小さい頃はその姿を格好いいと思ったこともあったけれど、もう少し大きくなると、逆になった。
小学生の頃にはクラスの男子に父のことで冷やかされたこともあったし、せっかくの休みなのに家族揃って出かけたこともない。
一番嫌だったのは、わたしが中学生の頃、田舎の写真館のカメラマンとはいえプロの父が、カメラマンとしてはあり得ないミスをしたことだ。
それ以来、わたしは前にも増して写真が嫌になり、そのまま今にいたっている。
「……ニナ」
「ほぇっ!? なな、なに?」
〝百ノ瀬写真館〟というワードが出てきて、つい感傷に浸ってしまっていたわたしの耳に、百井くんが呼ぶ声が入ってくる。
はっとして意識を現実に戻せば、彼は「着いた」と言ってわたしを地面に下ろす。
見ると写真館兼住宅である百ノ瀬写真館の真ん前に立っていて、どうやら長いこと黙りこくっていたらしいことが、ワイシャツの襟元をパタパタと扇ぐ百井くんの様子から伝わってきた。
「ニナも写真始めればいい」
暗くて判別しにくいけれど、赤いレンガ屋根と白い壁の洋風造りの建物に蔦が絡まり、ちょっとした洋館みたくなっているうちの写真館を見上げて、百井くんは唐突に言う。
百井くんは確か隣の市から通っているとかで、たぶんうちのバカ親父のことはよく知らないのだろう。
本当に素直な気持ちで、ただ思ったことをそのまま口にしたような口調だった。
だけどそれが、わたしには痛い。
「それより、美術室には何時集合?」
「あー、放課後になったらできるだけ早く」
「了解。ありがとね、じゃあ!」
と、わたしは強引に話題を変え、ずっとおんぶしてもらったお礼もろくにしないまま、腰が抜けたことが嘘のように家に駆け込む。
写真は、わたしにとって鬼門だ。
触れたくないし、触れられたくない。
もしかしたら、百井くんがスケッチブックの持ち主を自分じゃないと言い張ることと少し似ているかもしれない。
でも、根本的に違うのは、百井くんが照れ隠しのためにわかりやすい嘘をつくのに対して、わたしは心から写真やカメラを好きだとは思えないことだ。
小さい頃の寂しさも、父のやらかした失敗も、カメラを手にすると思い出してしまって、どうしても憎々しい気持ちが先に立ってしまう。
どういう事情から旧校舎の美術室を使うのかとか。
偶然居合わせただけのわたしに、どうして掃除を手伝わせようと思ったのかとか。
――あのスケッチブックの彼女のこととか。
聞きたいことはたくさんあるけれど、でも、今はもう使われていない美術室で絵を描きたい百井くんの気持ちも、なんとなくわかるから。
それに、わたしにだって、話したくないことのひとつやふたつ、普通に持ち合わせているわけで。
「掃除が終われば、百井くんとはもう関わることもないだろうし、あんまり詮索するのはよそう」
そう結論付け、「あら、遅かったのね」と、晩ご飯の支度の真っ最中なのだろう、濡れた手をエプロンの端で拭きながら台所から顔を出したお母さんに、
「ちょっと部活の手伝いをすることになってね。明日からしばらく、帰りはこの時間になりそう」
と、笑って答えた。
翌日。
「あ、百井くん、おはよー」
「……」
昨日のノリで百井くんに朝のあいさつをしたら、耳から外していたヘッドホンをわざわざ露骨に耳にかけられた。
当然ながら、ひどっ!!と思ったのが、今日初めて百井くんに抱いた感情だ。
けれど、友だちの亜湖に遠慮がちに袖を引っ張られて周りに目を向けると、百井くんが取った行動の意味にも頷けてしまったのが悲しい。
おい、百ノ瀬どうした!? なんで普通に百井に話しかけられる!? というクラスメートの目、目、目。
実際に亜湖にも小声で「なんで!?」と聞かれる始末で、亜湖にもクラスのみんなにも、もやっとした笑顔を返すしかなかった。
どうやら百井くんは、わたしがクラスで浮いてしまわないようにあえて避けてくれたと、そういうことらしい。
浮くのはオレだけで十分だ、というのが、彼の行動の意味するところなんだろう。
……ヤンキーはツラい。
とはいっても、百井くんは基本的に仏頂面、怒っている、ガンを飛ばしているの三原則で成り立ってはいるものの、校内で問題を起こしたという話は、そういえば聞いたことがない。
学校での百井くんは、例の顔面三原則を除けば遅刻はしないし授業もサボらない普通の生徒。
なのにどうして〝悪い噂の絶えないヤンキー〟なんて言われ、生徒どころか、教職員の先生方からも怖がられているのだろう。
昨日まではわたしもその中のひとりだったし、噂を鵜呑みにしていたのが今になって恥ずかしい。
だけど、よくよく考えてみれば、百井くんに対する一連の噂の出所が今ひとつ不鮮明に思えるのも本当だ。
とはいえ、亜湖には話さなくちゃと思う。
「ね、仁菜、百井なんかに話しかけて大丈夫なの? あの人、つい最近も他校の生徒10人を相手に素手で戦って勝っちゃったんだってよ? 弱み握られてるなら一緒に警察に行って相談しようよ」
「……まずは先生じゃないの、そこ」
「先生じゃ無理よ、だって百井だもん」
「まあ、そうかもしれないけど……」
まったく……。
こんな根も葉もない噂話をどこから拾ってきたのやら。
どえらい強いらしい百井くんは本当はツンデレが面白い普通の男の子ですよ、と早く教えてあげなければ、このとおり、わたしは彼女の中で脅されている子になってしまう。
でもまあ、考え様によっては、旧校舎の美術室の掃除を手伝わされる羽目になったのだから、似たようなもののようにも思える。
……自分のせいだけど。
「仁菜、見かけどおりアホだから。脅されてることに気づいてないとか、ホントやめてね」
「それくらいわかるわ、わたしにも!」
「あら、そう?」
「むう……」
だからといって、このとおりの亜湖の毒舌を、このまま野放しにはしておけない。
百井くんに脅されているからではなく、亜湖の容赦ない毒舌を日々食らうせいで精神的に参ってしまったらどうしてくれよう、という話だ。
わたしは自分の席で、亜湖は自分の席から出張サービスでこんな話をしているわけだけれど、どうして隣の席に当人がいるのに話題にできているのかといえば、百井くんがしているヘッドホンが大きな役割を果たしている。
悲しい話、いつも大音量で音楽を聴いている百井くんにかこつけ、クラスはすでに、百井くん排除モードになってから久しい。
どうせ自分らの話し声なんて聞こえていないんだからなにを言っても平気だろ、という空気がクラス中に充満していて、正直居心地が悪い。
「とにかく仁菜、あんたはもう百井に声かけないほうがいいと思う。……あんまり言いたくないけど、クラスで浮きたくなかったらさ」
「うん……」
ホームルームの予冷が鳴り、亜湖はそう言い残して自分の席に帰っていく。
亜湖は基本的に毒舌しか吐かないけれど、最後に言ってくれたように、ちゃんとわたしのことを心配しているのが伝わるから好きだ。
そして、わたしが忠告を無視して百井くんと関わりを持ち続けようとするなら、彼女もきっと彼やわたしと一緒に浮いてくれる、とても優しい女の子だ。
*
それからの時間は、昨日のやり取りなんて最初からなかったように、百井くんとは目も合わず、もちろん会話もないまま、ただ淡々と過ぎていった。
お昼休みになると百井くんが教室からいなくなるのは、いつものこと。
でも、ひとつだけわかるのは、おそらくあの美術室に行ったのだろうということだ。
「ごめん亜湖、そういえばわたし、昨日の掃除の報告、まだ池のんにしてなかったんだ。ちょっと職員室行ってきていい?」
亜湖の倍の早さでお弁当を食べ終えたわたしは、タイミングを見計らいつつ不自然に聞こえないように意識し、彼女にそう告げる。
今朝忠告されたばかりだし、さすがに百井くんのところに行くとは思わないだろう。
そう思って席を立つ。
「……どこにいるのか知らないけど、行くなら誰にも見つからないように行きなよ?」
「へ?」
「それから、池のんにも報告を忘れないこと」
けれど、クイクイと手で示してわたしを呼んだ彼女は、諦めとも呆れとも言えない微妙な顔をしたかと思うと、わたしの耳元でそう囁いた。
さすがは亜湖。
百井くんを探しに行く口実に池のんを使ったのがバレバレだったらしい……。
だけど、ちゃんと送り出してくれる心の広さに亜湖の友情の深さを改めて感じて、笑顔でうなずくと、わたしは旧校舎に走った。
昨日はやたらと怖かった旧校舎も、今の時間だと怖さは少しも感じない。
それよりも早く百井くんに会って話がしたいと、そのはやる気持ちばかりが、まったくひと気のない廊下を走るわたしの足を自然に早める。
やや息を切らしながら美術室の前に着くと、少しだけ戸が開いていた。
やっぱり、ここに来てたんだ……。
予想だったものが確信に変わり嬉しくなって、つい「百井くんみーっけ!」と大きな声とともに戸を開けてしまった自分が、小学生みたいで恥ずかしい。
「……ニナ」
「へへ、来ちゃった」
「アホが」
幸いにも、百井くんはいつものようにヘッドホンをしてはいなかった。
ただ、わたしの小学生っぽい登場の仕方に少し目を丸くし、そしてちょっぴり表情を緩める。
……うん。やっぱり、こっちの百井くんのほうがいいや。
教室にいるときのようなトゲトゲした雰囲気もないし、昨日のことは嘘じゃなかったんだと思える。
「今朝は無視してくれてありがとね」
なんだかおかしなお礼の言い方だなと思いつつも、美術室の中に入りながら言う。
百井くんは、購買のビニール袋を床に投げ、片手に焼きそばパン、もう片方の手に牛乳パックを持った格好で窓の枠に器用に座っていた。
腰掛けられるくらいに幅がある窓枠は、けれど長身の百井くんには少し尺が足りないようで、足が窮屈そうに鋭角の三角形を作っている。
「ああ、べつに」
「亜湖にも言われたの、クラスで浮くよって。百井くんもそれを心配してくれたんでしょ?」
「機嫌悪かっただけ」
「へへ。じゃあ、そういうことにしておく。でも、わたしはクラスのみんなのほうが間違ってると思う。百井くん、優しいもん」