『それでは、その男が接触した際に沙梨ちゃんに手紙を?』
『間違いないです。それまで沙梨は女子トイレに居たわけですから。
トイレに入る前までは俺と深雪が居て、そしてトイレの中には深雪も一緒に付き添った。あの男が手紙を渡したとしか考えられません』
俺は島津さんに、電話口で今日起きた事を話した。
更に、沙梨と出会った時に沙梨が手にしていた一枚目の手紙の存在の事も話した。
重要な証拠となる物を、今の今まで伝えなかった事に、島津さんから軽く忠告を受けたが、俺の鼓膜を通過する事はなかった。
俺は・・・目の前に居た沙梨の父親であろう人物を捕まえられなかった事を酷く悔やんでいた。
そして、深雪が今日の手紙の存在を知った以上、二通目の事も深雪に話さなければならないと思い、島津さんの許可なく話した。
その際、深雪は俺を睨み、
『拓個人の問題じゃないでしょう?いくら警察に口止めされたからって、私にも言わないなんて』
俺は謝罪を通し続けた。
両親には話さなかった。
『分かりました。後日、その手紙を受け取りに伺います。指紋を含め、
証拠があるかもしれませんので』
電話を切った。
『・・・拓』
悔やんでいた・・・。
深雪が心配そうな声で俺に言った。
『ありがとうね』
『・・・?』
意味が分からなかった。
俺は言葉を失った。
俺の部屋で二人の沈黙が流れた。
ようやく俺がありきたりな言葉を発した。
『何が・・・ありがとうなの?』
こんなにも俺は後悔の念で押し潰されそうなのに・・・。
『今、拓の頭の中は沙梨ちゃんの事で頭が一杯。そうでしょう?』
『!・・・』
深雪の言いたい事が分かった。
要は、少し前まで沙梨を邪魔者扱いしていた俺が、沙梨のことを考えている。それに対する感謝・・・。
だからこそ俺は今も悔やむ。
『仕方ないだろ。あの親父は自分の娘が心配なんだろ?
それで沙梨に接触してわけ分かんない手紙渡して・・・本当に心配ならさ』
『そうだよね。沙梨ちゃんの気持ち考えてほしいね』
『・・・うん』
なんか、泣きそうになった。
なるべく弱い表情を見せずに話した。
『必ず、必ず沙梨の両親を見つける。施設なんかには絶対入れさせない』
強い決心を口にした瞬間、視界が揺れた。
『お、おい!』
深雪が俺の体を自分の方へ抱き寄せた。
『そうだね。必ず見つけようね・・・拓』
            
ある市立図書館に俺は居る。
室内はとても静寂化しており、何となく別世界にいるような気がした。
受験シーズンでさえ俺は図書館になど来た事はなかったが、
情報源としては役に立つと思い会社を休んで来たのだ。
深雪には内緒。
俺一人でやれるところまでやってみる。
深雪は反対するだろうがこれはいわば深雪に対してのメッセージでもあった。俺は子を思う良き父になるから・・・。
小さくも巨大な決意表明だった。
分厚い医学書を何冊も何冊も読んだ。
当然、眩暈を我慢しながらだ。
時折、何語だか分からないような書物もあったが、そこは飛ばした。
翻訳に時間を掛けるなら、一冊でも多くの医学書を読んだ方がいいと思ったからだ。
沙梨の病名。
いや、医者の申告で、沙梨は至って健康と告げられた。
しかし、一つだけ。一つだけ気になる病名が俺の目に止まって離れようとしなかった。
その病名は、【モルキオ病】
イギリスでは今も、七十万人に一人は掛かってしまうという恐ろしい病気で、遺伝性の病気の一つ。
人の体内には、グリコサミノグリカンという物質があって、さまざまな組織に存在している。
この物質は、体内での生産と分解のバランスが取れていれば問題はないが、
モルキオ病の場合では、グリコサミノグリカンを分解する酵素が生まれつき欠けてしまっている。
その為、骨格や内臓に異常にグリコサミノグリカンが蓄積されて、様々な障害が生じる。
要は、人体の成長が途中で止まってしまうのだ。
俺と深雪は正確には沙梨の年令は知らない。
沙梨が深雪に伝えた三歳。
それを覆せば、この病気は沙梨に当てはまる。
なんせ、時折、奇妙なくらい大人びた時がある沙梨。
もし、もし沙梨が事実上二十歳として・・・
自分の病気のせいで本当の両親に捨てられ、見つけてもらえた俺達に対して、【また捨てられるのが恐いから、年令を誤魔化し、なおかつ三歳児のような発言を意識して発してるとしたら?】
『・・・有り得ない』
小さく呟いた。
症例を見た限り、この病は確実に年齢を重ねる。
つまり、人体の成長は停止しても、浮かべる表情や取る仕草は実年齢。
沙梨は・・・完全に幼児だ。
時折見せる言動がやけに大人びているだけ・・・。
モルキオ病を解説する文章を最後まで読むと、【主な発祥地はヨーロッパ州、アジア各国では大変珍しい病気】と、記されていた。
ふと、二通目の手紙を思い出した。
【現在の医学では・・・無】
稀少な病に日本の医学が発見を出来ずに居る?
馬鹿な、と自分自身に言い聞かせる。
何を考えている、そんな事は有り得ない。
日本の医学で見つけられないわけじゃない。
日本の医学にもモルキオ病は存在してるんだ。
じゃあ、沙梨はこの病気ではない?
俺がこめかみの辺りを押さえて一つ一つ整理していると、
『すみません』
『!・・・はい?』
一人の女性に声を掛けられた。
『この医学書、今から読みます?』
俺の右側に置いてあった医学書の山から一冊を抜き取り女は言った。
『いや、それは一通り目通したんで』
『じゃ、読ませてもらうね』と、女は俺の向かい側に腰を掛けた。
見たところ、若干年上。
二十五、六くらいに見えた。
縁のない、いかにも勉学が得意です、みたいな眼鏡をかけていた。
俺からの視線に気付いたらしく、女は戸惑いながらも微笑し、言った。
『そんなに若いのに、こんな難しい本を?』
『え!・・・いや、まぁ、色々と調べる事があって』
『医者の見習いとか?』
『とんでもない。無縁ですよ』
『そう。何を調べていたの?』
『いや・・・』
別にこの人に話してはいけないなんて事はなかったが、何となく口を閉じた。『・・・モルキオ病?』
『え!?』
俺の開いていたページを見たのだろう。
女は視線を俺に向け、
『お医者様には診てもらったの?素人判断は一番良くないことよ』
と、言った。
『いや・・・医者には診てもらいました。
特に問題なく健康だって・・・だから』
『その人と』
女は俺の言葉を遮って言った。
『その人とはあなたはどういう関係なの?』
俺はしばらく黙り込み考えた。
沙梨と俺の関係・・・話せば長くなる事は分かっていた。
『いや、別に関係とかそういうのは』
誤魔化しが通用しない事を俺は直ぐ様判断し、
『俺、もう行くんで』と、山積みの書物を抱えて席を立った。
スッと差し出された物が、名刺だと気付くのに時間を要した。
『・・・え?』
『これ、私の連絡先。もし、その件の事に関して聞きたい事があれば連絡ちょうだい』
『え・・・医者ですか?』
『ボランティア医師よ。治療不可能と言われるこの世の病気を全て消し去りたい・・・そんな事考えてる馬鹿な女よ』
『・・・とんでもない』
『ちなみに、モルキオ病の治療法は今のところ皆無。それどころか・・・』
女は口を閉じた。
『それどころか?』
『・・・』
女は黙り込み、一回深く息を飲み込み言った。
『長くは生きられない』
『!』

『!熱っついなお前!はぁ?・・・え?いきなり何だよ!?』
深雪は部屋に入ってきて早々煙草に火を灯し、先端を俺の手の甲に近付けた。
『何これ?』
ドサドサ!と、俺の鞄から図書館で借りてきた医学書が何冊も落ちてきた。
『何これって・・・見りゃ分かるだろ?』
スッと近付けられた煙草を見て、
『ごめん!』と、すぐに謝った。
『何?どういう事?今日行ってきたの!?どうして一人で動くの!?』
『いや、別にそんなつもりは』
『会社を休んでまでするような事をどうして私に言わないの!?』
『・・・ごめん』
『謝るんじゃなくて、説明してよ!この前だって二枚目の手紙の事隠してたくせに!』
『・・・本当、ごめん』
『!・・・何よ・・・なんか最近あれだね』
深雪は極端に声を下げて言った。
『昔から喧嘩はよくするけど、最近拓は張り合いないね』
『大人になったって証拠だろ』
『もう一人で動こうとしないで?拓一人の問題じゃないんだよ?』
立派な父親像は簡単に砕け散った。
『ごめん』
『もういい。それで、何かわかったの?』
『・・・いや、何も』
『!・・・嘘吐き。昔から拓は嘘吐けないじゃん』
俺は言葉を失った。
たとえ沙梨がモルキオ病患者だとして、俺は深雪にストレートに言えるか?
モルキオ病患者は長生きできないと・・・【立浪(たつなみ)】さんから聞いたのだ。
立浪さんとは図書館で会った女性の事。
『本当に、何もなかったよ。それに、こんなもん読んでても
すぐに睡魔に襲われちまってさ』
『なら、なぜこんなに借りてきたの?』
『・・・そりゃ、あれだよ・・・』
『医学書をまともに読める知人でも居るの?』
深雪の執拗な問いに俺はしどろもどろ。
結局、俺は重たい口を開いた。
モルキオ病の事、立浪さんとの出会いまで全てを白状した。
案の定、深雪は眉を八の字にして泣き出した。
『まだ分からないから。立浪さんも言ってたけど、
素人判断が一番良くないって。だから・・・』
その日、深雪の涙が流星の如く現実を滲ませた。