私は、昔々、ごく普通の家庭で生まれ育ちました。普通、というのは、テレビの機械を通してしか美味を知らず、日々、その機械が提供する人工的な味覚に添加された、これまた人工的な栄養を摂取して育ち、料理などとっくに廃れていた家庭で、ということです。当時は、今よりもっと料理がなされず、誰も21世紀までに生み出された、ほんもののおいしい料理やお菓子の味を忘却し、知らずに人生を過ごしていたのです。そんな人生は、私にとっては、干からびているも同然です。そう、そして我々料理人やパティシエにとって、最高の褒め言葉、「おいしかった」「ごちそうさま」といった言葉も、死語になっていました。
私は、こんな名前ですから、当然武術にたけていたとお思いでしょうが、実は、非常に内向的な、読書と散歩が趣味の少年時代を過ごしました。少しだけテニスをやりましたが、それも読書の間の気晴らしに過ぎませんでした。
私は、ある日、自宅近くの遊歩道を散歩していると、いつのまにか知らない森に迷い込んでしまいました。その当時は、まだ区画整理もあまり進んでいなくて、あちこちに整備前の森や林が残っていたものです。
そして、歩いて行くと、とてもいい香りが漂ってくるのに気付きました。それは、いつもテレビで堪能しているような人工的なにおいではなく、濃厚で、素材そのものの良さをシンプルな調理で生かした時に出る、あの香りでした。しかし当時の私はそんなこととは気づかず、ただ、このいい香りをたどっていけば、誰かに会えて、家へ帰れる道を教えてもらえるだろう、としか思っていなかったのですが。
香りは、ある小さな家といいますか、廃材などを利用して作ったと思われる、小屋から漂ってきました。その小屋には窓もなくて、調理をしているキッチンから、直に香りが漂ってくるのです。僕は、いつのまにかお腹がすいていることに気づきました。当時の人間が失いかけていた空腹という本能を呼び覚まされ、余計に戸惑いながら、僕はドアともいえぬ廃材の塊をノックしました。
「こんにちは。どちらさま?」
廃材の塊は、自動的にすっと開きました。どうやら、少しのテクノロジーがほどこされていたようです。声の主は、可憐な少女でした。淡い栗色の長い髪を、まとめてピンク色のリボンで束ね、黒々とした瞳は、艶めいて輝き、僕は胸が高鳴りました。そう、今なら言えますが、僕はこの少女に恋をしたのです。そして、読書少年らしく、森に住む妖精に恋をしたような、不思議な気持ちになり、童話の世界に迷い込んだような気分にすらなりました。
「あ、僕は藤見武道と言って、ここを散歩していたのですが、道に迷ってしまって……」
少女は、私の話を聞いているのかいないのか、ちょっと考え込んだ後、にっこり笑って言いました。
「ブドー!!グレープね」
「いや、違います。僕の名前は武道で、果物の名前では……」
「いいの、いいの、私にとっては、あなたはブドー、最高の素材の名前よ。ちょうど、葡萄のジャムを煮込んでいるの。よろしければ、お味見いかが?」
少女は、強引に、私をキッチンに連れていきました。キッチンは、とても美しかった。廃材の中でも白木に近いものを選び、清潔感のあるキッチンになっていました。コンロはガスコンロ、その上に銅鍋が一つ乗って、くつくつとジャムが煮込まれていました。そして、あたたかい果物が発するあの濃厚な甘みを秘めた香りが漂っていました。コンロの近くには、旧式のオーブンまでありました。それは、キッチンがただの家の飾りになっていて、実際に調理するところを見たことがなかった私には、とても珍しいものでした。
少女は、銅鍋からレードルで中身をすくい、小皿に美しく盛ってから、木のスプーンを添えて私に手渡しました。少しくずれかけた葡萄の果肉が、食欲をそそりました。これが、食欲か。学校の勉強では知っていたけれど、実際に体感したことのなかった本能を、私はひしひしと感じていました。スプーンで一すくいして、口に入れる。自然素材の木製スプーンは、金属製より舌にやさしく、出来立てのジャムは、今まで味わったことのない、ほんものしか持たない、添加甘味料に頼らない、素朴で自然の甘みを感じました。同時に、これを何とあわせたらよりおいしいだろうか、という連想が浮かびました。少女のジャムには、そんな未知のパワーがあったのです。
「とてもおいしいです」
「ありがとう。それから、他には?」
「えっと……」
「やっぱり知らないの?『ごちそうさま』って言葉」
少女は悲しそうに言いました。僕は、歴史の授業でしかその言葉を知りませんでした。
「いいのよ。これをきっかけに覚えてね。料理人にとっては、最高の褒め言葉なのよ」
「わかりました」
「よし、結構結構!!ブドー、私はロジーネ。仲良くなれそうだわ。これからも遊びに来てくれる?」
「もちろんです」
「では、帰り道を教えてしんぜよう」
ロジーネは、いたずらっぽく笑いました。私の初恋は、おいしいおやつと一緒に、心の中で、ゆっくりと煮込まれていきました。
私は、もちろんこの小屋に通い続けました。その時は夏休みで、ちょうどよかったのです。そして、少女ロジーネは、僕に料理とお菓子作りの手ほどきをしてくれました。私は、あっという間にお菓子作りのとりこになりました。ちょっとした軽量の誤差が失敗につながり、味も変わるという、繊細な作業に、果物を使ったお菓子作りでは季節感を堪能でき、旬というものを初めて知りました。そして、出来上がりを待つ、高揚した気分に、何よりの楽しみである試食の時間。私のパティシエとしての心構えは、すべてこの時期に形作られました。
ロジーネは、果物のお菓子を好みました。そして、その夏はよく葡萄のお菓子を作ってくれました。白ワインと葡萄のふるふるゼリー、マスカットと洋ナシのシャルロット、葡萄のコンフィチュール、葡萄のコンポート……。私の店「ブドウ屋」の看板おやつは、もとはロジーネのオリジナルレシピを私流にアレンジしたものなのです。
ロジーネ。彼女は、私が葡萄を煮込んでいる間、ひょいと突然鍋を覗き込むのですが、その時に、彼女の白い首筋がちらりと見えて、私はどきどきしました。暑い上に火を使う作業をしているのに、彼女は汗一つ流さず、平気な顔でまた後ろに戻っていきました。そして、自信があるのか味見はしません。私がいつも試食して、「おいしい」「ごちそうさま」を言うと、彼女はうれしそうにまぶしい笑顔を見せるのでした。
私は、そんなロジーネが本当に好きだった……。お菓子よりも甘い恋心を抱いて作ったおやつたちは、一口食べ進めるたびに、少年らしいさわやかな想いが秘められているような気がして、少々気恥ずかしく、ロジーネが味見をしないことに感謝していました。
そして、別れは突然やってきました。おいしい焼き菓子が、思ってもみなかった焼きあがりになり、破裂して思わぬ割れ目ができるように。
その日は、夏休み最後の日でした。自由にやってくることができなくなるので、せめて日曜日には会おうと約束したところ、彼女はとっておきのレシピでおやつを作ってくれました。それは、彼女が丁寧に漬け込んだレーズンと、旧式のオーブンでローストしたくるみを使った、パウンドケーキでした。
生地は出来上がり、型に流し込んで、生地切りし、ぽんと何度かキッチン台に軽く型を落として、空気を抜いてから、ロジーネは予熱したオーブンに型を入れ、時間をセットしました。焼き上がりは、およそ40分後。私たちは、その間に、いつものように「反省会」という名のお茶の時間のために、ロジーネが用意したこだわりの紅茶を淹れようとしました。
その時、一人の男が廃材小屋に入ってきました。乱暴にドアを押し開けて。はっとしたロジーネの顔に、恐怖の表情が浮かびました。私はとっさにロジーネをかばおうと、夢中で彼女を抱きしめようとしました。
彼女は、私の腕からするりと抜けおちたように、その肉体の感触はありませんでした。僕は、もう一度抱きしめようとしました。だが、できなかった。
男は、下卑た笑い方で、鼻を鳴らしました。ああ、今も忘れられないあの言葉。
「残念だったね、少年。ロジーネは、捕まえておくことはできないよ。好きなのかい?しかしこの子には魂なんてない。人形なんだよ。ははは」
ロジーネは、うつむきました。いつも明るかった彼女が、震えているように見えました。
「どういうことだ」
「こういうことさ」
男は、リモコンのような小さな機械を私たちの方に差し向けました。ロジーネは、叫びました。
「やめて、やめて!!まだ、消えたくない!!」
「ロジーネ、どういうこと」
「ブドー、私……。ホログラムなの。旧式のね」
ロジーネは、かすれた声でつぶやきました。男は、機械をもてあそびながら、面白そうに言いました。
「そう、この子はホログラム。しかも、コンピューターバグで生まれたんだが、意外と知恵があって、うちのテレビ局から脱走したんだ。旧式だから、よけいに人工知能やら、人工感情やらを植え付けていたらしい。まあ、アイドルパティシエールになるはずだった失敗作さ。今度、制作するときは、この経験を生かして、よけいな知能や感情もどきをつけないバージョンに仕立て上げなきゃな。さあ、ロジーネ。お前の代わりはまた作ってあげるよ。今度は人間様のいうことをよく聞く、最高のホログラムをな。だから、安心して消えな」
「待って……あと少しだけ」
ロジーネは、泣いていた。そう、見えたのかもしれないけれど、確かに彼女は泣いていた。
「ブドー。あなたに、このケーキのレシピを託すわ。あなたには、パティシエになれる腕が十分にある。だから、私のことを覚えていてくれるなら、ぜひお菓子屋さんを開いて。そして、ほんもののおいしいお菓子を、人間たちに知ってもらって。それが、私の望みよ。ロジーネは、また生み出されるかもしれないけれど、あなたといたロジーネは、私だけ。だから、私はとても幸せ。ありがとう、ブドー。私、あなたが大好き」
「ロジーネ!!僕も、君が好きだ」
私は、必死にホログラムのロジーネを抱きしめた。ぬくもりが伝わらなくても、確かに、私たちの気持ちは、そこに在ったし、つながっていたと思います。
ロジーネは、微笑んで言いました。
「私の名前は、果物の名前なのよ。ブドー、あなたと似た名前。ドイツ語っていう言葉での、「レーズン」。それが、私の名前よ。私は、あなたと名前でつながっているわ。いつまでも。そして、このケーキも私たちをつなぐおやつよ」
チンと焼き上がりを知らせるタイマーが鳴ったあと、ロジーネはオーブンを開け、焼き立てのパウンドケーキを取り出し、スライスした一切れを、口に入れようとしました。でも、彼女はホログラム。お菓子作りができるようにプログラムされていても、実際に食べることなんてできない。口からこぼれおちたケーキ。それを拾い上げてから、彼女は泣いているような、けれど確かに幸せそうな微笑をうかべて、そっと言いました。
「あなたのおやつ、おいしかったわ。ごちそうさま」
そう言った瞬間、彼女の姿は消えました。男が、あくびをしながら、リモコンを扱って彼女を消したのです。
「案件処理、完了、と。局に報告しなきゃな」
男が去った後、私はロジーネが取り落したパウンドケーキを口に入れました。それは、確かに初めてのキスの味がした。そして、悲しい恋の結末を感じる涙の味も。
それから、私は、あの廃材小屋でパティシエとしての腕を磨き続け、近くでパティスリーを開きました。あのロジーネから託されたパウンドケーキは、私流にアレンジして小ぶりなマドレーヌのように作り直し、「愛のケーキ」と名前を付けました。それから先のことは、あなたもご存知です。
私は、こんな名前ですから、当然武術にたけていたとお思いでしょうが、実は、非常に内向的な、読書と散歩が趣味の少年時代を過ごしました。少しだけテニスをやりましたが、それも読書の間の気晴らしに過ぎませんでした。
私は、ある日、自宅近くの遊歩道を散歩していると、いつのまにか知らない森に迷い込んでしまいました。その当時は、まだ区画整理もあまり進んでいなくて、あちこちに整備前の森や林が残っていたものです。
そして、歩いて行くと、とてもいい香りが漂ってくるのに気付きました。それは、いつもテレビで堪能しているような人工的なにおいではなく、濃厚で、素材そのものの良さをシンプルな調理で生かした時に出る、あの香りでした。しかし当時の私はそんなこととは気づかず、ただ、このいい香りをたどっていけば、誰かに会えて、家へ帰れる道を教えてもらえるだろう、としか思っていなかったのですが。
香りは、ある小さな家といいますか、廃材などを利用して作ったと思われる、小屋から漂ってきました。その小屋には窓もなくて、調理をしているキッチンから、直に香りが漂ってくるのです。僕は、いつのまにかお腹がすいていることに気づきました。当時の人間が失いかけていた空腹という本能を呼び覚まされ、余計に戸惑いながら、僕はドアともいえぬ廃材の塊をノックしました。
「こんにちは。どちらさま?」
廃材の塊は、自動的にすっと開きました。どうやら、少しのテクノロジーがほどこされていたようです。声の主は、可憐な少女でした。淡い栗色の長い髪を、まとめてピンク色のリボンで束ね、黒々とした瞳は、艶めいて輝き、僕は胸が高鳴りました。そう、今なら言えますが、僕はこの少女に恋をしたのです。そして、読書少年らしく、森に住む妖精に恋をしたような、不思議な気持ちになり、童話の世界に迷い込んだような気分にすらなりました。
「あ、僕は藤見武道と言って、ここを散歩していたのですが、道に迷ってしまって……」
少女は、私の話を聞いているのかいないのか、ちょっと考え込んだ後、にっこり笑って言いました。
「ブドー!!グレープね」
「いや、違います。僕の名前は武道で、果物の名前では……」
「いいの、いいの、私にとっては、あなたはブドー、最高の素材の名前よ。ちょうど、葡萄のジャムを煮込んでいるの。よろしければ、お味見いかが?」
少女は、強引に、私をキッチンに連れていきました。キッチンは、とても美しかった。廃材の中でも白木に近いものを選び、清潔感のあるキッチンになっていました。コンロはガスコンロ、その上に銅鍋が一つ乗って、くつくつとジャムが煮込まれていました。そして、あたたかい果物が発するあの濃厚な甘みを秘めた香りが漂っていました。コンロの近くには、旧式のオーブンまでありました。それは、キッチンがただの家の飾りになっていて、実際に調理するところを見たことがなかった私には、とても珍しいものでした。
少女は、銅鍋からレードルで中身をすくい、小皿に美しく盛ってから、木のスプーンを添えて私に手渡しました。少しくずれかけた葡萄の果肉が、食欲をそそりました。これが、食欲か。学校の勉強では知っていたけれど、実際に体感したことのなかった本能を、私はひしひしと感じていました。スプーンで一すくいして、口に入れる。自然素材の木製スプーンは、金属製より舌にやさしく、出来立てのジャムは、今まで味わったことのない、ほんものしか持たない、添加甘味料に頼らない、素朴で自然の甘みを感じました。同時に、これを何とあわせたらよりおいしいだろうか、という連想が浮かびました。少女のジャムには、そんな未知のパワーがあったのです。
「とてもおいしいです」
「ありがとう。それから、他には?」
「えっと……」
「やっぱり知らないの?『ごちそうさま』って言葉」
少女は悲しそうに言いました。僕は、歴史の授業でしかその言葉を知りませんでした。
「いいのよ。これをきっかけに覚えてね。料理人にとっては、最高の褒め言葉なのよ」
「わかりました」
「よし、結構結構!!ブドー、私はロジーネ。仲良くなれそうだわ。これからも遊びに来てくれる?」
「もちろんです」
「では、帰り道を教えてしんぜよう」
ロジーネは、いたずらっぽく笑いました。私の初恋は、おいしいおやつと一緒に、心の中で、ゆっくりと煮込まれていきました。
私は、もちろんこの小屋に通い続けました。その時は夏休みで、ちょうどよかったのです。そして、少女ロジーネは、僕に料理とお菓子作りの手ほどきをしてくれました。私は、あっという間にお菓子作りのとりこになりました。ちょっとした軽量の誤差が失敗につながり、味も変わるという、繊細な作業に、果物を使ったお菓子作りでは季節感を堪能でき、旬というものを初めて知りました。そして、出来上がりを待つ、高揚した気分に、何よりの楽しみである試食の時間。私のパティシエとしての心構えは、すべてこの時期に形作られました。
ロジーネは、果物のお菓子を好みました。そして、その夏はよく葡萄のお菓子を作ってくれました。白ワインと葡萄のふるふるゼリー、マスカットと洋ナシのシャルロット、葡萄のコンフィチュール、葡萄のコンポート……。私の店「ブドウ屋」の看板おやつは、もとはロジーネのオリジナルレシピを私流にアレンジしたものなのです。
ロジーネ。彼女は、私が葡萄を煮込んでいる間、ひょいと突然鍋を覗き込むのですが、その時に、彼女の白い首筋がちらりと見えて、私はどきどきしました。暑い上に火を使う作業をしているのに、彼女は汗一つ流さず、平気な顔でまた後ろに戻っていきました。そして、自信があるのか味見はしません。私がいつも試食して、「おいしい」「ごちそうさま」を言うと、彼女はうれしそうにまぶしい笑顔を見せるのでした。
私は、そんなロジーネが本当に好きだった……。お菓子よりも甘い恋心を抱いて作ったおやつたちは、一口食べ進めるたびに、少年らしいさわやかな想いが秘められているような気がして、少々気恥ずかしく、ロジーネが味見をしないことに感謝していました。
そして、別れは突然やってきました。おいしい焼き菓子が、思ってもみなかった焼きあがりになり、破裂して思わぬ割れ目ができるように。
その日は、夏休み最後の日でした。自由にやってくることができなくなるので、せめて日曜日には会おうと約束したところ、彼女はとっておきのレシピでおやつを作ってくれました。それは、彼女が丁寧に漬け込んだレーズンと、旧式のオーブンでローストしたくるみを使った、パウンドケーキでした。
生地は出来上がり、型に流し込んで、生地切りし、ぽんと何度かキッチン台に軽く型を落として、空気を抜いてから、ロジーネは予熱したオーブンに型を入れ、時間をセットしました。焼き上がりは、およそ40分後。私たちは、その間に、いつものように「反省会」という名のお茶の時間のために、ロジーネが用意したこだわりの紅茶を淹れようとしました。
その時、一人の男が廃材小屋に入ってきました。乱暴にドアを押し開けて。はっとしたロジーネの顔に、恐怖の表情が浮かびました。私はとっさにロジーネをかばおうと、夢中で彼女を抱きしめようとしました。
彼女は、私の腕からするりと抜けおちたように、その肉体の感触はありませんでした。僕は、もう一度抱きしめようとしました。だが、できなかった。
男は、下卑た笑い方で、鼻を鳴らしました。ああ、今も忘れられないあの言葉。
「残念だったね、少年。ロジーネは、捕まえておくことはできないよ。好きなのかい?しかしこの子には魂なんてない。人形なんだよ。ははは」
ロジーネは、うつむきました。いつも明るかった彼女が、震えているように見えました。
「どういうことだ」
「こういうことさ」
男は、リモコンのような小さな機械を私たちの方に差し向けました。ロジーネは、叫びました。
「やめて、やめて!!まだ、消えたくない!!」
「ロジーネ、どういうこと」
「ブドー、私……。ホログラムなの。旧式のね」
ロジーネは、かすれた声でつぶやきました。男は、機械をもてあそびながら、面白そうに言いました。
「そう、この子はホログラム。しかも、コンピューターバグで生まれたんだが、意外と知恵があって、うちのテレビ局から脱走したんだ。旧式だから、よけいに人工知能やら、人工感情やらを植え付けていたらしい。まあ、アイドルパティシエールになるはずだった失敗作さ。今度、制作するときは、この経験を生かして、よけいな知能や感情もどきをつけないバージョンに仕立て上げなきゃな。さあ、ロジーネ。お前の代わりはまた作ってあげるよ。今度は人間様のいうことをよく聞く、最高のホログラムをな。だから、安心して消えな」
「待って……あと少しだけ」
ロジーネは、泣いていた。そう、見えたのかもしれないけれど、確かに彼女は泣いていた。
「ブドー。あなたに、このケーキのレシピを託すわ。あなたには、パティシエになれる腕が十分にある。だから、私のことを覚えていてくれるなら、ぜひお菓子屋さんを開いて。そして、ほんもののおいしいお菓子を、人間たちに知ってもらって。それが、私の望みよ。ロジーネは、また生み出されるかもしれないけれど、あなたといたロジーネは、私だけ。だから、私はとても幸せ。ありがとう、ブドー。私、あなたが大好き」
「ロジーネ!!僕も、君が好きだ」
私は、必死にホログラムのロジーネを抱きしめた。ぬくもりが伝わらなくても、確かに、私たちの気持ちは、そこに在ったし、つながっていたと思います。
ロジーネは、微笑んで言いました。
「私の名前は、果物の名前なのよ。ブドー、あなたと似た名前。ドイツ語っていう言葉での、「レーズン」。それが、私の名前よ。私は、あなたと名前でつながっているわ。いつまでも。そして、このケーキも私たちをつなぐおやつよ」
チンと焼き上がりを知らせるタイマーが鳴ったあと、ロジーネはオーブンを開け、焼き立てのパウンドケーキを取り出し、スライスした一切れを、口に入れようとしました。でも、彼女はホログラム。お菓子作りができるようにプログラムされていても、実際に食べることなんてできない。口からこぼれおちたケーキ。それを拾い上げてから、彼女は泣いているような、けれど確かに幸せそうな微笑をうかべて、そっと言いました。
「あなたのおやつ、おいしかったわ。ごちそうさま」
そう言った瞬間、彼女の姿は消えました。男が、あくびをしながら、リモコンを扱って彼女を消したのです。
「案件処理、完了、と。局に報告しなきゃな」
男が去った後、私はロジーネが取り落したパウンドケーキを口に入れました。それは、確かに初めてのキスの味がした。そして、悲しい恋の結末を感じる涙の味も。
それから、私は、あの廃材小屋でパティシエとしての腕を磨き続け、近くでパティスリーを開きました。あのロジーネから託されたパウンドケーキは、私流にアレンジして小ぶりなマドレーヌのように作り直し、「愛のケーキ」と名前を付けました。それから先のことは、あなたもご存知です。