「今夜はありがとうございました」
少し低めの声が告げる。
「私こそ無理をいったんじゃないかしら?」
声の主を見ないように女が答えた。
「自分もここに来たかったんです」
目の前に広がるのは満天の星空と眼下に広がる夜景を見たいと言ったのは女だった。
「綺麗だね…でも、流石に寒いよ。車に戻ろうか?」
女は男を見ないようにしながら肩にかけたストールを首まで隠すように掛け直した。
2人はここに来る数時間前、職場の仲間たちと賑やかな居酒屋にいた。
送ってくれると言う男の車に乗り込みこの山に来た。そして着いてからは黙ってこの景色を見ていたのだ。
「寒いなら、俺の腕の中にいればいい」
ためらいがちではあったが、男はストールを直す女の背中から全てを包みこんだ。
「……!」
女は息が止るのを感じた。
「好きなんだ!」
男は力強く言った。
「……私に…それを受け入れる権利なんか……ない」
男の手を振りほどけないまま女はか細い声で告げた。
「知ってるよ。君には家族がある。大切にしているものが沢山あるって」
あまり高くはないが冬山の冷たい風を受けていた2人はお互いの体温がとても心地よくなっていた。
「それだけじゃないでしょ?」
女は力を振り絞って言った。
「俺が年下だから?」
違うという言葉を抑えながら女は少しづつ男の体温に身を任せまいとしていた。
「とにかく車に戻ろうか。ねっ?」
やっとの思いで振りほどいた手を名残惜しむかのように離し、女は助手席に乗り込んだ。
男はしばらく動けずにいたが、何かを固く決心したかのように運転席に座る。
「ごめん。困らせて」
低い声で男が告げる。
女はストールを握り締めたまま、静かな笑顔を作った。
「ありがとう。気持ちは嬉しい……」
抱き締められた温もりが消えない自分を隠しながらそう答える。
「まだ一緒に働きたいの」
女の意見に男もうなずく。
でも、視線がぶつかったその瞬間、2人は気持ちを隠すことは出来なかった。
二つの影はゆっくりと動いた……
=fin=