それから、各院には複数の医術師の常駐を開院の条件とし、必要に応じて人手を派遣した。そして、実績を積んだものに、準師範という役割を与えるという項を、医療制度の法に書き加えた。
これはつまり、王都まで出向くことのできない医術師志望者が、一定年数(七年)以上準師範に師事し、国にその証明とともに申請を出すことで、医薬学舎に在籍していた者と同じように免状取得の機会を得ることができるようになった、ということだ。
この法令が敷かれると、凰院出身者の受験者が初めて現れた施行の七年後から、早速効果を発揮した。試験の水準を上げたにも関わらず、免許を取得する者は暫くの間増え続けた。
凰院だけでなく山奥や僻地に赴く医術師も増えて、〈学ぶ〉ことが民にあまねく広がるという成果まであがった。治安の維持にも一役買っているのだ。

耀州按県茶穎の地にある、この茶穎鷺凰院は、四人の医師・薬師が運営している。昼間ここで過ごす童子は二十数人。近隣の村の規模に即した人数だ。美しい水田に白鷺が舞い降りる景色にかけ、親しみを込め鷺凰院と呼ばれている。
茶穎の治安は良く、気候も穏やかなため、街から離れているにしては暮らしやすい場所である。それでも、流行り病で両親を一度に失ったり、一人で生活していくには幼すぎる年齢で親が出奔してしまう、といったことで孤児となる子供は、どこにおいても一定数いるものだ。茶穎の村もその例にもれず、童子のうち七人が孤児である。
家の手伝いを終えた午後や農閑期には、医術師や、時折訪れる流浪者の話を聴きに、大人も子供も院にやってくる。凰院は、義塾のような面までも持つことがあり、子供に読み書き道徳を教える寺院と並んで、学びの場としての意味を強く持っていた。