のシナリオを書いた人は若いって。書いた当時、十五歳だった、って。
シナリオオーディションは去年だった。去年、壮悟くんは十五歳だったはず。
あたしは事実を確かめたかった。でも、壮悟くんにさえぎられた。
「まあ、関係ない話だな」
「か、関係ありますよ? だって、あたしはテスターで……」
「だったら、ますますだ。テストする側と、される側。仲良しごっこしちゃいけない間柄だろ」
それって肯定ですよね? 壮悟くんが誠狼異聞を書いたという意味でしょう?
朝綺先生もそれを知っている。だから、リアルで会う前から知り合いだった。そうでしょう?
あれこれ想像してみる。いろいろつながって、ワクワクして、すごいなって思った。何もかも全部すごいなって。
壮悟くんはまた歩き出した。あたしも付いていく。
ずんずん歩いている。小児病棟の階段を上って、空中回廊に出て、回廊をぐるっと巡って、研究棟に入って。
「あんたさぁ、いつまでついてくんの?」
「壮悟くんは、どこに行くんですか?」
「どこだっていいだろ」
「今日、治療や検査はないんですか?」
「薬、何十錠も飲んでる。逆に、あんたは何? 割と元気そうだけど、どこが悪いわけ?」
つっけんどんな言い方だ。でも、腫れものにさわるような扱いより気楽かもしれない。
「あたしは食物アレルギーです。食べ物に含まれるタンパク質に反応しやすくて、食べられるものが極端に少ないんです」
「食べられないんだ。だから、そんなにちっちゃいのか」
「ち、ちっちゃいのは家系のせいもあって」
両親も大きくないし、姉も妹も小柄で華奢だし。あたしがいちばんちっちゃいけど。
「それで? アレルギー反応起こして担ぎ込まれたってわけでもないだろ。ピンピンしてるし」
「今回は検査入院です。どの構造のタンパク質が大丈夫なのか、逆にダメなのか、いろいろ調べる臨床試験に協力しています」
「そんな試験、何になるの?」
「ほかのアレルギー患者さんの治療の基礎研究とか、特定のタンパク質に対する反応式の解明とか。あたしの体質は敏感すぎるから、生活には不便ですけど、研究には役に立つんです」
「へー。実験動物ってわけ」
研究棟の廊下を突っ切って、階段を降り始める。ざっくばらんな訊き方を壮悟くんがしたから、あたしも単刀直入に尋ねた。
「壮悟くんは白血病なんですよね?」
「そうだけど」
「白血病は、がんの中でも治療の研究が進んでいるって聞いたことがあります」
「どうだか。七十年も前から同じ治療法なんだぜ。副作用も欠点も、いくらでもある方法だ」
皮肉な言い方だった。
階段を降りる足がゆっくりになる。あたしは壮悟くんに並んだ。
「欠点って?」
「白血病がどんな病気か、知ってる?」
「えっと、血液のがんですよね?」
「正確には、血球のがんだけどね」
「あ、はい、確かに。血液の中にある血球、つまり白血球と赤血球と血小板を、上手に造れなくなる病気ですよね」
背骨の内側に骨髄《こつずい》がある。骨髄の中に造血幹細胞《ぞうけつかんさいぼう》がある。
造血幹細胞が血球を造っている。血球の種類は三つあって、外から侵入した敵を退治する白血球、肺が吸収した酸素を全身に運ぶ赤血球、そして、傷口の出血をふさぐ血小板だ。
がんに冒されると、造血幹細胞は血球を正しく造れなくなる。だから、その患者の体は、白血球によって外敵の侵入を防げなくなる。赤血球によって酸素を全身に運べず、貧血になる。血小板によって傷口の血を固めることができなくなる。
「ちなみに、がん細胞の定義、知ってるか?」
「無制限に増え続ける細胞、ですよね。普通の細胞には寿命があって、サイクルがあります。古い細胞が死んで、新しい細胞が代わりに働くようになるけれど」
「計画細胞死《アポトーシス》。死なない存在はないんだ。人が必ず死ぬのと同じ。細胞レベルでも、必ず死は訪れる」
「でも、がん細胞は死なないんですね」
「がん細胞ってのは、要するに、遺伝子に異常が起きた細胞なんだ。遺伝子の中の染色体がイカレてるわけ」
「染色体の異常。聞いたことがあります。ヒトの遺伝子には四十六本の染色体があるけれど、がん細胞は、正常なヒトの遺伝子構造を保たなくなってしまった細胞だって」
「がん細胞は狂ってる。死なずに増え続ける。そんな狂ったやつらがおれの中にいるんだ。まともな細胞の居場所を奪って、無制限に増えて、おれの体を壊していく」
淡々と、壮悟くんは言った。肩で大きく呼吸をする。
何だか様子がおかしい。息が切れている。壮悟くんは歩いてきただけ。ずっと小走りしていたあたしとは違うのに。
「壮悟くん、大丈夫ですか?」
顔色が蒼い。荒れた唇が紫色になっている。
壮悟くんは階段の手すりをつかんだ。そうしながらも、足を止めない。しゃべるのも止めない。
「白血病の治療法、知ってる? 二十世紀の終わりごろ、つまり六十年も七十年も前から、有効だって言われてるやつ。抗がん剤や放射線で白血病細胞を殺して……生きてる血球や細胞もろともだから、副作用がひどくて」
壮悟くんは肩で息をして、足を止めた。
一階まで戻ってきたところだ。廊下は、がらんとしている。立ち並ぶ研究室のドアは閉ざされていた。壮悟くんは壁に寄りかかって、荒い息をした。
「……くそっ、このくらいで……」
「具合が悪いんですか?」
「ただの貧血。ヤベエ、頭痛ぇ」
「そ、そんな、どうしましょう?」
「騒ぐなよ。あんたの声、頭に響く。休めば収まる。こんなの……ちくしょう。一度は治ったのに」
壮悟くんは、壁に寄りかかって体を支えたまま、眉間にしわを作って目を閉じた。男の子なのに、まつげが長い。
「一度は治ったって、どういうことですか?」
「そのまんまだよ。おれ、今回のは、再発なんだ」
「再発……」
壮悟くんは唇を噛んだ。荒れていて痛そうなのに、きつく噛んだ。
「何ベラベラ話してんだか。こんな無関係なやつ相手に」
無関係でも何でも、聞かせてほしいと思った。興味とか好奇心とか、そんなんじゃなくて。
皮肉の理由、意地悪の理由、本当の心を隠すような態度の理由。話すことで解き放てるのなら、壮悟くんの苦しみがやわらぐのなら、あたしはどんな話でも聞きたい、聞かせてほしいと思った。
目を閉じた壮悟くんは低い声で言った。
「白血病の、おれが受けたタイプの治療には二段階あってさ。抗がん剤治療の後、骨髄移植《こつずいいしょく》をする。抗がん剤は、がん細胞もろとも、普通の細胞もまとめてダメにしちゃうから」
「別の人から、正常な造血幹細胞を分けてもらうんですよね。それが骨髄移植」
「ああ。でも、移植は簡単なことじゃない。新しい骨髄を、体が外敵だと認めてしまったら、体は激しいアレルギー反応を起こす。下手すりゃ死ぬらしい」
「あたしにも、そういう経験ありますよ。うっかり口に入れてしまったものがアレルゲンを含んでいて、脳細胞が破壊されそうなくらいの高熱が出たり、自力で呼吸ができなくなったり、何日間も意識を失ったりして」
人間の体はとても臆病で繊細だと思う。怖がりだからこそ、攻撃的でもある。排除しなければならないモノだと認識したら、自分自身まで殺しそうなほどの攻撃をするんだ。それがアレルギー反応。
壮悟くんは、大きな手で額を覆った。
「十歳のころ、抗がん剤治療が一段落してから一年以上、何度も入院しながら、骨髄移植のチャンスを待った。骨髄の型が家族とも親戚とも合わなくて、骨髄バンクを当たってもドナーが見付からなくて」
「移植、できたんですか?」
「できた。やっとできたと思ったのに、二年とたたずに再発しやがった。絶望的だね。なあ、あんたは金持ちの娘なんだろ?」
壮悟くんが、うっすらと目を開けた。その顔を見つめていたあたしはドキッとする。
「お金、ですか?」
「入院って、金かかるよな。うちの場合、親が親戚じゅうに頭下げて借金したんだ。親も親戚も何も言わないけど、たぶんまだ全然、返せてない。なのに、再発した。もういっそのこと死んで保険金もらったほうがいいんじゃねぇかって、おれ、本気で思った」
「そ、そんな」
「ポロっと妹にそんなこと言ったら、めちゃくちゃキレて泣いて。でも、それじゃどうすんだよって八方ふさがりだったとき、話が舞い込んだ。響告大学附属病院での臨床試験。風坂麗のマウスにならないかって話」
壮悟くんが、ふぅっと息をつく。体が小さく震えた。もしかしたら、熱が上がり始めているのかもしれない。
「風坂麗先生って、人工的な万能細胞を使った治療の専門家ですよね?」
「ああ。風坂麗の技術があれば、他人から骨髄を移植してもらう必要がなくなる。おれの細胞を使って、人工的に、おれ自身の健康な造血幹細胞を作れるから」
「そっか。他人の骨髄を使わないなら、ドナーを待つ必要も、アレルギー反応を心配する必要もなくなるんですね」
「しかも、今回のはまだ実験段階。データを全部提供する代わりに、費用は無料。造血幹細胞を移植する前段階の抗がん剤治療も、かなり安くで受けられる。家族はこの話に飛び付いた」
壮悟くんが急に、うっ、と苦しげな息をした。きつく眉をひそめたと思うと、あたしを見つめるまなざしが、ふと焦点を失う。
一瞬、完全に壮悟くんの体は力を失った。
「きゃっ」
壮悟くんがあたしのほうへ倒れかかってきた。抱きすくめられる。重みがかかる。タタッ、と乱れた足音が廊下に反響した。壮悟くんはどうにか踏みとどまっている。
抱きすくめられている。
荒い呼吸が耳をかすめる。ささやく声が頬に触れた。
「……悪ぃ。今、マジで余裕ない。支えがなきゃ、立って、られない……」
熱い。壮悟くんの体、すごく熱い。
鼓動の音がする。苦しいぐらいの心拍数だ。あたしの鼓動なのか、壮悟くんの鼓動なのか、混じってしまってわからない。
顔と頭に血が集まる。のどがカラカラになる。
「あ、の……」
舌が回らない。声が出ない。
「その先、行ったとこ、ドアがある……庭に、出られるから、あっちへ。芝生で横になれるから」
「わ、わかりました。歩けます?」
壮悟くんはかすかにうなずいて、あたしを支えにしながら、ゆっくり歩き出した。
そこは小さなイングリッシュガーデンだった。伏せたお椀のようなガラスドームに覆われている。背の高い建物に囲まれて、空は狭く切り取られていた。
建物の三階よりも低いガラスドームの内側には、柔らかな熱を放つ人工太陽がほのかに輝いている。青々とした芝生。満開の秋バラが、さわやかで甘い香りを放っていた。
芝生の上で、壮悟くんは倒れ込んだ。もちろん、あたしも巻き添えにして。
「……ゃっ……!」
「ゴメン……しばらく……」
仰向けの背中の下に、あたしを抱きかかえる壮悟くんの腕がある。
息が、できない。
心臓がドキドキしすぎて、苦しい。
これは事故。これは偶然。壮悟くんは貧血を起こして、自由に動けなくて、だから、これは仕方のない状況で。
わかっている。ドキドキする必要なんてないはずなのに。
あたしの耳元で震える、壮悟くんの呼吸。やせていても、骨が太くて体じゅうが硬くて、ずっしりと重い。あたしのものとは違う肌の匂いがする。
壮悟くんのニット帽が、あたしの頬をこする。
重なり合った胸。鼓動が響き合っている。生きて動いている心臓が二つ。
鼓動って、一生懸命な音だ。愛しい、と感じた。
その命が、その鼓動が、尊くて愛しい。
単純に、純粋に、切ないほど、泣きたくなるほど、この鼓動と体温が大切で。
この気持ちは何?
生きているんだなって、急に強く感じた。あたしひとりじゃなくて、こうやって鼓動と体温を重ねているから。
どれくらいの間、そうしていたんだろう?
たぶん、長い時間だった。でも、一瞬だったような気もした。
いつの間にか、壮悟くんの呼吸が落ち着いている。胸のドキドキは速いままだった。あたしの胸の鼓動も走りっぱなしだ。
あたしの背中の下で、壮悟くんの腕が動いた。そっと引き抜かれる。壮悟くんが芝生に両手を突いた。そして、ゆっくり体を浮かせた。
呼吸が楽になった。
壮悟くんが、あたしの顔を見下ろした。まだ青白い顔をしている。血がにじんだ唇、深い色と澄んだ光を宿した目。
目尻に、うっすらと涙があるのは、苦しかったせいだろう。怖かったせいでもあるだろう。自分の体が壊れていくように感じるときは、ただただ、絶望に呑まれてしまう。目の前が真っ暗になるような気持ちになるから。
あたしは、微笑んでみせた。
「生きてますよ。大丈夫。ね?」
壮悟くんは息を呑んだ。その目の奥に、キラリと、驚きに似た何かが走り抜けた。
次の瞬間。
視界いっぱいに壮悟くんの黒い瞳があった。
唇に、感触。
カサリと乾いて柔らかいもの。弾力があって、少し冷たい。
これは、唇……?
壮悟くんの目に、あたしの目が映り込んでいる。合わせ鏡みたいに、一つの情景が、いくつも見えた。
キス、されている。
壮悟くんがまぶたを閉じる。まつげの長さに驚かされる。肌の匂い。皮膚の熱。
一瞬、唇が離れた。すぐに再び落とされるキス。
どうして?
少し温まった壮悟くんの唇が柔らかい。甘い。とても甘い。頭が痺れてくる。
あたしはキスをしている。
その時間は唐突に終わった。唇が離れた。あたしはまぶたを開いた。いつの間に目を閉じていたんだろう?
壮悟くんはまだ、あたしを体の下にとらえている。壮悟くんは、静かな目をしていた。不思議そうでもあった。
「人間って、動物なんだな。急に、食べたいって思った。本能ってやつ? 衝動に抵抗できなくて。気付いたらキスしてた」
意味がわからない。
あたしは我に返った。あたしの好きな人は、ほかにいるのに。
「からかわないでください」
ファーストキスだった。
「からかってるわけじゃない」
まっすぐな目にのぞき込まれる。さっきの合わせ鏡を思い出した。
あたしも同じだった。
壮悟くんを動かしたのが本能なら。とろけそうになったあたしも同じだ。本能に抵抗できなかった。キスはとても甘かった。ずっとずっと唇を重ねていたいくらいに。
どうして?
あたしは恋をしている。あたしが好きな人は、壮悟くんじゃない。
「どいてください」
あたしは横を向いた。壮悟くんの腕が視界に入った。手首の骨の形が、あたしとは違う。ずいぶんゴツゴツしている。
この腕に抱きしめられたんだ。そう思ったら、また胸のドキドキが速くなった。
壮悟くんは素直に体を起こした。あたしも起き上がった。
ここは四角い庭の角のあたりだ。秋バラの茂みの陰になった場所。ぐるりと見渡したとき、庭にほかの誰かがいることに気付いた。
茂みの隙間から見えた。小さな庭の反対側の隅っこに、ベンチがある。男の人と女の人がいた。笑い合っている。
気付かなかったなんて。大好きな声なのに。
「ほんと、料理が上達したよな、麗」
朝綺先生。
優しいだけじゃなくて、甘い笑顔だった。先生としての普段の顔じゃないって、あたしには直感的にわかった。
朝綺先生は、麗先生の前だから、そんな笑い方をするの?
麗先生は、今は白衣を着ていない。シンプルなワンピースだ。ふわっとした色が似合っている。ひざの上には、大き目のお弁当箱がある。
「料理は、やったことがなかっただけよ。あたしは、やれば何でもできるの。上達して当然でしょ」
ツンとした言い方だけど、意地悪そうに振る舞うのは口調だけだ。お弁当箱から何かをすくうスプーンの手つきは、この上なく優しい。麗先生は朝綺先生の口元にスプーンを運ぶ。パクッと、スプーンから食べる朝綺先生。
ただの食事介助、には見えなかった。
麗先生は、自分の口にも食事を運ぶ。朝綺先生と同じスプーンで。
「朝綺、お茶いる?」
「もらう。ああ、タンブラーくらい、自分で持てるよ。ストロー差してあるし」
あたしの隣で、壮悟くんが声をひそめた。
「あの二人が付き合ってるって噂、マジなんだ?」
「付き合ってる? そんな噂あるんですか?」
「風坂麗が万能細胞による医療技術をマスターした理由は、恋人のためだっていう噂がある。つまり、最初の患者は自分の恋人で、人体実験って言えるくらいの無茶な治療だけど、恋人を生かすためにやってのけたんだって」
恋人。朝綺先生と麗先生が、恋人同士。
胸が痛い。心臓が打つたびにバラバラになりそう。痛い、痛い、痛い。
秋バラの茂みの向こうに見える二人は美男美女で、お似合いで、それに、噂が本当だとすれば、命を懸けた絆で結ばれているはずで。他人が割り込む余地なんて少しもない。
目を背けたい。目がそらせない。
あたしが気付いていなかっただけで、二人はたぶん、あたしたちより前から庭にいた。同じスプーンでの二人の食事が終わって、麗先生がお弁当箱にふたをする。
「朝綺は近ごろ、何でも食べられるようになったわね」
「胃腸の機能はけっこう完全に近いよ。まあ、量はあんまり食えねぇけど。不随意筋《ふずいいきん》のほうが先に回復した形だな。肺と心臓がいちばん早かったし」
不随意筋。自分の意識とは関係なく動く筋肉のことだ。内臓を形づくる筋肉がそう。朝綺先生は、筋肉が動かなくなっていく病気を持っていたと、この間言っていた。
「随意筋のほうはやっぱり時間が多少かかるのね。随意筋を動かす指令の出し方を、脳がもう覚えてないのよ。朝綺は電動車いすやロボットアームを使っての生活が長かったんだから」
「飯くらいスマートに食えるようになりたい」
「焦らないの」
朝綺先生がいたずらっぽく笑った。
「でも、たまにはいいよな。こうやってお姫さまに食事の世話してもらうのも」
「何を甘えてるのよ?」
「甘えさせてくれよ。おれ、リハビリも検査もテストも、一日もサボってないんだぜ。たまにはご褒美をもらったっていいはずだ」
違う。知らない。
朝綺先生がこんな甘い声をしているなんて、あたしは知らなかった。悲しい色をした心臓が飛び出してしまいそうで、あたしは口を押さえた。