次の日の朝、幸せだった俺は、海の底の鉛のように沈んでいた。
昨日の昼休み、咲葉さんにメールしたのに、返ってこなかった。
祐子さんには適当に流された。午後の授業は頭に入らなかった。
夜は、また返事が来なかったら、と思うと、こわくてメールできなかった。
今日はもう、車で学校に行こうと思ったけど、
咲葉さんが本当に俺を避けているのだったら、朝ここに来ないはずだ。
逃げずに、ちゃんと確かめよう。
…だって、俺が毎朝ここにいられるのは、咲葉さんのおかげだから。
このまま、うやむやにしたら、またただのひきこもりに戻ってしまう。
辛い現実でも、ちゃんと見よう。
…たいそうな決意はしたが、顔はあげられない。
目が合ったのに避けられたら、俺は消えてなくなってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら下を向いていると、
「敦哉君、おはよう。…昨日メールできなくてごめんね。」
はっとして見上げると、咲葉さんがいた。
『先輩、話が長くて…』
笑顔だけど、申し訳なさそうに目を伏せた。
仕事の話が長引いちゃったのかな。なんだ…そんなことか。
「あ、全然大丈夫です。お仕事、忙しかったんですか?」
単純な俺は、笑顔で元気よく立ち上がって聞いた。
「…うん。ちょっとね。」
そう言って、咲葉さんは乗車の列に並んだ。
そっか。そうだよな。そんなこともあるよなー。俺って本当にアホだな。
祐子さんも言ってたのになー。そういうこともあるわよって。
車登校にしちゃわないでよかった。もう、本当にアホだな。
「働くって本当に大変ですよね。尊敬します。」
俺は海の底からあっという間に空を飛んで、雲になった気分で言った。
「…大変だけど、尊敬されるようなことじゃないよ。」
俺とはうらはらに、咲葉さんは目を伏せたまま答える。
ん?…なんか、元気がない?
暗雲をかき消すかのように、電車がホームに入ってくる。
いつもの場所に咲葉さんは立って、俺と向かい合う。
昨日は俺のことをジロジロ見てたのに、咲葉さんは目を伏せたままだ。
やっぱり元気がないみたいだ。仕事が忙しくて、疲れているのかな。
「咲葉さん、倒れそうになったら俺が支えますから、寝てください。」
俺の顔を見て、咲葉さんは言った。
「ありがとう。」
『ごめんね』
なんか、変だな…。謝るようなことじゃないのに。
いつもの咲葉さんなら、うれしい、とか思うところなのに。
顔を見ると、咲葉さんは目を閉じている。
でも今日は何だか寂しそうな寝顔。いつもは幸せそうなのに。
何かあったのかな。仕事で怒られた、とか。でもそんなことじゃ、へこたれなさそうだけど。
体調が悪いとか?女の人は色々あるみたいだし…。
起きたら何かあったか聞こうと思ったけど、聞かないほうがいいこともあるか。
…でも、心配だなあ。俺に何かできることは無いのかなあ。
寝顔を見て考える。…口に出せないことを、俺は聞くことができるけど…。
電車の中じゃ言いにくい愚痴とか、悪口とか、何でも俺は聞けるのに、
咲葉さんはそれを知らないんだから、意味が無いよな。
あーあ、役に立たない力だ。俺が咲葉さんを笑顔にすることは、できないんだろうか。
そんなことを思っていたら、咲葉さんの目が開いた。
何度もまばたきをして、俺を見た。そして、すぐに目をそらした。
一瞬、目が合うだけじゃ、何も聞こえない…。
本当に役に立たない能力で腹が立つ。
そして、その能力に頼りきっている自分に気づき、また腹が立つ。
俺には普通に言葉を話す能力だって、あるじゃないか。
「咲葉さん、何かありました?元気ないみたいです。」
俺が言うと、咲葉さんは俺と目を合わせて言った。
「…大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ。」
『優しくしなくていいのに』
少し笑って言った言葉より、心の声に気をとられてしまう。
「…そ、そうですか…。」
何とかふりしぼって答えたが、怖くて目が見れない。
…優しくしなくていい、ってどういう意味だろう。
俺は、車内の手すりをじっと見て考える。
…わからない。でも聞けない。聞けるわけがない。
考えていたら、電車は駅に着いてしまった。
咲葉さんに続いて電車を降りて、並んで歩き改札口へ向かう。
改札を出ると、咲葉さんは
「じゃ、またね。」
『ごめんね』
そう言って、背を向けて歩いて行った。
何だか、もう二度と会えないような、そんな気がして
俺は咲葉さんの背中から目が離せなかった。