「おい、時間だぞ」
男があすかを揺り起こす。

あすかはゆっくり目を開けた。
灰色の壁。きしむパイプベッド。薬品の匂いがする白いシーツ。

夢じゃなかった……。

あすかはゆっくりと身体を起こした。
気だるそうに髪をかきあげると、痩せた頬がのぞく。

やっぱりまだ、ここにいる。

あすかは、小さくため息をついた。

「十分で支度しろ」
男はそう言うと、部屋の扉を乱暴に閉める。

あすかは、裸足でビニールの床に立った。ワンルームに備え付けられている鏡で、自分の顔を見る。

まるで別人。正気がなく、唇が乾いている。

あすかは、ひび割れた唇の皮をピッと指で破り、血がにじむ場所を舐めた。
そしてそのまま、鏡の前に力なく座り込んだ。

どのくらいの時間が経ったのかわからない。
銀杏並木の横にあるビルなのだろう。窓から見える木々は、徐々に緑から黄色へ色づいた。

あの人はこない。
二度と会えない。

別れ際の、あの顔を思い出す。

『行け』
彼の声が耳の中にこびりついている。

行かなきゃよかった。
そしたら、一緒に、死ねたのに。