『なんで?旅行は?』
まどかは僕の問いを無視して家に入って来た。
僕はまどかの腕をひいた。
「離してっ!」
振り解かれた手が虚しく感じた。
きっとまどかは見たんだ。
そう思った。
これはチャンスなのかピンチなのか…。
「友達が具合悪くなったから切り上げて帰ってきたの。」
手話をせず、まどかは早口で話した。
『そっか…友達は大丈夫?』
なんてバカな質問だろう。
場違いにも程がある。
「そんなこと関係ないよね!?」
急に向き直り真っ直ぐに僕の目を見て、まどかは言った。
あぁやっぱり見ていたんだ。
『そうだね…。』
わかってても自分から見てましたか?なんて言えなかった。
「どうゆうことか説明してくれないの?」
なにを?と聞いてしまえば、きっと火に油を注ぐもんだろう。
僕はここで一番正しい言葉は何なのか考えたけれど答えが見つからない。
「なんで何も言ってくれないの?あの子…歩ちゃんだよね?なんであの子が階段から下りて来るの?」
ん?待てよ…今階段って言ったよな…じゃどこから見てた?
勢いで言ってしまえばいいのか、それとももう少し探りながら話したほうがいいのか迷う。
僕は今もう歩が好きでたまらない。
かといって、まどかを嫌いになったわけじゃない。
それに歩からいつ連絡があるかわからないし、関係が進むかどうかもわからない。
だからってまどかと、このまま付き合って行くことは人として最低だろう。
「ねぇなんとか言ってよ…。」
『家には入ってないよ…』
「じゃなんでここにいるの?」
『彼氏のことで相談したかったんだって。』
咄嗟に出た答えは自分でも上出来だと思った。
「彼氏のことで?」
『あぁ年上の人らしくって、まどかに相談したかったらしいよ…相談できる人が居なくて思い付いたのが、まどかだったんだって…』
少し苦しい言い訳にも思えたが、まどかの表情は一変した。
「そっか…そうだったんだ。」
納得した…?
『うん、で、旅行で居ないって言ったら、帰ったよ。』
「そっか…あの子彼氏出来たんだ…。ごめん…疑って…。」
『いや、いいよ。僕は大丈夫。』
凄く心が痛んだ。
謝らないといけないのは僕なんだ。
僕は迷った。
このまま嘘を通すのか、本当の気持ちを伝えるのか…。
『まどか…』
「うん?あっ晩御飯食べた?」
『いや…まだだけど…』
「じゃなんか作るね」
『うん、ありがとう…』
言いそびれた…。
いや、ただ単純に僕に勇気がなかっただけだ。
正直言って、まどかを失うことが嫌でもある。
気持ちは歩にある。
まどかへの気持ちもある。
どちらも好きじゃ理由にならないのは、わかってるけれど決断に欠けてしまう。
いつ連絡が来るかもわからない相手を待つには辛い。
結局僕はその辛さを、まどかで埋めようとしているだけだ。
僕は台所に立つまどかを後ろから抱きしめた。
まどかはそのまま『なに?』と手話で問いかけてきた。
僕はまどかの後ろから『別れてくれないか?』と、言った。
伝えた時のまどかの顔を見たくなかった。
まどかは無言のまま立ちすくむ。
僕はまどかの肩を持って自分の方に向き直した。
下を向いてるまどかの顔を覗き込んだ。
大粒の涙をボロボロと流していた。
唇を思いっきり噛んで、声を殺して泣いていた。
『ごめん…でも嘘付けなくて…』
「ついたじゃん!!あの子が来たのは相談だって今さっき言ったじゃない!!」
えっ……。頭が考えることを止めた。
「見てたの!全部…手を繋いで歩いてたとこから、ここに来るとこも、家の前で話してるとこも…」
まどかは一旦言葉を切って深呼吸すると言った。
「キスしてたのも全部見てた!」
『えっ…でも…』
「そうだよ、私も嘘付いた…。郁が付いた嘘に合わせた…その方がいいと思ったんだもん。そばにいれるなら嘘でもいいと思ったんだもん。なのになんで言っちゃうかな…聞きたくなかったんだけどな…。」
『ごめん…まどか…本当にごめん。』
「謝るなら最初からしないでよ!郁はずっとあの子が好きだったんでしょ!?」
『ちが…違う!僕は本当にまどかが好きだったよ!』
まどかがフッと笑った。
「結果あの子を選んだ時点でもうどうだっていいよ。」
まどかは鞄を手にすると出て行こうとした。
咄嗟に引き止めた。
『待って!こんな別れ方よくない。』
「別れ方に良いも悪いもないよ!郁は私じゃなくて、あの子を選んだ。それだけだよ!」
そう言ったまどかの顔は初めて見るまどかで僕は掴んだ手を緩めた。
まどかは僕の力が緩くなったのがわかると、家を出て行った。
音は聞こえないがドアが振動で勢いよく閉められたのがよくわかった。
僕はまどかを失った。
恋人としても、友達としても…良き理解者としてもだ。
玄関で僕は崩れ堕ちた。
涙が溢れた。
自分が選んだ事なのに、自分の勝手で傷付けたのに、したことに情けなさと申し訳なさで泣けてきた。
どれくらいそこでいたのかわからない。
我に返り時計を見た。
11時56分…3時間もボーッとしてたのかと思った。
携帯を手に取った。
まどかからの連絡はない。
自分でも何を期待してたんだろうと思った。
まどかなら許してくれるんじゃないかと…。
僕はまどかに甘えすぎていたんだ。
僕からの連絡はしないと言っていたけれど、歩に連絡しようと思った。
ふと気づく…考えてみたら僕たちは電話で繋がる事が出来ない。
僕はメールのみで、彼女は通話のみ。
僕たちはバカだと思った。
舞い上がってそんな根本的なことを見逃していたんだ。
でも、歩の存在を感じたかった。
電話をかけた。
耳に携帯を当てた。
何も聞こえない。
わかっていたことだけど、何故か落胆してしまう。
今コール音が鳴っているのかわからないけれど、ディスプレイに発信中と表示されている。
この表示が呼び出しているのかどうかがわからない。
僕はなにやってるんだろうと思って携帯を切った。
それから一度だけ、わかってても電話をしてしまった。
けれど、あの日と同じで発信中の文字のまま変わらないディスプレイに僕はすぐに電話を切った。
けれど歩からの連絡は全くなかった。

あの日からまどかに会うことがなくなった。
まどかはバイトを辞めた。
僕の居ない間に荷物を取りに来て夏が終わる頃には、まどかが居た形跡はなくなった。
バイトから帰ってきて最後のまどかの香水がなくなったのがわかった時僕はこれで終わったんだと思った。
あの日終わったのだけど、どこかでまどかは許してくれて僕のところに戻ってきてくれるんじゃないかと思ってた。
こんな僕のところに戻って来る程甘くはない。
あれから何度かあの男と一緒に歩く、歩を見かけたけれど声はかけなかった。
ただただ僕は連絡を待った。
歩が連絡をすると言った言葉をひたすら待っていた。
8月の終わりに大学に行くと、まどかの姿はなく。
仲間から休学届けを出したことを知らされた。
僕のせいだと思った。
あの日から何度もメールをしてるが返事はない。
休学したことを知ってメールをした。
《休学したこと知ったよ。僕のせいだね。ごめん。》
僕は許して欲しかった。
その夜メールの返事が届いた。
《郁のせいじゃない。私が決めたことだから。》
すぐさま返事を返した。
《返信ありがとう。元気にしてる?》
《うん。元気…心配してくれなくていい。だからもうメールしてこないで。》
《話がしたいんだ。時間くれないか?》
《ごめんなさい。会いたくない。郁は許されたいだけでしょ!?そんな勝手なことで時間は作れない。》
まどかの言うことは、もっともだった。
《ごめん…まどかの言う通りだよ。でも、まどかに会いたい。》
そのメールを最後に、まどかからの返信はなくなった。
その日歩から久しぶりに連絡がきた。
《明日始業式の後に会いたい》と。
時間と待ち合わせ場所が書いてあって返事はいらない。30分経っても来ない場合帰りますと書いてあった。
凄く嬉しかった。
やっと歩に会えるのかと思った。
久しぶりに会った歩は一カ月ほど前の彼女とは別人のように思えた。
会わなかった間に何があったんだろうと思った。
考えると嫉妬で押し潰されそうになる。
歩はわかりやすいぐらいに女の子から女性に変わっていた。
理由は一つしかないだろう…。
その日僕は歩をこの腕に抱きたいと思った。
同じ歩に好かれてる人間なら僕だってそうしたい。
けれど、歩は僕の気持ちを拒否してカフェでお茶しただけで夕方には帰ってしまった。
一人で虚しさに包まれながら家に帰った。
暫くして来客を知らせるランプが回転した。
もしかしたら考え直した歩が来たのかもしれないと思った。
玄関のドアを開けた。
歩の背丈に合わせてた目線は大きく外し、目線を上げると、スーツ姿の男の知ってる顔がそこにあった。
歩の彼氏だ。
なんでここに?
この人がいるんだ?
『貴方が八雲 郁さんですよね?』
歩の彼氏は慣れたように手話で話し掛けてきた。
僕は呆気に取られ首を縦に振った。