ゆっくり息を吸い込むと、私は鍵盤に耳を近づけながら演奏を始めた。
1つ1つの音を確認するように、優しく、だけど力強く鍵盤を圧す。
その音はとてもはっきりと聴こえてくるけれど、私はわざと聴こえないように、頭の中だけでメロディを奏でた。
それは耳が段々と聴こえなくなっていく、ベートーヴェンの不安な心を表したかのような不思議な感覚だった。
自分自身の感情を上手く表現する事はとても難しい事だけれど、その人の感情を想像する事は、何故かとても容易く頭に浮かんでは消えていく。
それは不思議な感覚だった。
自分では全く気持ちを表現出来ないのに、私はベートーヴェンの思いを想像し、頭の中だけで演奏する。
記憶の中だけにあるピアノの音を思い出し、演奏を続けた。
もう、ピアノからは音は聴こえない気がした。
だけれど頭にはしっかりと、ピアノの奏でる綺麗な音色がいつもよりも更に深みを増して聞こえてくる。