「ダメっ!!」
唐突に聞こえた、小鳥の声。
次の瞬間、ルカは背中から小鳥に抱き締められていた。
「こと、り……?」
「ルカくん、ダメっ!殺しちゃ、ダメだよ」
驚きつつも、ルカは小鳥の「ダメ」に従った。
考えるよりも先に体が小鳥の言うことを聞き、ヴォルフから足が離れる。
「……ッ、ジャマ、しないでよ。せっかくルカくんが、ボクのこと殺してくれるのに」
横になったまま負け惜しみのように罵れば、そんなヴォルフに小鳥が近寄ってきた。
小鳥は両膝をついてヴォルフに顔を近づけると、至近距離から彼を見下ろし、殴られて酷い状態になった彼の頬を両手でペチンと叩いた。
それはそれは、優しく。
「これで、おあいこ、です。ヴォルフさんが私にしたことは、もう忘れます」
「は……?」
キョトンとするヴォルフ。
良く見れば、ヴォルフを覗き込む小鳥はボロボロと泣いていた。
涙がヴォルフの頬に落ちてくる。
その悲痛な顔を見上げて、ヴォルフは初めて小鳥に罪悪感を覚えた。
「だから、ルカくん、これ以上、酷いことはしないで」
小鳥がヴォルフから離れ、ルカと目線を合わせる。
すると、ルカは困ったように前髪をガシガシと掻き上げた。
「……小鳥がそいつのこと赦しても、俺は無理。俺の小鳥の血を吸ったのは大罪」
「でも、私……誰かを殴るルカくんなんて、見たくない……!誰かを殺すルカくんも、嫌っ。今のルカくんは……こわい」
怖いーー。
この言葉を耳にして、ルカは頭を鈍器でガツンと殴られたようなショックを受けた。
ーー君に怖いことは何もしないから
小鳥が屋敷に来た時、口にした約束。
(小鳥が、怖いと思うことは、しない……。俺は、そう決めたはずっ)
それが、どうだ。
怖いと、言わせてしまった。
しかも彼女は目の前でボロ泣きしている。
こんなに泣かせたのはヴォルフじゃない。
ルカだ。
「ごめ……ごめん、小鳥!俺のこと、嫌いになった……?」
縋るような質問に、小鳥が首を横に振る。
それを見てルカが小さく安堵した直後。
「でも、ヴォルフさんを殺したら……嫌いになる」
この発言により、ヴォルフの未来は決まった。
「……俺が小鳥に嫌われるから、今回は見逃す。でもまた小鳥に手を出したら、今度は小鳥に内緒で殺すから」
「な、内緒でも、ダメだからね、ルカくん!」
「えっ、まあ、うん、わかってるけど、こうでも言って脅しとかないと……ああっ、もうホント!ごめんなさい!俺が悪かったから!泣き止んで小鳥!」
床に転がったまま、二人の会話を大人しく聞いていたヴォルフ。
彼は何を思ったのか、いきなり狂ったように笑い出した。
「ッ……フフ、アッハハハッ!」
ルカと小鳥の会話が止まった。
二人の視線がヴォルフに降り注ぐ。
注目され、彼は気恥ずかしげに腕で顔を覆った。
「ハハ……ハァー……ダッサイなぁ、ボク。女の子にまで守られるとか、本当……カッコワルイ」
「お前、今更カッコイイとこ見せたいとか思うの?」
「うるさいなぁ、ルカくんにボクの何がわかるの?」
「わかんねーよ、なんにも」
だよね、と返し、ヴォルフはポツリと呟いた。
「コトリは強いね。ボクとは、ぜんぜん違う……」
泣くほど怖かったくせに、暴力の間に飛び込んできた勇敢な女の子。
下手に割り込んだら、ペンギンロボットと同じように彼女も蹴られていたかもしれない。
自分に向かう暴力の可能性もちゃんと理解していたのか、ヴォルフに触れた彼女の手は震えていた。
勝てる気がしない。
ヴォルフは思った。
「キミなら、ルカくんの隣にいても、悪くない……かな」
†††
「ゲッ……あんた、その顔どうした?」
カロンはヴォルフを見るなり、開口一番そう言った。
いつも通り起床して、身支度やその他の面倒事をパパッと済ませたカロン。
そのまま食堂へ向かうと、機嫌の良さそうなヴォルフとムスッとした表情のルカが既にいたのだ。
ヴォルフは顔中に湿布や絆創膏をベタベタと貼りつけていた。
それでもデッカイ青あざを隠しきれていない。
ちなみに手当てはあの後、小鳥がしてくれた。
「これね、ルカくんに殴られちゃった」
「おー、とうとうルカの処女を奪ったか」
「ちっげーよ!!」
すかさずルカが否定する。
変な誤解は勘弁だ。
「てか、今日は男なわけ?」
カロンがチラッとヴォルフの下半身を見遣る。
ルカの前なのに、スカートではなくズボンを身に着けているのは珍しい。
と、そこへ、白魔と静理が食事を運んできた。
テーブルにオーレリアン用のブラッディーボトルを置きながら、白魔が痛々しいヴォルフを見て挑発的に笑む。
「へー、イイ顔してるね。少しは男前になったんじゃない?」
「ありがとハクマ。ハクマもルカくんに頼んでしてもらったら?もーっとカッコヨクなるよ」
「ハハッ、首を切られてもお断りさ」
そんな飛び交う嫌味を聞きながら、静理がヴォルフに近づいた。
「派手にやられたね。食事はできる?」
「うん。牙がひとつ折れてるけど、なんとかするー」
「なぁ、あんたルカに何したの?」
カロンが尋ねると、ヴォルフはニコリと笑った。
「知りたい?ものすっごい怒られるコトだよぉ」
「ふーん……成る程」
ルカは喧嘩っ早いところもあるが、ちょっとのことでは友達をここまで殴りはしない。
(……あれか。小動物絡みか)
それなら納得がいく。
大方、小鳥にちょっかいを出してルカの逆鱗に触れたのだろう。
(てことは、ヴォルフの自業自得だな)
カロンはそう結論付けた。
食事が終わると、兄弟達はバラバラと食堂から出ていく。
ヴォルフもルカに続いて食堂から出たところで、丁度トイレに向かう小鳥と鉢合わせた。
「あっ!コトリ〜!オハヨー!」
昨日まで無視を決め込んでいた相手に対し、とてもフレンドリーに駆け寄っていく。
笑顔を向けられた小鳥は目を丸くして立ち止まった。
(昨日、手当てをしてる時は、すごく落ち込んでるみたいで無言だったのに……)
もうテンションが高い普段通りのヴォルフだ。
「お、おはようございます、ヴォルフさん。傷は大丈夫ですか?」
「うん!こんなのあれだよ、舐めときゃオッケーってやつだよ!」
顔の傷をどうやって舐めるのかは謎だが、そこは空気を読んでスルーに限る。
とにかく、大丈夫らしい。
「それより、ボクのことはヴォルフって呼んで。敬語も難しいからダメ」
「え、でも……」
「決まりね!じゃあまた後で〜。チュース!」
にこやかに去っていくヴォルフ。
彼の親しげな態度に小鳥が呆然としていると、今のやり取りを見ていた静理が話し掛けてきた。
「随分と、仲良くなったみたいだね。どうやって手懐けたんだい?」
「そ、そんなんじゃないです……!色々、あって……」
助けたから懐かれた。
そんな単純な話ではない気がして小鳥は口をつぐむ。
(それに、私があの時ルカくんを止めたのは、ヴォルフさんのためじゃないし……ルカくんのためでも……ない)
一番は、自分のためだった。
誰かを殴るルカを見たくない、というのも本心だが、それ以上に、自分が父親から受けた恐怖を思い出してしまうから。
ヴォルフ程酷く殴られたことはなかったが、ボロボロになって倒れているヴォルフが、小さな頃の自分と重なって見えて、小鳥は恐怖した。
(でもルカくんは、お父さんとは違う。八つ当たりみたいに、理由もなく誰かを殴るなんてこと、しない……!)
ヴォルフにだって、結局のところ小鳥を噛んだから怒っただけだ。
怒りの表現が過激ではあったが。
「……小鳥、おはよう」
不意にルカが挨拶をしてきた。
「おはよう、ルカくん」
挨拶を返しながらルカと目を合わせる。
しかし、ルカは小鳥と目が合うと、気まずげにふいと視線をそらしてしまった。
(ルカくん……?)
いつもならルカが積極的に話し掛けてくるのだが、今日は「じゃあね」と言って逃げるように小鳥から離れていく。
とても素っ気ない。
(え……私、避けられた……?)
今度はルカの態度に呆然とする小鳥だった。
そして、それから数日が経ち、小鳥は自分がルカから避けられているのだとハッキリわかった。
もうヴォルフに邪魔されることはないのに、ルカとの会話が続かない。
贈り物攻撃も止まっている。
無視はされていないが目を合わせてくれないし、ボディータッチもゼロときた。
(私、嫌われたの、かな……?)
急に変化したルカの態度がわからない。
何が原因で避けられているのだろうか。
嫌われたのなら、その理由は果たして何なのか。
(……わかんないよ……。なんでなの?ルカくん……)
ぐるぐると悩んで落ち込む小鳥。
そんな彼女に「コトリ〜!ヒマー?」と声を掛けてくるのは、ルカではなくヴォルフだ。
「コトリ、今日は爪で遊ぼうね〜」
「爪……?」
「マニキュア!塗ってあげる」
ルカに避けられるようになってから、小鳥はヴォルフとかなり仲良くなっていた。
この日もヴォルフが泊まっている客室に連れ込まれ、ヴォルフの趣味に付き合うことに。
この前はヴォルフが持っている女の子らしい服を「これも!あれも!」と着せられた。
昨日は髪を好きに弄られ、気づけばオシャレな編み込みが可愛いヘアスタイルにされていた。
そして現在、小鳥はソファーに座り、隣に腰掛けるヴォルフにマニキュアを塗られている。
「ほら、この色、可愛いでしょ!ボクだとなんかビミョーだったから、コトリに似合ってうれしいー!」
ラメの入った淡いピンク色。
自分の指先がキラキラしていく様子を、小鳥はドキドキしながら見守った。
慣れないオシャレをさせられて、嬉しいような恥ずかしいような。
似合うと褒められて小鳥は照れた。
「ヴォルフにも、似合うと思うよ?」
「ダメ!ダメだよ!子供みたいになっちゃう」
「……じゃあ、私も子供っぽい?」
「コトリは似合ってるからダイジョーブ。ボクを魅力的にできる色はね、赤とか白とか、ラメ無しのハッキリした色なんだよ」
「そうなんだ……」
何やら自分の色に、こだわりがあるらしい。
よくわからない小鳥は曖昧に頷く。
「うん。でもさ、使わないってわかってても、このピンク可愛いから買っちゃったんだぁ。好きな色と自分に似合う色が違うって、こういう時ショックかなぁ」