中から出てきたのは、とてもよい香りのする焼き菓子だった。人工的でない、ほんものの、人が作ったお菓子の香りは心地よい。僕はその香ばしいバターの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。お菓子は、形が変わっていて、つまみやすい、マドレーヌのような形に焼き上げられている。しかし、中にくるみやレーズンが入っているところを見ると、やはりパウンドケーキに近いと思われる。実は、これは彼の一番のヒット作で、彼を一躍有名にした伝説のお菓子、「愛のケーキ」なのだ。

「愛のケーキ、ですね」

「そうです」

僕は、その「ケーキ」を前歯で優しくかじり、舌の上に乗せた。芳醇なバターの香りに、かりかりになるまでローストされたくるみ、質のよい小麦粉に、深さを添えるアーモンドプードル。どれもがシンプルで、厳選素材で作られたお菓子だが、いちばんの目玉は、レーズンだ。秘蔵のレシピで、丁寧にラム酒に漬け込まれたそのレーズンは、「ケーキ」に大人っぽさを加え、なによりケーキの生地に溶け込んで、なじみ、よりおいしくなる。このレーズンが入った「愛のケーキ」は、「ブドウ屋」のオリジナルスイーツとして、そしてその名前から、バレンタインに最適として、この街では知らぬものがない。ロジーネのように。

僕は、そんなことを思い出しながら、少しずつ「ケーキ」を味わっていたが、やがて自分のほおに一筋の涙をこぼしているのがわかった。あわててハンカチを探すが、こんな時に見つからない。まごまごしていると、藤見さんがハンカチを差し出してくれた。

「ありがとうございます。どうしたんだろう、僕。なんだか、悲しい。せっかくおいしいお菓子をいただいているのに、失礼しました」

「いいえ」

藤見さんは、悲しげだが、さわやかな笑みを浮かべた。

「あなたは正しい。そしてほんものが分かる方です。今日私が作った『愛のケーキ』は、涙の味をしみこませました。どうしても、ロジーネに思い出してほしいことがありますから。私は、この局に出入りするうちに、ロジーネが今日引退することを知った。だから、『愛のケーキ』を特別な味わいで作ったのです」

「でも、ロジーネは、味わうことは……」

僕は、残酷だと思ったが、彼を傷つけないように、そっと言い始めたが、藤見さんはちょっと頭を振って僕を制した。

「わかっています。……あなたになら、お話したい。聞いていただけませんか、私とロジーネの過去を。遠い、昔話を」

「喜んで」

僕は、ソファから身を乗り出した。藤見さんは、軽く頭を上げて、空を見つめ、遠い彼方に去った記憶を手繰り寄せようとしたが、やがて深みのあるやさしい声で話を始めた。