「もう具合は大丈夫か?」
「あ、はい……」
「ここは日が当たりすぎるから、とりあえずあの木の陰に……」
その人が指差したほうには、鮮やかな緑の葉が生い茂る樹が立っていた。
その下には濃い影が落ちている。
涼しそう………。
あたしはふらりと身を起こした。
でも、その瞬間。
「………あ、」
足に全く力が入らなくて、ぐらりと揺らいでしまったあたしの身体を、
「おっと」
その人は機敏な動作で抱きとめた。
「………す、すいませ……」
「いや、ごめん。気がきかなかった。
そうだよな、さっきまで倒れかけていたのに、急に立てるわけがないよな」
その言葉が聞こえた次の瞬間、あたしの身体は軽々と抱きかかえられていた。
こ、これは、
噂に聞く『お姫さまだっこ』………!!
あたしは気分の悪さも忘れて、焦りで顔が赤らむのを自覚した。
でも、そんなあたしの動揺を完全に無視して、その人はすたすたと歩き出した。
抱かれた身体が上下に大きく揺れて、ぐらぐらする。
「危ないから、つかまっていなさい」
と耳許で囁かれて、あたしは何も考えられず、言われるがまま、その人の首に両腕でしがみついた。
樹の根元にそっと降ろされて、あたしは「ありがとうございました」と小さく頭を下げた。
その動作で、また頭がくらくらする。
貧血を起こしたときのように、視界の隅に星が散っていた。
「………少し落ち着いたら、涼しい所に連れて行ってあげよう。
君、どこの学校の子だい?」
そう言ってその人はあたしの服装を確認するように視線を走らせた。
その途端、驚いたように目を瞠る。
「……….き、君、なんだ、その格好は?
足が丸見えじゃないか……。
モンペはどうした、盗まれでもしたか?」
---モンペ?
って、なんだっけ?
なんか聞いたことがあるような、ないような………。
「………いや、言いたくないならいいんだが。
えーと、そうだ、まだ名乗っていなかったな。
俺は、佐久間彰という者だ」
あたしはぼんやりと、「さくま、あきら」と繰り返す。
その人---佐久間さんは、こくりと頷いて小さく笑った。
「よかったら、君の名も教えてもらえないか?」
「あ………加納百合、です」
「ゆり、か。きれいな名前だな」
佐久間さんは、にっこりと笑った。
あんまり屈託がないので、笑顔が得意ではないあたしも、つられたように笑ってしまった。
「だいぶ良くなったか?」
「はい、楽になりました」
「そうか。じゃあ、少し移動しようか」
佐久間さんはそう言って、地面に座り込んでいるあたしにすっと手を差し伸べる。
すごく自然な仕草だったので、あたしも自然と佐久間さんの手をとることができた。
「ゆっくり歩くから、のんびりついておいで」
あたしはセーラー服のスカートを風になびかせながら、明るい陽射しのもとで、命の恩人の大きな背中を追いかけた。
第一章 初夏
第2節 百合の咲く丘
*
「ツルさん、こんにちは」
佐久間さんはあたしを連れて、『鶴屋食堂』という小さな看板の出ている古民家みたいな建物に入った。
戸口ののれんをくぐって佐久間さんが中に声をかけると、50歳くらいのおばさんが奥から出てくる。
うわ、この人もコスプレ……?
着物の上に白い割烹着。
古いドラマに出てくるお母さんの格好。
店の中もなんかすごく質素っていうか、古びているっていうか………。
呆然として観察していると、佐久間さんがあたしの背中を押した。
「この子、百合っていうんですが、そこで暑さにやられて倒れていたんです。
少し休ませてあげてもらえないですか?」
「あら、大丈夫かい?」
ツルさんと呼ばれた割烹着のおばさんは、慌てた様子であたしに駆け寄ってきた。
「この暑さだもんねぇ、まったく参っちゃうよねぇ」
そう言いながらあたしを座敷に座らせ、湯呑みに入った水を出してくれた。
………う、ぬるい………。
なんで氷入れてくれないんだろ………。
でも、助けてもらった立場で文句なんて言えないし。
あたしは黙って生温い水を飲んだ。
それにしても、食堂だというのに、暑い。
直射日光じゃない分、外よりはマシだけど、むっとした熱気が籠っている。
クーラーないの?
そう思って首を巡らせると、天井にも壁にもエアコンは付いていなかった。
うそ、今時エアコンないとか………信じられない。
せめて、扇風機………。
視線を走らせると、あたしが腰かけている座敷の端っこに一台の扇風機を見つけた。
ずいぶん年季の入った、古くさい形。
なぜか羽根は………金属?
それに、埃をかぶっているような。
「あぁ、扇風機?」
ツルさんがあたしの視線に気づいたのか、眉を上げて声をかけてきた。
「ごめんねぇ、暑いよね。
でも、あの扇風機、ずいぶん前に壊れちゃってね。
いまは使えないんだよ、ごめんねぇ」
「あ、いえ、そんな」
「これで我慢してちょうだい」
あたしが顔の前で手を振っていると、ツルさんはやけにレトロなうちわを持ってきてくれた。
「俺が扇いでやろう」
佐久間さんがツルさんからうちわを受け取り、ぱたぱたとあおいでくれる。
「あ……ありがとうございます……」
ふんわりと柔らかい風が、火照った頬や首を冷ましてくれた。
「まったくねぇ、家庭用の扇風機が作られなくなって、もう何年だっけねぇ」
ツルさんが何気なくそう言った。
あたしはツルさんからもらったおしぼりで顔を拭きながら、ふと変に思う。
家庭用の扇風機って無くなったの?
いつの間に?
そういえば、うちにも10年以上前の扇風機があるけど、最近はエアコンばっかりで、全然使ってないな。
つまり、エアコンが普及して、扇風機が売れないから、製造中止になったとか?
怪訝に思っていると、佐久間さんがツルさんの言葉に頷いている。
「たしか、もう三、四年になるでしょう」
「そんなになるかねぇ。うちの扇風機、おととし壊れたもんだから、新しいのはもう手に入らなかったんだよ。
お客さんに暑い思いさせるのは忍びないんだけどねぇ」
「今は何事も軍需生産優先ですからね、仕方ありません」
………グンジュ、セイサン?
耳慣れない言葉を吐いた佐久間さんに、ちらりと視線を送る。
佐久間さんはにっこりと笑い、あたしとツルさんを交互に見た。
「なに、しばらくしたら、この戦争も終わりますよ」
安心させるような口調。
でも、その内容が、頭に入ってこない。
………センソウ?
戦争、って言ったの? 今。
え? いま日本って、戦争してるの?
いや、そんなはずは………
でも、あたし、新聞も読まないし、テレビニュースもほとんど見ないし、母親とも最近はまともに話さないし、学校で世間話する友達もいないし。
もしも戦争とかが始まっていても、もしかしたら知る機会がないかも………。
そんなことを思いながら、呆然と話を聞いていると。
「俺たちが必ずや敵国に痛手を負わせて、戦争を終わらせてみせます。
俺は、出撃したら、絶対に敵軍の中枢に突撃します。
そのために特攻隊に入隊したんですから」
敵軍………突撃………特攻隊?
なんだろう、その言葉の連続。
教科書の中の世界みたい………。
決意に満ちた表情で語る佐久間さんから、ツルさんへと視線をうつす。
「佐久間さんなら、必ずやり遂げるだろうねぇ」
ツルさんは、どこか悲しそうに目を伏せた。
「もちろんです。
天皇陛下の御為に、大日本帝国のために、国民のために、俺は絶対に敵艦を撃沈してみせます。
そのために、誰よりも訓練に邁進して、操縦の腕を磨いてきたんです。
まだ新人兵ですが、操縦の技術は上級兵にも及ばないと自負しています」
佐久間さんはきらきらと希望に輝く瞳で、熱を帯びた口調で語った。
…………なに?
さっきから何いってんの?
特攻、って、聞いたことくらいはある。
爆弾と片道分の燃料だけを積んで、『決して戻っては来ない』前提で、出撃するとか………。
それって、つまり、自爆テロだよね。
それを、こんなに誇らしげに語るなんて。
意味わかんない。
………っていうか、ここ、どこ?
なんなの、ここ。
あたしが知ってる場所じゃないみたい。
そのとき、ふと、横のテーブルに載っている新聞が目に入った。
見慣れない難しい漢字が並んだ、不思議な紙面。
思わず手を伸ばして、日付を確認する。
『昭和二十年 六月 十日』
…………え?
どういうこと?
昭和二十年って………1945年?
昭和20年。
1945年。
その数字は、たぶん日本人なら誰もが引っかかるもの。
ーーー終戦の年だ。
日本が連合国軍に降伏して、天皇が敗北を告げるラジオ放送をして、長い間国民を苦しめていた太平洋戦争、第二次世界大戦が終わった年。
………ってことは。
え………?
ちょっと待って。
わけ分かんない。
いま、ここは、1945年なの?
どういうこと?
………もしかしてあたし、いま、1945年の世界にいるの?
あたしが生きていた時代の遥か昔、70年前の世界に?
そんなところに来ちゃったの?
もしかして………SF映画とかでよくある、タイムスリップ、ってやつ?