深雪、沙梨、お前達と歩いたあの道は今もあるかな?
なだらかに続く坂。
初夏に残った稀有な桜を手の平で受け止め振り返る沙梨の顔が、忘れられない。沙梨、お前が見る俺達との季節色はまだ最後ではないだろう?
答えてくれ・・・。

【記憶が消され続けている今、自分の存在価値も曖昧な今、沙梨は本当に俺達の手を望んでいるのか?】
『え!?』
『だから、つまりさ。俺達はもうこれ以上』
言葉を濁らせた。
深雪の表情を見て、これ以上何と言えばいい?
自問自答の果て、答えは俺が出すしかない事に気付く。
『沙梨は、記憶を失う病を背負っている。
それは、単に老化とかそういう安易な物じゃない。
全人類の中で、初めてその病を背負った事になる。
けど、これは悪魔で悲観的な考えなだけであってさ・・・
つまり、俺達との過去を忘れているとする。
現在、この施設での生活に順応できていたら?
施設生活は悲惨みたいなレッテルを勝手に俺達は貼ってるけど、
もしかしたら俺達はもう』
『やめてよ!』
『!・・・』
深雪の気持ちは痛い程分かった。
自分自身以外の唯一の支えである俺が崩れかけようとしている。
俺という名の脆い柱を深雪は必死に修復しようとしている。
けれど・・・現実から逃げる事により沙梨を迎え入れられるか?
それは不可能だ。
深雪の涙は枯れる事を知らなかった。
深雪も願っているはずだ。
いつでも沙梨の笑顔に揺れて、飛び交う言葉一つ一つに喜びを感じ・・・
沙梨ともう笑い合う事が出来ない。
叶わぬ夢なら、せめてこの涙だけでも枯れてくれ・・・と。
俺の発言一つ一つが核心に触れている事を、深雪も理解したらしい。
暫く小さなハンカチに涙を落とした後、
『分かってる。分かってるよ。
それは沙梨ちゃんに接触しなくても、施設の人に聞けばわかる事でしょう?
たとえ、私達の事を覚えてなくても・・・
どうしても養子の話が難しいって分かったとしても、せめて一目だけ・・・
最後にお別れだけしたいよ』
別れ・・・その言葉が酷く重かった。
永遠にこの時がこなければいいなんて思った事もあった。
嘘みたいに幸せな日。
それを、標準化していた自分。
こんなにも、辛い別れがくるのならば・・・
そう、出会わなければよかったんだ・・・。

十二月十九日。
PM二時。肌寒さを感じるはずのこの季節。
感じなかった。
目の前に広がる光景に神経が麻痺しているのだろうか?
どうする?
これ以上前へ進むのか?
ここで踏み止まれば、これ以上悲しむ事はない。
俺達が我慢すればいいだけ。
そこは・・・まるで保育園か幼稚園。
幼き子供の遊び声が二人まで届いてきた。
それは当然だった。
気付けば二人の足は歩き出していて、フェンスを目の前にしていた。
フェンスの向こうは養護施設。
つまり、もう一歩で来訪者の形になる。
『・・・』
沈黙。
二人が見ている光景は、普段見れば微笑ましい光景だろう。
子供達は自分がどのような親の身勝手な理由によりそこに居るのか、
知る由もなくただただ純粋に笑っていた。
遊具で遊ぶ子供。
追い駆けっこをする子供。
絶望の淵に立たされた子供は、そこには居ない。
そう見えた。
俺達にとってその光景は、残酷絵図にも見えた。
沙梨は、きっとここで元気に暮らしているはずだ。
俺達を覚えているとか忘れているとか、そういう話じゃない。
どちらにしても、俺達はもう・・・不必要。
現実とは、何て残酷な運命を与えてくれるのだろうか。
『深雪、帰ろう。下手に会わない方がいいよ。
あいつはきっとここにきて正解だったんだ』
深雪は片方の手を目元に覆い、片方の手をフェンスに掛けた状態で黙って立ち続けていた。
正直、見ているこっちが辛かった。
ここで、さよならをしよう。
沙梨を考えての決断だった。
どうか幸せに暮らしてくれ。
深雪も自分自身に言い聞かせたらしく、ゆっくりとフェンスから手を放した。出会ってから十ヶ月。
あまりにも時の流れは早過ぎた。
こんな別れ方がくるなんて予想もしなかった。
けれど、現実を敵にする事は出来なかった。
ここで沙梨との生活に終止符。
ようやく、本来の冷たい風を捉えた俺の肌。
肌を刺す冷たい風の季節、唯一の我が子との別れ・・・。