十字に切られる渇望。
自決の庭か。

-拓也の話-

最近夢中になっている事がある。
と言うより、他にやる事が無いといった方が正しい。
俺の生活の拠点となっているこの留置所には、ある程度の生活の一式があるのだが、一つだけ場に馴染めていない物がある。
十字架に掛けられた長髪の男性。
手の平を杭で打ち込まれている。
懇願をする表情にも似るが、この男性は何を思っているのだろう?
そう。属に言うキリストだ。
キリストの彫刻がこの部屋にはあった。
その上の部分には、二つの燈。
蝋燭が置かれていた。
当然、最初は気にも止めていなかった。
しかし、この部屋で生活するようになってから、
時間の流れを全く実感出来ていなかった。
何をするでもなく、ただただ・・・。
そこで見つけたのがこの蝋燭だった。
正確に言えば、この蝋だ。
この部屋の中にある物で、蝋程時の流れを実感し、結果を出せる物はない。
ちなみに、ここに入って学んだ知識なのだが、
そもそも蝋とは高級脂肪酸と高級一価(または二価)アルコールからなるエステルの事で、それを糸などを芯にして円筒状に固めた物を蝋燭と言うらしい。話は戻るが、この蝋はある意味大人の玩具だ。
子供には到底遊べないレベルがこの蝋にはあった。
燈により、蝋が溶ける。その蝋が下の受け皿に落ちる。
そこからが勝負だ。
蝋が完全に自然凝固するまでに五分はある。
その五分で七割の形を作り上げる。
そこからは、蝋燭の燈を利用して完成に近付ける。
そう、要は粘土細工にはまっているのだ。
これまで作り上げた物は、窓枠の部分に飾ってある。
かれこれ二桁以上の作品が並んでいる。
これが、今の俺。
重要なのは、どんな作品なのかとか、火傷していないのかとか、
そういう事じゃない。

・・・沙梨に・・・会いたい・・・。

その日の夜。真っ白の雪が俺の作品に積もった。

煽動された蛆虫達の悲鳴。
『看守の命令は絶対。背けば規定に準ずる罰が待つ。
つまり、看守の命令が煽動となり、受刑者はそれに対し悲鳴をあげる。
ここまで説明すれば分かるな?』
『・・・受刑者は蛆虫だと言いたいんだろ』
『物分かりが早いな』
刑務所生活を目前としていた。
俺は今から世話になる刑務所の看守に、刑務所での生活を説明された。
『そういう説明は向こうの扉潜ってから受けるもんだと思ってた。
わざわざ足を運ぶなんて・・・。意外に真面目に仕事してんだね』
看守の眉間に青い筋が現れるのを見た。
そして俺の耳元で囁いた。
『入所当日・・・私は君を殴る。力一杯な。
あそこはそれでも許される世界なんだよ。残り猶予を満喫してくれ』
ギラギラとした目が俺を見ていた。
『暑苦しいよ。俺は蛆虫になっても、煽動はされねぇよ』
俺に残された時間が着実に減っていく。
毎日俺の脳裏に焼き付いた殺戮衝動が俺自身を煽動する。
俺はそれを必死に食い止める。
暴れてやりたいけど、俺には一人娘がいるから・・・。
最後くらい、父親らしい振舞を。

全ては繋がった。
謎の手紙。
沙梨ちゃんに接触した男。
非通知の電話。
沙梨ちゃんの実の両親。
運命と決め付けていた心への違和感。

-深雪の話-

拓が刑務所の扉を潜る数日前に、私は全てを繋げた。
結果から言えば、再び私達夫婦は沙梨ちゃんの事を育てていく事が可能。
勿論、拓も冤罪となる。
明らかに警察官を殴った。けれども冤罪になってしまう程の事実を私は所持していた。
ついに・・・
ついに私達に機会が訪れた。
今までのチャンスは全て世間という大きな布で隠されてしまっていたが、
私はその布に小さな穴を見つけた。
これを逃したら次はない。
掴めないと思っていた気体を掴んでしまった嬉しさに似た感情。
同時に溢れだす怒り。
私は早速行動に転じた。
まずは確かな証拠作りが必要だった。
一mmの誤差を許さずに行動する必要があった。
全てが私の思い浮べる道に行かなければ、その布の穴は補修してしまう。
成功する可能性は・・・正直かなり低い。
世間知らずの私に出来る事なんて微々たるもの。
それでもやるしかなかった。
世間を敵にしても、私は真実を叫び、沙梨ちゃんと拓を取り戻してみせる。
そして・・・私が一番最初に連絡をしたのは、立浪さんだった。

夢を見た。
俺の二本の足が立つそこには、自由がなかった。
俺は何か叫んでいた。
辺りは何もない。
最近、こんな夢ばかりが続く・・・。

-拓也の話-

刑務所入所当日・・・AM五時。
俺は最後の作品を窓枠に置いた。
キリストの顔を見るのも今日で最後。
物音一つしない小さな部屋。
今日からは更に小さく、蝋燭もない、異臭の臭いが漂う部屋に引っ越しするわけだ。
『俺は、何?』ぼやいてみせるが、虚しく宙に消えた。
・・・もう、冬なんだ・・・そう、改めて思った。
『・・・』
深雪の何十分の一かは分からないが、俺も少なからず涙を流していた。
単純に、愛する深雪と沙梨が恋しかった。
ガチャ・・・日の出の光よりも先に見た光は、弱々しい蛍光灯。
AM五時半が過ぎた頃、部屋のドアが開いた。
『小野。行くぞ』
世界が寝静まった時間、俺は手錠を掛けられたまま歩いた。
【特急地獄行き】に乗せられ、俺が向かう先は刑務所。
今回刑務所へ向かうのは俺だけのようで、俺以外の受刑者は存在しなかった。ある意味VIPなのか?と勘違いした。
車内には、小さな窓があった。どう見たって・・・嫌味にしか見えない。
受刑者が最後に見る、本当の自由。
縦二十CM。横三十CM程度の自由。
俺は別に考え事をするわけでもなく、無心で外を見ていた。
今思えば、そこには視覚だけの自由ではなく、聴覚の自由もあったんだ。
そうじゃなかったら、あいつの声は俺には届かなかっただろう。
心から恩恵、感謝してるよ・・・深雪。

条件は全て揃った。
拓、あなたは何もしなくていい。
今回は私が・・・母親の底力ってやつ、見せてあげる。

-深雪の話-

AM四時。
重低音が鳴り響く。
一瞬、何事かと目を真ん丸にさせた私。
そうだ・・・拓がいつも使っているオーディオコンポのアラームを、
四時にセットしたんだった。
事実上、真夜中。
慌ててコンポの電源を切った。
一つ呼吸をした後、炬燵の上にあった飲みかけのお茶を飲み干した。
冷たい・・・そして寒い。
炬燵の電源を探したけれど、そこでようやく完全に目が覚めた。
ゆっくりしてる場合ではない。そう改めて己に言い聞かせた。
身仕度を済ませ、【証拠】を手に取り、車に乗り込む。
暖気していない車内は非常に冷えた。
けれど、私の体温はその寒さを吹き飛ばす程に上がっていた。
今日、全てを終わらせるんだ。
再び、あの日に・・・
笑って暮らした日々に帰るんだ。
途中経過から話すと、私の証拠集めの段取りは非常に悪く、
かなりの時間を要した。
一番ベストは、拓が刑務所に入る前に証拠を突き付け、
全てを終わらせる事だったが、慣れない事が続いた為、
思い通りには進まなかった。
しかし、私はまだ布に存在する小さな穴を見失わずにいた。
今日、拓が刑務所に行く。
外の世界を走る、最後の道程。
私はそこに全てを賭けた。
こんな時間だ。
少々無理も許される。
『人生とか運命とか、そういうのは・・・』
もううんざりだ!

私は、拓に似てるかも。
そんな事に気付かされた日。
刑務所への道程を予め調べておき、拓を乗せた、【特急地獄行き】を待っていた私の前を・・・さすがは特急。
当たり前のように颯爽と走り去っていった。
鼓動が倍速に動くのが分かった。
『・・・平気平気。やれるよ。平気だから』
自分に何度も言い聞かせた。
平凡な二十二歳の私が出来る?
違う・・・やるしかないのだ。
また、笑いたいから。
アクセルを踏み込む私の右足。
少し、誇らしげ。
見失いそうになった、特急地獄行きの背後まで一気に追い掛ける。
道路は二車線。
これも計算の内だった。
悪を運ぶ正義の車のくせに、法定速度五十Kmの所を八十Kmで走っている。これは計算外の事だった。
滅多に八十Kmなんて出さない車・・・
というか、それ以上出すと車体がブレるから。
お願い!ここで壊れても悔いはない!どうか持ち堪えて!
私の願いが通じたのか、
四つのタイヤは当たり前のように加速した。
そして・・・
『細かい計画なんてない!私は私らしく!』
特急地獄行きの横に並び、更に加速。
そして強引に幅寄せ。
直ぐ様、異変に気付いたらしく、特急地獄行きは減速。
七十、六十、五十Kmと、二台の車は減速していった。
大きな事故にもならず私の思惑通りに進んだ。
やがて二台の車が完全に停車した。
私が勢いよく車から姿を現すと、相手側の運転手も姿を現した。
『すみません』
私の突然の謝罪に、運転手は不思議そうな顔で私を見た。
『危ないですよ。どうしたんですか?』
私は運転手の言葉を耳には入れず、一つ呼吸をした。
そして、拓がいるであろうコンテナ風の【牢獄】に向かって叫んだ。
『拓!聞こえるよね!?』
この時この場になるまで、私は泣き崩れるだけの人形だった。
けれど、私にも意志があった。
それは、貴方を救う為だけに働いた意志。
私は・・・こんなに頑張ったよ?
勘違いしないで。褒めてほしいんじゃない。
ただ、昔に戻れればいいだけ・・・
それは我儘ではないよね?
また、涙が出た・・・。
帰ろう?・・・昔に・・・。
『拓・・・』
止まらない涙が地面に落ちていく。
『拓!聞こえるよね!?沙梨ちゃんの、沙梨ちゃんのね・・・』
言葉が詰まる。
これだけ言えば全てが終わる。
『沙梨ちゃんの名字が分かったんだ・・・』
昔に帰る為に・・・

『沙梨ちゃんのフルネームは・・・島津沙梨』