「何か僕に質問かな?それとも抗議?



しかしいざ飯村に振り返られても、思う言葉はすぐさま口から出てくれなかった。

飯村は逃げるでも問い詰めるでもなく、ただ無言で紗江からの沈黙を受けつつ、胸ポケットからタバコの箱を取り出す。

グレーの箱から一本、大分細いものを取り出し、同じく取り出したライターで先端を焼いた。


ああ、そういえば喫茶店は全日禁煙だったな、と彼女はぼんやり思い出す。

年甲斐のある飯村がタバコをふかす仕草は、流れるようで単純に美しかった。


「あの、よく分からないんです。何でほとんど初対面の私なんかにそういう取材のようなものを……」


ふう、と紫煙が空へ浮かぶ。

タバコを咥えたまま、飯村が言う。


「じゃあ、僕がお嬢さんに一目惚れしたとでも言えばいいかな?」


甘い言葉。…響きだけは。

だが飯村の口調は「君が満足するならいくらでも言ってあげるよ、仕方ないな」とでも言いたそうな、そんな義務感が含まれている気がしてならない。

内心ムッとしながら、紗江が言う。



「そこまでロマンチストではないので結構です」

「はは、それは失礼。
まあでも、こんなことわざわざ嫌っているような人間には頼まないでしょ?」

「……そう、でしょうけど」


「端的に言えば、おじさん、君の事が気に入っちゃったんだよね。ははは」



気に入った?

特別、美人でもない自分を?

話したことがほとんどないのに?


…夢見がちな学生でもあるまい。

紗江は自嘲的に笑いそうになるのを堪え、端的に呟いた。



「嘘ですよね、それ」


飯村が視線を上げる。

僅かに真剣さを帯びた目は、やはり少し色素が薄く、闇夜に混ざるようだった。



「お嬢さんは嘘だって思うの?
じゃあ嘘かもしれないね」

「どっちなんですか」


飯村がニヤリと笑う。イタズラじみた笑みだ。


「世の中には深く知らない方が良い事もある、ってことだよ。
それは社会の真理も、人間の心理も然りね。

質問は以上かな?
それとも、お嬢さんの疑念を解決すべく、酒でも飲んで交流を深めましょうか?」

「いえ、……結構です」

「そう。なら約束の日に。じゃあまたね」



煙の帯を体に纏いながら、飯村は後ろ手でヒラヒラと手を振り、街の中へ消えていった。

自称小説家の男は、少しも彼女の疑念を解決しないまま立ち去り紗江の鼻腔には、かなり苦めのニコチンの臭いが残っているのみだった。