一通りの事務作業が終わり、疲労が溜まった背中を解すように伸びをする。

日差しが眩しい昼下がり、恋からの差し入れの葛餅を1つ口に放り込むと、その優しい甘さにどこか懐かしさを覚えた。



《…やっぱり恋は。》



ふと苦い記憶が脳を過る。



《…今は、思い出すべきではない。》




心を落ち着かせる様に息を吐き出すと、徐に立ち上がり窓を開ける。

初夏の風は爽やかで、肺一杯にその空気を吸い込めば、心なしか胸に渦巻く黒い闇が薄れるような気がした。





『…さ、奏様に伊勢の国から届いた文でも届けに行きますか。』



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部屋の前に着くと、中からは2人分の声が聞こえる。…恐らく、流であろう。

『…奏様、失礼致します。』

障子1枚隔てた廊下から、声を掛ける。

『あ、葵ー?どーぞ、お入り下さいなー。』

相も変わらず、伸びやかな主の声が返って来る。


『失礼い……』


返答を待ってから障子を開けるも、目の前の光景に言葉が詰まる。


窓を大きく開け放った侭、我が主・奏様は…




両手を頭の上で交差し、上体を左右に揺らしながら畳と畳の境目を一本橋を渡るように器用に歩いていた。


『葵ー!見て見て!木の上を上手に歩く為の練習法だって!』


楽し気に歩く奏様の背後には、見慣れた隠密が窓から顔を覗かせている。

そして、そんな隠密に気付いた瞬間…

奴は、顔を覆う布を瞬時に顎先から引き上げた。




…成程。つまり、今の今まで奏様に素顔を晒していたと言う訳だ。
中々愉しい事をしてくれるじゃねェの。





奇妙な歩行を見せる一国の主と、恐らく嘘を吹き込んだであろう主犯。

言いたい事は山程ある。

しかし、優先すべきは…


『…奏様。忍術の練習に、その様な珍妙な歩行練習はございません。』


『え…え⁉︎でも流が、こうやって歩くとバランス良く木の上を歩ける様になるって…!あ、もっと身体を曲げないとダメとか?』

『そう言う事でもありません。』

『え…え⁉︎でも流が…』

一旦動きを止め、流と私の顔を困った様に見比べる。


『…っ、申し訳御座いません奏様。奏様がいつもこの様な部屋で過ごされているので、何か身体を動かして気分転換にでもなれば良いなと思い、提案させて頂いたのですが…』

先に口を開いたのは流だった。
下を向き、肩と声を震わせている。

…コイツ、思いっ切り笑ってやがる。


『おぉ、そうやったんやな!そんな所まで気遣ってくれるやなんて…流はやっぱり優しいわ!ほんま良い気分転換になった。ありがとうやで!』

奏様が眩しい程の笑顔を流に向ける。


『…っく、私の想いがご理解頂けた様で何よりでございます。』

『流…?まさか、泣いてる?』

『いえ…しかし、奏様の事を思ってと言えど、嘘を吐いてしまった事を悔いております故…』

『気にせんでえぇ!流が俺の事を想ってしてくれた事なら、喜んで受け入れるで
!』



…奏様。そいつ、笑い過ぎて涙目なのでございます。


と、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。これ以上、奏様を混乱させてはいけない。


『…奏様、伊勢の国より文が届いております。次回の会食の日程についてなので、後で検討致しましょう。』

2人のやり取りを遮るように、声を挟む。

『伊勢…あ!ゆたか君の所か!うん、日程決めて今度はうちで盛大にやろう!』


『それと流は…ちょっと話が有るから、後で部屋へ。』


『………承知致しました。』





《話が有る》と言うのは、嘘ではない。

恐らく流は、怒られると思っているに違いないが。




…今はもっと、大事な話をするのが先だ。




奏様が望む、平和な未来の為に。