約1時間かけて館内を巡り、再び出入口へと戻ってきた飯村は満足げに笑った。
「いやあ、こうやって時間かけて見てみるとなかなか面白いもんだねえ、美術館ってのも」
「…そうですね」
しかしそれに相対し、妙に疲れていたのは紗江だった。
どうもあの至近距離で囁かれた時から、片方の耳だけが強張っているような、変な違和感がずっと残っているのだ。
「何か呪いでもかけてないですよね?」
「え?」
「何でもないです…」
お昼近くなっていた美術館の周りは、ぐっと人混み度が増していた。
その中をぺたぺたと優雅にサンダルで歩く飯村が頭を掻きながら言う。
「昼飯はどうするつもり?決めてるの?」
こっそり耳を擦っていた紗江は、慌てて顔を上げた。
「え?あー……特に決めてませんでした」
「そう。じゃあおじさんがリクエストしてもいい?」
「いいですよ。ラーメンか何かですか」
「んふふ。せっかくの『初デート』なのにそんな味気ないもの食べないよ~」
横を歩く紗江を見下ろしながら、飯村がニヤニヤと頬を緩めた。
「デートじゃないです、検証です。じゃあ何が食べたいんですか?」
「パンケーキ!」
思いもよらないファンシーな答えに、紗江は思わず口端をぎこちなく上げた。
「気持ち悪っ」
「何でそんな反応するのよ」
「だってあなたくらいの年齢の男性が、パンケーキをわざわざ食べたいって…」
彼女は露骨に表情を歪めた。しかし飯村はその冷たい視線にめげない。
「チッチッチ。偏見は良くないよお嬢さん。
この前テレビで見たんだよ。すーっごい大量のクリーム乗せた奴。
若い女の子はそれをお昼代わりとかにするんでしょ?」
「あなたも、それはそれで偏見になってますよ」
「いいじゃない。女の子と一緒にでもじゃないと、男一人は行きづらいし」
美術館に入る前。
あんなに「見知らぬ男」として警戒していた彼は、「パンケーキ」の語呂を挟んだ事により一気に紗江の無駄な警戒心を取り払った。
もちろん紗江本人は気付いていないし、警戒心が猜疑心に変わったとでも言うべきだろうか。
紗江はため息混じりに、自らのスマートフォンを取り出した。
「分かりました、じゃあどこかお店探します」
「悪いねぇ」
さて、今から原宿に行くとして。
やはりお昼時だろうから、表参道に近いお店は避けた方がいいかな。きっとすっごく混んでるし。
そんなことを考えながら、スルスルと画面へ指を走らせる。
横に飯村の気配を感じながら。
「行きたいお店とかありますか?」
「いや、特に無いよ」
「じゃあ適当に……」
グルメサイトには、やはり昨今のブームもあって数多くのパンケーキ店が名を連ねていた。
駅から歩いて行ける距離で…
今日が定休日じゃなくて…
繁華街からそこそこ離れていて…
「あ、ここならど…」
「薫?薫じゃないか」
咄嗟に二人に被ってきた声は、低い男の声だった。
顔を上げた紗江と飯村の前に、灰色のスーツを着込んだ男性が一人立っている。