わたしの手を強引に引くのは、わたしが想いを寄せている男の子。
誰かに見られでもしたらどう説明したらいいんだろうという危機感を孕みながらも、彼は力強くずんずん進む……。
見え方によっては、ヤンキーに連れ去られる哀れな女子に見えないこともないだろう。
でも今まさにわたしの心はときめきの真っ最中で、百井くんの広くて大きい背中以外には、なにも見えなくて。
ほかの誰になにをどう思われたって構わない、という大胆な気持ちさえ、芽生えはじめている。
〝わたし、百井くんが好きだよ〟――。
いつか、そう言いたくなる日が来るのかな。
恋に気づいた瞬間から断られると確定していても、今までの友だち関係を壊してでも、どうしても気持ちを伝えずにはいられなくなるような、そんな日が……。
外に出ると、校門へと伸びる年季の入ったアスファルトの窪みに大きな水溜まりができているのが目に入った。
しとしとと雨が降る中、百井くんに手を引かれたまま、それをふたりほぼ同時に飛び越える。
その瞬間、わたしの中で頑なに守ってきた境界線がぐにゃりと揺らいだような感覚がして。
その動揺から着地がうまく決まらず、それに気づいた百井くんに手を引いて体勢を立て直してもらう形になった。
「あっぶねーな。前見て走れよ」
「百井くんの足が速すぎるんでしょー」
「うるせー。短足」
「なによノッポ!」
またしてもいつものようにお世辞にも生産性があるとは言えない言い合いをしながら、今日は百井くんの背中に導かれるままに駅の方向へ足を走らせる。
ふたりとも、それぞれに自分の傘を差してはいても、走っているからあまり意味はなかった。
走っているうちに急に泣きたい気持ちになったわたしの思いを代弁するように、雨の滴がいくつも顔にかかっては横に流れていき、熱くなった目元にかかる。
百井くんがどうしてわたしを自分の家へ連れていこうとしているのか。
トラウマ話を聞いてからというもの、やけに生き生きとした顔をしているのか。
説明がないから、わかるわけもない。
でも、これは間違いなく一過性のものなのだろうということは、ある人の顔を思い浮かべれば、いやでもすぐにわかってしまうことだった。
だって、百井くんが好きなのは実結先輩だ。
今はテンションが上がりすぎてちょっとおかしくなっているだけで、明日にはきっと、百井くんはまた、何事もなかったようにキャンバスの下絵に向かうのだろう。
わたしには絶対に注がれることのない、愛しい人を見つめるような、あの眼差しで。
ただひたむきに、彼女を想いながら。
「……わたしはただの友だち、友だち……」
傘の中に反響する雨音が思いのほかうるさいことをいいことに、直接口に出してつぶやきながら、思わず揺らいでしまった境界線を何度も何度も引き直す。
当然、前を走る百井くんには聞こえるはずもなかったけれど、今はそれがとても救いだった。
ふたりでふたつの傘を差しているように。
手はつないでいるけど、これ以上、わたしたちの距離に縮まりようがないように。
それでいい、それがいいんだと、ぐっと唇を引き結んで何度となく自分に言い聞かせながら、駅までの道を百井くんの背中についてひたすらに走った。
それからしばらくして、百井くんとわたしは、住宅街の一角に店舗を構える美容室『Re・plum(レ・プラム)』の前に立つことになった。
外灯の明かりによって浮かび上がるのは、1階が店舗、2階が住宅になっている、こざっぱりとした印象の家--つまり百井くんの家だ。
2階にはまだ電気はついていない代わりに、半分ほどブラインドが下ろされ、【close】の看板がドアの前にかけられた店舗の中では、忙しく閉店後の片付けをしている女性の姿がある。
「あれ、母親」
「見ればわかる」
「なんで怒ってんの」
「……」
返事をしなかったのはべつに怒っているからではなく、ここに来るまでになにも教えてくれなかった百井くんにいい加減呆れたからだ。
加えて、泊まっていってもいいとまで言った百井くんの中では、わたしを〝女の子〟として認識する部分がひとつもないんだと再認識させられて、移動中に何度、泣きたくなってしまったことか。
本当になにが悲しくて家にお呼ばれしなきゃならんのだ。
踏んだり蹴ったりだよ、ほんと……。
「親もニナのこと知ってる。行くぞ」
なんでこんなことになったんだろう、と何度となく自問した問いにため息でふたをする。
すると、そう言った百井くんが、こちらの心の準備もままならないうちに店のドアを引いた。
どうしてお母さんまで知っているの?と半分口が開きかけたけれど、本人に直接聞いたほうが絶対に早いと思い直したわたしは、彼が開けて待っていてくれるドアから体を滑り込ませ、ほのかに桃の香りが漂う店内へと、おずおずと足を踏み入れる。
ついにご対面だよ。
無駄に緊張しちゃうよ、ほんとにもう……。
「ただいま」
「おかえりー。って、あらやだ、可愛い彼女さん!」
「……もっ、百ノ瀬仁菜と申しますっ、夜分遅くに押しかけてしまってすみませんっ」
わたしの姿を目にした瞬間、表情をぱっと明るくさせて満面の笑みを作ったお母さんにぺこぺこと頭を下げる。
百井くんのお母さんは、歳の頃、わたしの母と同じ40代中盤だろうか。
スラリと背が高い人で、一見すると百井くんと同様、シャープな印象を覚えるけれど、笑ったときに目がなくなるほどに細くなるそのギャップが、とても可愛らしい。
うちの母は、丸顔でおっとり、身長も体型も普通の、そこらへんにいるただのおばさんだ。
対する百井くんのお母さんは、美容師という仕事柄もあるのだろう、髪型からメイクから服の着こなしから、どれを取ってもハイセンスで、ミセス雑誌の表紙を飾ってもおかしくないくらい、お美しかった。
と、そこで、ある重要なことを思い出したわたしは、再び彼のお母さんへ向かって腰を折る。
「……あの、わたし、彼女とか、そういうんじゃなくて。紛らわしくてすみません、言い忘れちゃって……」
「あら、そうなの?」
屈託なく向けられた質問に、顔を上げて小さくうなずく。
友だちです、とか、クラスメイトです、と説明したほうが自然なんだろうけど、それはどうしても躊躇われて。
百井くんの口から直接それらの言葉が聞こえたなら、潔く友だちとして振る舞おうとは思う。
だけど、自分で言うのはやっぱり抵抗があって、なんとも曖昧な自己紹介になってしまった。
「それよりこの子、誰だと思う」
すると、世間話の時間すら惜しいという感じで百井くんが会話に割り込んできた。
その質問はお母さんに向けられたものだったのだけど、いかんせん言葉足らずな百井くんのこと。
わたしは心で、さっき自己紹介しましたけれども!?と激しいツッコミを入れざるを得ない。
けれどそこは、さすがは産みの親。
「もしかして……夏樹のヒーロー?」
「あたり」
質問を理解した上で、あっさりと正解までしてしまい、わたしは〝血〟というものは濃いものなのだなぁ……と妙に感慨深く納得した。
……ていうか、ヒーローってなんですか?
「今夜はご馳走にしてくれ」
「よーし腕を振るっちゃうわよー」
と、勝手に盛り上がりはじめた親子を視界の端に捉えつつ、いよいよわたしは〝女子〟というカテゴリーにすらはまらなくなってしまいつつある自分に激しく動揺しはじめる。
そりゃ、言葉遣いも普段の生活態度も、女の子然としたものとは遠いかもしれない。
だけど、わたしだって一応、それなりに女の子な部分は持ち合わせているつもりでいる。
人並みに身だしなみには気をつけているし、ハンカチ、ポケティ、絆創膏も常備していて、なにかのときにスッと出せるくらいには女子力はあるはず。
少女漫画みたいなとびっきり甘い恋に憧れているし、見た目はちょっとアレだけど料理だって不味くはない。
それなのにヒーローって、なんで……?
「ニナ、見せたいモンがある」
自分の胸の、百井くん談だと意外とグラマラスらしい膨らみに手を当て、わたし女の子だよね?と確認していると、その百井くんから声がかかった。
どうやら晩ご飯のメニューの相談が終わったらしく、こちらへ向けて手招きしながら、そこから家のほうへ入れるのだろう、暖簾をかき分けてわたしを待っていた。
そこでふと、そういえば、ここに連れてこられた理由をお母さんに聞きそびれていたっけなと思い出す。
けれど、百井くんが言う〝見せたいモン〟を見れば謎もすべて解けるだろうと再び思い直したわたしは、よしと覚悟を決めて暖簾をくぐることにした。
乗りかかったなんとやら。
しっかり見せてもらって、百井くんからちゃんと理由を聞いて、なぜわたしがヒーローであるかということも含めてばっちり教えてもらおう。
そして、ご飯をご馳走になったら即帰ろう。
それから間もなくして、百井くんに「ここ」と言われて通されたのは、2階に上がってすぐの部屋だった。
わかりやすくネームプレートがかかっているわけではなかったけれど、自分のお客さんを通すなら普通は自分の部屋というわけで、もれなくわたしは意中の人の部屋に棚ボタ式に通されてしまった。
「座って待って」
「う、うん」
すでに押入れの中をかき分けはじめていた百井くんに促されるままに、緊張しつつ座れる場所を探す。
けれど百井くんの部屋は、男の子にしては片付いている印象を受けるものの、男の子らしく腰を下ろせるものは勉強机の椅子かベッドかの二択だった。
要は、部屋に座布団やクッション、座椅子みたいな気の利いたものがない、ということで。
床はフローリングだから座るとちょっと痛そうだし、さすがにベッドはどうなんだろうと無駄に悩んだ末、無難な勉強机の椅子に座らせてもらうことにし、百井くんの探し物を待つことにした。
待つ間、少し勉強机の上を眺める。
教科書やノート、週刊漫画雑誌などがごっちゃになって散乱しているのがいかにも男の子らしくて、ちょっと胸がキュンとなる。
そこに埋もれるようにしてCDアルバムが何枚か重なっているのも、ついでに発見。