「美沙ちゃん、ありがとね。こんな見ず知らずの私のために、泣いてくれるなんて」


彼女は、泣かない。


泣かないんじゃない。


もう泣けないんだ。


先に泣いたんだ。


「だから、お願いなの」


彼女の綺麗なソプラノ声は、波のように揺れている。



「志貴くんから、私への想いを取り除いて」



彼女は、彼が大好きだった。


だから、こんな悲しいお願いをあたしにした。


そんな簡単に、取り除けるわけがない。


時間が解決してくれることだってある。


なのに、彼女はあたしに頼んだ。


「なんで、あたしなんですか…?」


「だって、私はここからもう出られないから。だから、ここにいた美沙ちゃんを選んだの」


彼女の視線の先にあるのは、『橋本病院』と大きく書かれた看板を掲げる建物。


「…っ、でも!」


なんで、よりによってあたしなの…っ!


病院の前の桜の並木。


あと少ししたら、桜が満開になって、ピンクに覆われる。



「お願い美沙ちゃん。もうあなたしか、頼める人がいないの」



彼女の睫毛は濡れていて。


記憶の中の瑠菜の姿と重なって。


あのときの自分は、手を伸ばしても自分の妹に手が届かなくて、泣いて喚いて泣き叫んで。


それでも、母はそんな実の娘の姿に狂ったような笑みを浮かべていた。


今は?


手が届くじゃん。


ゆっくり腕をあげて、彼女の頬に手を伸ばす。


ほら。


「さくらさん、泣かないでください」


手が届くじゃん。


濡れた彼女の頬は冷たかった。