我が子を思う母の心は、酷く動揺していた。
これ以上深雪が無茶をしないように俺は必死で深雪を抱き締めた。
深雪の心臓が大きく上下しているのが分かった。
『拓!他の病院に行こう!ここはヤブ医者よ!他の病院なら』
『馬鹿な事言うな!冷静になれ!』
『私は冷静よ!』
深雪は沙梨を抱き上げ、部屋を出ようした。
『深雪!』
背後から俺がきつく抱き締め、深雪の行動を制止した。
そして現在に至る・・・。
『冷静になれ。お前の気持ちは痛い程分かる』
深雪は再び泣き出した。
『ちょっといいですか?』
看護婦が部屋を開け、医師を呼んだ。
医師は俺と深雪に軽く頭を下げ、部屋を出ていった。
再び診察室に親子だけが、【取り残された】
別に・・・別に医学の無知を恨んでるわけじゃない。
披荊斬棘、確かに進歩を遂げているのだ。
ただ、沙梨が発症した病が時を誤った・・・。
室内に残る疎外感が俺にはとても辛かった。
雨は止んでいた。
            
一つだけ断言出来るのは、二十年という月日を生きてきた俺。
今日ほど人を殺してやりたいと思った事はない。
時刻が午後六時半を過ぎた頃に事件は起きた。
『深雪・・・行こう』
俺は心地良さそうに寝ている沙梨を抱き上げ、泣き崩れている深雪に声を掛けた。
深雪は口元を押さえながら、ゆっくりと立ち上がり俺の後ろをついてきた。
長い廊下が親子三人の前に現れた。
この廊下を俺と深雪と沙梨の三人で進んでいくわけだ。
歩いても歩いても、出口が近付かない錯覚に陥った。
この廊下のようにずっと三人で歩いていけたら・・・
そんな事を思っていた次の瞬間だった。
『・・・』
俺は何も言えないで居た。
島津さんが俺に近付き、沙梨の頬を人差し指でなぞった。
『話は、聞きました』
『・・・そうっすか。ま、別に関係ないっすけどね。俺と深雪は今まで通り、沙梨を育てていきますし』
『そうはいきません』
俺は耳を疑った。
『・・・え?』
『新種の病を持つ子供、況してや実の子供ではないわけですから。
今まで通りの生活は出来ません。この子は、施設に預けます』
『!・・・』
『これは現段階では警察の指示ですが、やがて病院を通して国側の指示となります』
この時初めて知った。
本当に、【キレ】るっていうのはこういう事を言うのだと。
体の内側に存在する何かが変換された気分。
今までは酸素八割の形で形成されていた化学式。
その為温厚に居られたが、その化学式に変化が生じた。
グリセリンという存在が現れ、そこに硝酸と硫酸が近付いてきた。
そして一つになった。
俺の中で今、一番危険な爆発物、
【ニトログリセリン】が出来上がり・・・爆発した。
言葉よりも先に、手が出た。
沙梨を強引的に深雪に渡し、島津さんの襟を掴み上げ怒鳴り散らそうとした。しかし、突如現れた体格のいい男二人に左右から制止された。
二人とも警官の制服を身に纏っていた。
『なんだよてめぇ等!放せ!』
島津さんが襟を直しながら、
『彼らも警察です。私達に危害を加えれば、
この場であなたを逮捕する形をとります』
『ふざけんな!』
俺の叫び声が廊下に響き渡り、患者や医師達がぞろぞろと現れ始めた。
『いやぁ!』
『!?』
深雪の悲鳴に振り返る。
別の警官が深雪の手から沙梨を奪い取ろうとしていた。
深雪も必死に抵抗していた。
『てめぇ!俺達の子供に何してんだよ!』
二人の男の力にねじ伏せられ、沙梨を救う事が出来ない。
『てめぇ等・・・放せっ!』
やがて、深雪の手から沙梨が奪い取られた。
さすがに、長時間の診察を受けて疲れ切った沙梨もそこで目覚めた。
『!?』
まさに、今自分に起きている事が理解出来ていない表情をしていた。
見知らぬ男の腕の中にいる自分。
泣き叫ぶ母親。
辺りを怒鳴り散らす父親。
この状況で沙梨が曝け出せる感情は恐怖のみ。
『ママ!じぃ!』
沙梨が泣き出した。
もう・・・もう二度と沙梨の笑顔を崩さないと誓ったのに。
沙梨を抱える警官は、仕事を全うする顔つきで沙梨を攫っていった。
『島津っ!てめぇ自分がやってる事分かってんのか!?』
『勿論です。貴方達夫妻の心境は痛い程分かります。
ただ、それでも私達は仕事を遂行するだけ』
『この野郎・・・!』
島津の目を見て俺は驚いた。
なんて冷たい目をしているのか。
冷血に、最早血が通っていない生き物に見えた。
仮にも数か月沙梨と関わってきた人間だというのに・・・。
『てめぇ、それでも人間かよ!情の一つも見せられねぇのか!』
『静かにして下さい。ここは大勢の患者が居る病院です』
『うるせぇ!』
『全く・・・非常識です。もういい大人なのだから。
尚更貴方にあの子を任せる事は出来ません』
『・・・』
もう・・・
『もう・・・どうにでもなれよ』
俺の中に潜んでいた鬼が微かに目覚めた。
俺を拘束する男一人の頬に俺の拳がめり込む。
男はよたよたとぐらつきながら、壁に激突した。
『逮捕!傷害罪により現行犯逮捕よ!』
島津が言った。
『上等だよ!』
俺は、自分を拘束するもう一人の男の襟を掴み上げ、投げ倒した。
俺に殴られた男が再び俺を拘束しようと近付いてきた。
再び俺は殴り倒した。
次に投げ倒した男を・・・。
その繰り返しを行っている間、島津が応援を呼んだらしく、新たに三人の警官が現れた。
『いくらでも掛かってこいよ!全員殴り殺してやる!』
俺の威勢のいい言葉とは裏腹に、現実は着々と島津の形になっていった。
やがて・・・
カシャン!・・・人生初の経験。
俺の両手首に手錠が掛けられた。
抵抗を止めない俺に、警官の押さえ込み。
五人の男に抑えられ、ついに俺は身動き一取れない状態に陥った。
くそ・・・くそ!
『ちくしょうっ!てめぇ等全員殺してやるからなっ!』

・・・遠くから、沙梨の泣き声が聞こえた。
その声が、段々と小さくなっていった・・・。

沙梨、ごめんな。
誓えない約束なんてしなけりゃよかった。
今日、お前と一緒に花火出来そうにないよ。

静寂の夜に、貼り付く上弦の月は風に追われ、消えたり現れたりを繰り返す。こいつ等は、いつまで俺を縛るつもりなんだ?
俺を縛り続けたいのなら、その場で三回廻って鳴いてみろよ。
国の犬共が・・・。
『何度言わせるつもりだ?沙梨を返せ!』
決して消えぬ沙梨の声。
俺と深雪が作った一切悲しみのない沙梨だけの世界に、
こいつ等は土足で入り込んできた。
『無理な用件だ。事実上、両親も行方不明。となれば施設に入れるのが』
俺は、手錠の掛けられた両手で無理矢理警官の襟を掴み上げた。
『御託はもううんざりだ。俺の用件だけ聞けば話は終わるんだよ。
いい大学出てんだろ?それくらい分かるだろ?』
『・・・君も、高校をちゃんと出ているみたいじゃないか。
それなら分かるだろう?どちらに正義はある?』
『正義?正義か・・・あんた、俺が一番嫌いなタイプの人間だよ。
生憎、正義って言葉が大嫌いでね』
そのまま殴り倒してやろうかと考えたが、他の警官に制止された。
『権力とか言う不思議な力で、我が子を奪われ自由も奪われた。
これ以上俺から何を奪うつもりだ?』
『君の未来はほぼ決定している。傷害罪により、数年違う世界で生きる事になるだろう』
冷静かつ、淡々とした口調で話す警官。
怒りが・・・抜けた。
気力が同時に抜け、俺は力なく椅子に腰掛けた。
『ようやく素直になったな』
別に、刑務所生活が嫌で反抗しているわけではない。
沙梨が・・・心配で。
『あいつは、沙梨はどこの施設に入るんだ?』
俺の質問に、警官同士が顔を合わせた。
暫くして、『君が知る必要はない』そう言い切った。
『別にいいだろ?場所くらい教えてくれたってよ。
これからまずい飯を食い続ける俺に同情して、教えてくれてもよ』
しばらく沈黙が続いた。
一人の警官がこめかみを掻きながら言う。
『H市。H市にある養護施設に入れる。以上だ』
『県内なのか』
良かった。
それなら、深雪一人でも会いに行けるだろう。
一番避けたかった施設入り。
避けられない現実に、深雪は耐えられるだろうか?
深雪は毎日でも沙梨に会いに行きそうだ。
会えない・・・そんな事は一切考えなかった。
親子なんだ。会って話をするのは当然だと思っていたから。
夜が明けていく。
俺の空は、まだ漆黒の闇に包まれたまま。
その日、冷たい留置所の中で、救えなかった沙梨の夢を見た。
俺は、とことん無力だ。

全てはあっという間に過ぎ去った。
沙梨を奪われ、逮捕。
罪の確定。
裁判。
判決・・・有罪。
『もういいだろ。いい加減涙枯らせよ』
深雪はここの所毎日のように泣いていた。
【旦那】と【我が子】を奪われる現実。
『それより、あいつは?島津はまたバッくれか?』
深雪が頷いた。
務所入りする前に、あいつにだけは一言言っておきたかった。
しかし、こちらからの連絡を一切受けるつもりはないらしい。
完全に俺達の件は解決したかのような素振り。
俺に残された時間は少ない。
判決が出ている以上、手荷物片手に壁一つ向こうの違う世界に行かなければならない時は、目の前だ。
『ちくしょう。あいつだけは絶対許せねぇ』
今の俺を支えるのは、この躯の内側から煮え渡る、
【殺伐感情】のみだった。