初恋パレット。~キミとわたしの恋の色~

 
わたしの席の周りには、授業中にこっそり手紙を回したりする子は今のところいないはずだ。

というのも、新学期になってまだ日が浅く、しかも出席番号が下のわたしたちの一帯は、1年のときのクラスが見事にバラバラで、お互いにまだ手探り状態な部分が多い。

だから、先生に見つかるリスクを冒してまで、キャラが掴めていないわたしに手紙を回す意味がよくわからない、というのが今現在の状況だ。

現に、先生の目を盗んで周りを見回しても、紙を投げたかもしれない目ぼしい子らは一生懸命にノートを取っていて、早々に当てが外れたわたしは、紙を見つめたまま途方に暮れる。

まさか嫌がらせというわけでもあるまいし、この紙クズ、いったいどうすればいいんだろう……。


すると――カチャン。

わたしの右隣からペンが落ちた音が聞こえて、思わずそちらに目が向いた。

わたしの右隣は百井くんだ。

他のクラスメイトはペンが落ちた音さえ聞こえていないほどに授業に集中しているのに、百井くんとわたしだけは、どうやら違ったらしい。


『この紙、百井くんが投げたの?』

『知らね』

『どういうつもり?』

『……』
 
 
紙を指さしたり、シャープペンでつついたりしながら、口パクで百井くんに尋ねる。

けれど、途中で面倒くさくなったらしい彼は、わたしの質問を思いっきり無視して、おまけにふいっと顔も背けてしまう。


「なんなのよ、もう……」


周りに聞こえないように小さく悪態をつきながら、仕方がないので紙を開いてみる。

昼休みのことについての文句が書いてあるのなら、それもよし。

ただの嫌がらせのために紙を投げたのなら、それでもよし。

とにかく紙を開いてみないことには、判断のしようがない。

なるべく音が出ないように、そーっと開く。


【来い】


見えたのは、紙の中央にそれだけの文字だった。

しかもそれは、百井くんの気持ちの表れなのか、有無を言わせぬ命令形なのにも関わらず、字がやたらと小さいのが逆に面白い。

百井くんらしいというか、らしくないというか。

でも、彼のおかげで昼休みのときから続いていた胸のザワザワがすーっと軽くなって、わたしは、そのくしゃくしゃの紙を口に当て、しばらくクスクス笑ってしまった。





わたしが百井くんと関わりたい理由はなんだろう。
 
 
放課後、クラスのみんながそれぞれの部活に向かう中、わたしも旧校舎の美術室へ向かう準備を進めながら、ふとそんなことを思った。

亜湖が言ったように同情? それとも恋?

けれど、百井くんと関わるのにきちんとした理由が必要なのかなとも、同時に思う。


それなら、今はまだ〝不明〟でいいや。

『来い』って百井くんが呼んでくれている。

それだけで、今はいい。










 
 
それから3週間。

もはや百井くんの私室と化した美術室の掃除はついに終わりが見えてきて、きれいに片付いた室内は、十数年のブランクを経て、ようやく昔の姿を取り戻しつつあった。


壁にうず高く積まれた壊れかけの机や椅子。

その隙間にはめ込むように、元美術部員の先輩方が残していった〝作品〟という名の負の遺産の数々がインテリアされている。

石膏の像だったり、なんだかよくわからない木の彫刻だったり、大小さまざまなサイズの油絵や水彩画、デッサン画だけのもの。

ところどころ欠けていたり、ぱっくりと半分に割れている湯呑み茶碗やお皿は、今も現役で働いている焼き窯で焼いたものだろう。


そんな中、真新しいものが3つ、美術室に運び込まれた。

やはり百井くんはここで絵を描くつもりでいるようで、まっさらなキャンバスと、それを立てかけるためのイーゼル、丸椅子の3つが美術室の中央に置かれ、夕日に包まれながら、早く絵を描いてくれと言わんばかりにその存在を主張している。


「あとはカーテンだけかなぁ」


美術室の中をひととおり見回したわたしは、誰に言うでもなく、そう呟いた。
 
 
いつもの放課後、いつもの美術室。

ただいつもと違うのは、すすけてチョコレート色になっているカーテンを洗濯したら百井くんとここの掃除をすることもなくなってしまうんだな、ということ。

それはつまり、必然的に美術室でのおしゃべりも終わってしまうということを意味していて。


「ちょっと寂しいなぁ、さすがに……」


チョコレート色のカーテンの裾を意味もなくひらひらと振りながら、思わず大きなため息が出ていった。

この3週間、放課後は毎日百井くんと一緒にいたから、明日からはなにも接点がなくなることが、今になってもなかなかしっくりこない。

入部している写真部以上に部活をしているようで楽しかったし、百井くんは、この美術室でならわりと素直に自分の話をしてくれる。

いまだにスケッチブックの持ち主は自分ではないと主張してはいるけれど、わたしはもう、そのことで彼をからかったり茶化したりすることはなくなり、百井くんのほうもまた、なにかにつけてあのときのパンツの話を持ち出さなくなった。

……そこはお互い様だ。


「悪い、ニナ。遅くなった」

「あ、おかえりー」


と、そこへ百井くんが戻ってきた。
 
 
学校近くの画材店の袋をぶら下げて美術室に入ってきた彼は、心なしか楽しそうな表情を浮かべながら、わたしの目の前にそれを広げて見せてくれる。

今日のわたしたちは、まず百井くんが美術室の鍵を開けて画材店へ向かい、あとから来たわたしが中で待っているという段取りを組んでいた。

ここ数日、百井くんは画材店のカタログを眺めながら買うものを絞り込んでいたようで、今日の段取りを前日の掃除のときに相談されていたわたしは、「うん、いいよー」と二つ返事で了承していた。


わたしの存在に慣れたのか、それとも、やっと白状する気になったのか。美術部員であることと絵を描いていることを教えてもらったのは、つい最近のことだ。

ただ、ひとつ残念なのは、どんな絵を……というか、絶対にあのスケッチブックに描いてあるような水彩画だろうけれど、絵を描く百井くんの姿は見られないだろうな、ということだった。


百井くんはどういうふうに絵を描くんだろう。

どんな筆づかいをして、そこにどんな色を付けるんだろう。

着々と美術室の中が片付いていき、キャンバスやイーゼルなど、ひとつずつ絵を描く準備が整っていくにつれて純粋に興味が沸いてきていたけれど、残念ながらそれは、興味が沸いたままで終わりそうな気配だ。
 
 
でも、そんなのは初めからわかっていたこと。

だからわたしは、絵を描く百井くんの姿を拝めない寂しさを払拭するようにテンション高めに声を出す。


「百井くんは、今日は絵を描く準備ね。わたしはカーテンの洗濯。作業分担で時短だね!」


百井くんが見せてくれた袋の中の画材道具は、正直なところ、わたしにはよくわからない。

プロさながらに道具を使いこなす美術部員たちなら、筆の一本、絵の具の種類、画用紙の紙質などについていろいろと話が弾むんだろうけれど、美術部員でもなんでもないわたしには、百井くんの好きな画材メーカーの名前を教えてもらったところで、「へぇ!」くらいしか言えないのだ。


「てかニナ、カーテン外せんの」

「んー? そこに脚立があるし、スカートの下にジャージも履いてるし、なんとかなるよ」


袋の中身を机に並べながら心配そうに尋ねる百井くんとは反対に、わたしはあっけらかんと答える。

ちなみに、洗剤は亜湖から借りるつもりだ。

亜湖が所属するテニス部は基本的に外で部活を行っている部なので、土や泥、転んだときに擦った草なんかでウエアが汚れる機会が多い。
 
 
それすなわち、落ちにくい汚れとも戦っているわけで、すぐに洗濯できるように部室前に洗濯機が常備されており、洗剤もまた然りだ。

行ってすぐに洗濯機を使わせてもらえる保証はないけれど、3年の藤野美遥部長とも知り合いなので、まあなんとかなるさと思う。


「ニナ、やっぱオレやる」

「……わたしじゃ役不足だっての?」

「絶対落ちる」

「そこまで運痴じゃないよ!?」


それにしても、百井くんからの、この信頼度の低さといったら……。

美術室の隅によけた脚立を引っ張り出そうとしているわたしの前に立ちはだかったかと思ったら、脚立を掴んで放そうともしてやくれないなんて。

カーテンの洗濯が終わったら話もできなくなっちゃうんだから、最後くらい格好つけさせてよ。

百井くんは黙って絵を描く準備でもしてなさい。


「いいんですー、男の子より軽い女の子のほうがなにかと小回りが利くんですー」

「その顔やめろ、ブサイク」

「んもう、ああ言えばこう言う!」


と、小競り合いは続く。

百井くんは考えもしていないんだろう。

わたしがここまで頑なにカーテンの洗濯を譲らない裏には、明日からは話しかけることさえできない寂しさが隠されている、なんてことには。
 
 
だからわたしは、それに少しも気づいてくれない百井くんに対する悔しさも相まって、ついこんなにも可愛くない意地を張ってしまう。


「じゃあもうニナの好きにすればいい」

「いーだ! そうしますー!」


呆れた顔をし、大きなため息をついた百井くんが急に掴んでいた手を放したので、反動で脚立の重さが一瞬なくなる感覚を覚えた。

けれど次の瞬間にはしっかり重みが戻ったそれを窓際まで引っ張りながら、わたしは百井くんに向かって思いっきり〝いーっ!〟としてやる。


意地っ張りで可愛げがなくて、身の程知らずなヤツだと思われちゃっただろうか……。

ちらりと百井くんをうかがうと、わたしに背を向け、再び画材店の袋の中から画材道具を取り出し机に並べているところで、表情は見えなかった。

脚立に乗ってカーテンを外すなんていう危なっかしいことは、たぶん普通の女の子はしない。

それでもわたしは、百井くんに〝普通〟だなんていうありふれた言葉で片付けられる存在にはなりたくないし、卒業まで話せなくなっても、彼の中で〝ニナ〟でい続けたいと思う。

3週間で移った情なのか、それとも別のなにかなのか。