しかし中に入ってしまうと、彼女の妙な緊張感は一気にほぐされた。

館内にそこそこ人がいたというのもあるが、色鮮やかな絵画が視界いっぱいに広がる情景は、彼女に「見知らぬ男とのデート」ということを一気に忘れさせた。


「すごい!見て下さい!この絵!」

静かな美術館内で許される限りの声量を彼に伝え、広いフロアをあちこち歩き回る。
紗江の言いかけた言葉に気付いた飯村が、ひそかに眉をあげた。


「お嬢さんは絵が好きなのかい?」

「はい。そんなに詳しい方ではないですが」

「ふうん、そうなの」

飯村はあっさりといなし、けれどどこか口元を緩めたままで正面の絵へ視線を戻す。


「…あの」

「うん?なに」

「お嬢さん、っていうのは止めてくれませんか。その…周りの人が気にします」


しばらく、サワサワとした静かな話し声が沈黙を埋めていく。
しかし紗江の気恥ずかしい気持ちは、どうも年増の男には通用しなかったらしい。


「ふうん、そんなもんかねえ」

「私もそうお嬢さんっていう年でもないです」


言葉の意味を理解した彼は最もそれらしく考えたフリをし、ふと、一歩紗江に足を踏み出した。

ぐ、と体を近づけられて
紗江が後ろにあとずさりする間もなく、彼は彼女の耳元へ唇を寄せる。



「紗江ちゃん、…これでいい?」


耳を掠めた端正な発音ではなく
ただ、髪と髪が触れるほどに近づいた瞬間の柔らかい低音の声や、苦いたばこの残り香が彼女の五感を満たした。
咄嗟に紗江が彼を思い切り押し返す。


「近い!近づかないで下さい!」

「だぁって、美術館では大声禁止でしょーよ」

「う……」


僅かに困惑し始めた紗江を、飯村は実に楽しそうに眺めている。
それは新しいおもちゃを手に入れた子供の笑みに近い。

紗江は思わず、彼の気配を感じた自分の耳を思い切り擦った。




「ほら、次のフロアーに行くよ紗江ちゃん」

「………やっぱり名前で呼ばないでください」

「えー?何で」

「そこまで親しい仲じゃないです」


嘘だ。


「なかなか君も気難しい子だねえ」

「…それはどうも」


紗江はわざと唇を突き出して不快な表情を彼へ見せたが、
本当は飯村の穏やかな声で何度も自分の名を呼ばれることに耐えられないと気付いたからだった。