しばらくしてようやく耳に周りの雑踏が聞こえ始め、シャディアは緊張を解いて背中を壁に預けた。もうあの男の声はどこからも聞こえない。

「…はぁ…良かった。」

いつの間にか止めていた息を吐き出しながら安堵の声を漏らす。全身のこわばりから解放されようやく周りに目を向けれるようになったとき、盾になってくれた人はさっきぶつかってしまった真面目そうな青年だったことに再認識して不思議な気分になった。

目を奪われる程に精悍な顔つきの、凛々しさと逞しさを感じる男の人だ。

「あ、あの…ありがとうございました。」

まだあの男を目で追ってくれているのか、横顔しか見せない彼が声をかけたことでようやく視線をシャディアの方に向けた。整った顔立ち、引き込まれそうな強い力を感じる深緑の瞳に時が止まりそうだ。

陰りのない澄んだ瞳に引き込まれ、思わず呼吸することを忘れてしまった。彼のまとう空気が道行く人たちとは違う、特別なものを感じさせてシャディアの心を揺さぶってくる。きっと位の高い人物だ、そんな雰囲気が感じ取られて少し身構えた。

それにしてもなんて魅力的な人なのだろう。思わずこぼれた言葉を胸の内に秘めてシャディアは改めて青年に向き直した。

「助けていただいて感謝します。私はシャディアと申します。お名前を伺ってもよろしいでしょうか。」

その声に反応した青年もシャディアと同じ様に身体を向き直し、今までとは真逆のふわりとした優しい笑みを浮かべながら口を開いた。

「イザークと申します。」

はっきりとした口調、慣れたような名乗りに品の良さを感じる。さっきまでは空気でさえも切り裂きそうな顔をしていたのに全くの別人みたいだ。人が良さそうで柔らかい雰囲気をもつ温かい人。

なんだか心地が良くて、出来ればもう少し話していたい気もするが、早くこの人を解放してあげなければと申し訳ない気持ちが再びシャディアの中に戻ってきた。

「イザーク様、助かりました。本当にありがとうございます。」
「いえ、差し出がましいかと思いましたがいい方に進んで良かったです。」

そんな、と手を振ろうとしたときシャディアはイザークの手元が気になって動きを止めた。左手で抱えた紙袋は派手にへこみ、中のものが潰されたのか袋に染みができている。

「袋…。」

そう口にして気付いた。記憶が正しければシャディアがぶつかったのはイザークの左側だ、つまり出来たばかりであろうその染みは間違いなくシャディアが関わっているだろう。その可能性は高い、そう思った瞬間に何が起こったのか大体の想像ができた。

「あの…それ…。」
「え?」

声が出て更に実感がわいたのかシャディアの表情がみるみる青く染まっていく。シャディアが指す自分の手元を見てイザークは不思議そうに声を漏らしたが、それは彼女の思考を加速させた。

「す、すみません!それきっと食べ物ですよね!?」

少しずつ広がっていく染みはもう、袋の中身がそうとしか考えられなかった。

「もしかして、あなたのお昼ごはん…。」

考えがそのまま口に出てしまって言ったそばから血の気が引いていくのが分かる。今はちょうどお昼時で、シャディア自身さっきまでお昼は何を食べてみようかなと考えていたくらいの空腹感はあって、この食べ物屋が多い通りでの多くの人の動きが似ているとすれば考えはおそらく間違いではない筈だ。

「ああ、大丈夫。味は変わらないし考え事していた私も悪いので。」
「やっぱり!駄目です、すぐに同じものを用意しますから!本当に申し訳ありません!」
「気にせず。それにまだ目立って動かない方がいいでしょう?」
「で、でも!」

ぐううううううう。

そういう訳にはいかないと声にしようとしたその時、残念ながらシャディアの口からではなくお腹から音が出て二人の会話を止めてしまった。

「え、えっと…。」

ぐううううううう…。

一度ならず二度までも主張する自分のお腹に思わずシャディアも手をあてた。言い逃れは出来ない。賑やかな通りでも響くその大きな音の出所はシャディアのお腹だ。

「…重ね重ね申し訳ありません…。」
「あ、いえ…。」

とりあえず、派手に鳴き出したお腹をゆっくりと抱えて背中を丸めてみた。こんなときに限ってなかなか盛大な音だ。恥ずかしさに耐えながら俯くシャディアだったが、1つ閃いてまたイザークの目をとらえた。

「あの、良ければ昼食をご一緒しても?助けて戴いたお礼もありますので、是非ご馳走させてください。」
「え?」

我ながら名案だと思いシャディアの目が輝く。この足だとすぐにこの街を発つことは難しそうだしお腹も空いている、そしてあの絡んできた男もきっと時間が経てば頭が冷えるだろう。

道筋が見えるとどう動きたいかも分かってくる、気持ちがどんどん上がってきてどうしてもそれを成し遂げたいと強く思い始めた。それがさらなる言葉に繋がるのだ。

「この地は初めてなので何か名物を教えて頂けませんか?穴場のお店があればぜひそこに。」

自信に満ちた笑みを浮かべるシャディアはもう反対されることを考えてはいないようだ。最初こそ目を丸くしていたが、やがてイザークは苦笑いを浮かべると諦めた様に小さく頷いた。彼女の貫き通そうとする意志を感じ取ったのだろう。

「では、その様に。」

どこか慣れたような感じで言葉を受け流す様は彼の暮らしぶりがなせる業なのだろうか。依然佇まいが美しいイザークは視線を宙に浮かせて少し思案した後、念のため動くのはもう少し時間を置いてからと言葉を続けた。