初恋パレット。~キミとわたしの恋の色~

 
たっぷりの沈黙のあと、やがてそう言った百井くんは、いったいどんな気持ちでわたしの気持ちをその胸に留めたんだろう。

「うん」と言ったわたしの声は自分でも思いがけず少しだけ上ずってしまい、さっきまでの威勢はもうどこかへ飛んでいってしまったんだと思う。

それからまた、息もできなくなるくらいの深い沈黙。

わたしにはこれからクラスの男子に物申しに行く予定があるっていうのに、まるで根が張ったみたいに足が動かなくて、情けないことに、ここから一歩も動けなかった。


「……ニナ、時間がほしい」


そんな中、百井くんの声が鼓膜を震わせる。


「先輩のことも、クラスのことも、ニナが一生懸命考えてくれたように、オレも一生懸命考える。オレだって、このままでいいなんて思ってねーよ。なるべく急ぐけど、ちゃんと考えて答え出すから、それまで待ってほしい」


その声は、まだ戸惑いの中にあって、けれどこれから自分が向き合わなければいけないものをはっきりと見据えて心を決めたような、そんな力強い声で。

百井くんがそれぞれにどんな答えを出しても、わたしもちゃんと受け入れよう。

そう、自然と心が決まる。
 
 
「わかった。じゃあ、学祭の前夜祭のときに聞かせてくれる? これからクラスも本格的に動き出すし、コンクールも学祭の写真展もあるから、放課後は部活でしばらく顔を出せないと思うけど、さすがに学祭の前日なら準備も終わってるはずだから。それに、そのほうが百井くんもゆっくり考えられるでしょ」

「1か月も猶予もらっていいのか」

「いいよ。その代わり、半端な答えだったら許さない」


言うと、百井くんの口元がふっと緩む。


「……なんか、ニナの告白で目が覚めたわ」


それから、そう言って観念したように苦笑をこぼした彼に「それはよかった」とわたしも笑って、今度こそ踵を返して美術室をあとにする。

百井くんはきっと、期限なんて設けなくてもきちんと答えを出すだろう。

だって、わたしが撮った写真を見て自分の手を人を殴るためじゃなく絵を描くために使いたいと決めて。

それで本当に絵を描きはじめちゃうくらい、はっきりと自分の気持ちを行動に移せる人なんだから。

半端な答えなんて出せるはずもない。


「次は百井くんが頑張る番だよ」


キィキィと所どころ音が鳴る廊下を戻りながら、そうつぶやいてカメラを撫でる。
 
 
百井くんがどんな答えを出すにせよ、わたしには、このカメラがある。写真がある。

だから、きっと大丈夫。

好きになったことに後悔はないし、気持ちを伝えたことにも後悔はない。

気持ちを伝えられる相手がいるだけで、それは奇跡。

だから、どうか実結先輩も、後悔だけはしない恋を。


「……よし、写真撮りに行こ」


もう一度カメラをひと撫でして、ぐんと足を前に踏み出した体は、今なら空も飛べちゃうんじゃないかと思うくらい、とてもとても軽かった。










 
 
それから約1か月。

あのちっとも可愛げのない騒々しい告白をした日から、季節はあっという間に秋の色を濃くしていた。


ちょっと押し気味ではあるものの、学祭やコンクールの準備もおおむねスケジュールどおりに進んでいて、今はいよいよ明日に迫った2日間の学祭に向けての最後の追い込み中だ。

思いがけず写真部のほうが忙しくなってしまい、クラスのほうの準備には思ったように顔を出せずに申し訳ない毎日が続いていたけれど、そんなわたしのぶんをカバーしてくれていた亜湖の話によると、クラスでの百井くんは率先してみんなに話しかけたり手伝ったりと、とても頑張っている様子だということだ。


それはぜひわたしも生で見たかったけれど、部長の悠仁先輩の彼女である美遥先輩の発案で、急きょ、学校内の廊下の壁の至るところに自分たちの写真を展示することになった写真部は、その準備に追われてしまって……。

うちの写真館で選りすぐった写真を大きく引き伸ばしてみたり、額を調達したり。

なにせ部員が3人しかいないため、いくら時間があっても足りない状況だった。


でも、今までどおりの展示の仕方じゃ、たくさんの人に写真を見てもらえないのは、去年の経験で学習済みだ。

部長や副部長はもう2回もそれを経験しているので、見てほしいという思いはきっと、写真に本気になったのがついこの間のわたしなんかより、ずっとずっと強い。
 
 
その提案を聞いたとき、もちろんわたしもそうだったけれど、どうやったらもっと自分たちの写真を見てくれる人が増えるんだろうと頭を抱えている部長と副部長には、美遥先輩の提案は、まさに目からうろこだった。

『それだよ美遥!』と目を輝かせた悠仁先輩は、さっそく秋人先輩とともに学祭実行委員会や学校に掛け合い、学校中の壁を写真展示に使わせてもらえるよう、大急ぎでその許可を勝ち取った。

というわけで、クラスのほうの準備にはなかなか加われなかったのだけれど――。


「亜湖、教室が教室じゃないみたいになってる……」


学祭前日を迎え、今まではパーツごとだったものがいよいよ教室内に組み立てられていく様子は、まさに圧巻と言うしか言葉がなくて。

ひとり、亜湖の隣で呆然と縁日が出来上がっていく過程を眺めていたわたしは、そう、感嘆の声をもらした。


「そうでしょう、そうでしょう。このクラスの本気は、ほかのクラスとは一味も二味も違うのよ!」

「うん。ほんと、すごい……」


学祭準備の様子を記録するのもわたしの担当だから、時間を見つけてちょくちょく写真を撮ったり、手伝えるところは手伝ったりもしていたけれど、こんなに本格的な縁日が出来上がるなんて、ちょっと想像していなくて。

みんなが学祭に向けてひとつになっているところを、もっともっと写真に収めておけばよかったと、感動を覚えると同時に、後悔の気持ちが沸き上がる。
 
 
〝神社の境内で行われる縁日〟をモチーフとしているので、窓にも壁にも暗幕を垂らして夜の雰囲気を演出。

照明は、LEDライトをオレンジ色に塗って、そこに灯篭を模した逆台形の箱をすっぽりかぶせたもののみ。

壁際と窓際に3つずつ並んだミニ店舗は、やきそば、お好み焼き、焼きとうもろこし、かき氷屋さん、金魚は調達が難しいのでスーパーボールすくいに、クラスのみんなで持ち寄ったゲームソフトや小物、ぬいぐるみなどに、それぞれ一等から三等までランクをつけた、くじ引き。


普段は教卓がある位置には、手作り感満載の小さな小さな神社が置かれ、ちゃっかりお賽銭箱まで置いてある。

教室の外では、前後の出入り口にわたあめ屋さんとチョコバナナ屋さんが置かれ、よりたくさんの人に入ってもらえるよう、大人から子どもまで、ぱっと目を引く工夫と胃袋を刺激するあざとい戦略が凝らされていた。


BGMは、もちろんお囃子だ。

笛と太鼓の心がワクワクと浮き立つような音色が、いつの間にか誰かが持ってきたらしいパソコンのスピーカーから大音量で延々と流れている。


「わたしも、もっと手伝えばよかった……」
 
 
ここまで作り込むのにどれだけの時間がかかったんだろうと思うと、わたしはいったいなにをしていたんだろうという思いが募って、とても居たたまれない気分になる。

みんなだってそれぞれ部活での出し物もあるわけで、そっちにだって参加しなきゃいけないのに、わたしばかりが部活を優先させてちゃ、いいわけがない。

もっと上手に時間をやり繰りできたんじゃないか、もっとわたしも手伝えたんじゃないかという思いが、今さらになって心を重くする。


「なに言ってんの。仁菜だって、ちゃんと準備に加わってたよ。みんな、仁菜が写真撮りに来てくれると嬉しいって言ってたし、今までに撮った準備風景の写真、しっかり現像して持ってきてくれてるじゃん。それにみんな、最後にそれを暗幕や教室の外の壁に貼るのを楽しみにしてるんだから、仁菜がなにもしてないなんて誰も思ってないよ」

「……そう思う? 楽しみにしてくれてる?」

「もちろん。当たり前じゃん」

「……うん」


隣にいる亜湖が笑ってそっと背中に手を添えてくれて、単純にも、少しずつ心が軽くなっていく。

亜湖が言ったように、準備風景を収めた写真は、最後にみんなで貼ることになっている。
 
 
デジタルの一眼レフで撮った何百枚という写真を家の写真館のパソコンに取り込み、一枚一枚選別したり、写真の大きさを決めて現像したりするのは、それなりに大変だったし、根気のいる作業でもあった。

ひとりでの作業なので夜遅くまでかかることもあって、みんなの楽しそうだったり真剣だったり、ふざけたりしている顔を延々と眺めていると、わたしも準備に参加している気持ちになったけれど、ちょっと孤独だな、とか思ってしまったり……。

そういうの、亜湖はわかってくれていたんだな。

そう思うと、なんだか報われた心地がした。


「あ、仁菜ちゃん! 写真、できたの?」

「……ああ、うん」

「ありがとう! おーい、みんなー、仁菜ちゃんの写真できたよー! 手の空いてる人から貼ってってー!」


ちょうどわたしたちの前をとおりかかった委員長に写真の束を渡すと、あっという間にみんなが周りに集まり、委員長から手渡された数枚の写真を楽しそうに眺めながら教室のあちこちに散っていく。

「ちょっ、俺、ブサイクに写ってる!」とか「あたし、お客さんに見られるの恥ずかしい」なんていう声が方々から上がるものの、みんな、その顔はニコニコとほころんでいて、誰一人本気で不満を訴えてくる人はいない。
 
 
「みんな、すっごい楽しみにしてたんだよー。仁菜ちゃんにカメラを向けられるとやる気が出るみたいで、いつの間にかこんなに凝った縁日になっちゃったんだけど、みんな本当にいい顔してたんだよ。仁菜ちゃんが写真部でほんっとよかったわ。ぶっちゃけちゃうと、家も写真館だから代金も格安で予算の面でも助かっちゃったしね」


そう言って茶目っ気たっぷりにウィンクする委員長に、わたしもたまらず「あははっ」と声に出して笑う。

今のみんなの様子で、わたしもちゃんとクラスの一員として参加していたんだって実感できて嬉しい。

隣では亜湖が『ほーら、あたしの言ったとおりだったでしょ?』と言いたげな視線を送っていて、委員長が「じゃあ、あたしも貼ってくる!」と張り切ってわたしたちの前から離れていくと、亜湖とふたり、目を見合わせてクスクス笑い合った。


「それじゃあ、あたしたちも貼りますか!」

「うん!」


そうしてわたしたちは、嬉し恥ずかしの写真貼りという最後の仕上げに加わるため、すっかり縁日仕様に様変わりした教室の中に笑って駆け出していった。





けれど、前夜祭の真っ最中に、それは起こった。