家に帰る迄の間、私は先程のママとの会話を思い出していたがやはり自分の何処が間違っているのか、そして女性を理解していない、信頼していないと言われた事に納得が出来なかった。
ただこのままだと和美と結婚はおろか別れてしまう事になると感じた私はそれだけはどうしても避けたいと今迄忙しかった自分を反省し、平日でも和美が会いたいと言えば何とか時間を作ろうと心に決めた。
勿論これからは自分の仕事の話をするよりも和美の話を聞くようにしようとも心に誓った。
しかしそうは思ってもいざ仕事になると中々平日に会う事は難しかった、しかしそれでも電話やメールで連絡だけは今迄以上にするよう心掛けた。
するとその自分の誠意を感じてくれたのか、二人の関係は徐々に以前のような関係に戻りつつあった。
そしてそれから二カ月が過ぎたある日とんでもない事が起きた。いつものように会社で仕事をしていた部長が突然倒れ、救急車で病院に運ばれるという事態になってしまった。
病名は脳出血、病院に運ばれた時には命は取り留めたものの既に意識は無く、回復は難しいとの医者の判断であった。
私を始め会社の誰もがその事実に驚き、そして改めて健康の大切さに付いて考えされられた、しかし部長は回復する事なくそのまま寝たきり状態となってしまった。
私も何回か見舞いに行ったが、勿論部長は私の呼び掛けに反応する筈も無く、今迄削っていた睡眠時間を取り戻すかのように昏々と眠り続けていた。
寝ている部長の傍にはいつも奥さんが付き添っていて気丈にも涙を見せる事無く看病を続けていたが、私はその姿を見る度にその心中を考え何とも言えない気持ちになった。
そしてこのまま回復しないで半年経った場合、会社で定める長期傷病期間が過ぎて部長は病気退職扱いとなってしまう。仕事中に倒れたので労災認定がされるかと思ったが、病気が倒れた理由とあって労災は認められないらしかった。
部長の奥さんは結婚してから一度も働いた事が無いという部長の言葉通り如何にも普通の主婦といった女性であった。私はこの先奥さんが寝たきりの部長を抱えどうやって生活をしていくのか他人事ながら心配になった。
部長が倒れてから会社では夜遅く迄残業する事に対して厳しくなった、勿論仕事が直接の原因では無かったもののそれでも健康や体調管理には気を付けるよう会社から指示も出た。
今迄仕事を最優先していた私は会社のその指示に自分の全てを否定されたような気持ちになってしまった。
そして仕方が無いとはいえ部長の後任には今迄代理だった者が昇格し、会社は一人欠けてもそれなりに機能し始めていた、それも私にとっては哀しかった。
私は個人的に随分と可愛がって貰った事もあり、また尊敬していた部長が気になり休みの日に時間を見付けては病院を訪ねていた。
「いつもすいませんねえ」
何回も見舞いに行っていたので奥さんもすっかり私の事を覚えてくれた、最初の頃はそれこそ色々な人間が入れ替わり立ち替わり見舞いに来ていたので奥さんも名前と顔が一致しないようであったが、その頃には流石に見舞客も減っていた。
「具合どうですか?」
眠っている部長は少し痩せて、そして以前よりも少し老けたように見えた。
「相変わらずなのよ、先生の話じゃもう意識は戻らないだろうって」
「そうですか・・」
奇跡を願っていた私であったがどうやらそれは叶いそうもないようであった。
「でも可笑しな話、結婚して以来こんなに一緒に居るのって初めてなのよ、ふふふ」
私は奥さんが何を言いたいのか判らなかった。
「この人何時の間にかこんなに歳を取ってたのね、全然気付かなかったわ」
部長夫妻には子供が無く奥さんと二人きりの生活だった。そんな部長は定年迄は一生懸命働き、定年したら旅行や何か趣味を始め奥さんに孝行するのだと常々言っていた。
「あの・・これからどうなさるおつもりなんですか?」
「どうって?」
「いえ、このままずっと病院に居るのかなと」
本当はこれからの生活をどうするのかという意味だったが流石にストレートには聞けなかった。
「そうね、病院に居ても家に居てもあまりやる事は変わらないそうだから近々退院させて家で看護するつもりなの、私が」
「そうですか、それはそれでこれからも大変ですね」
「まあ、でも今迄私の為に一生懸命大して休みもせずに働いてくれたから。今度は私がその分この人の為に頑張らないとね、一生掛けて。勿論私は治ると思っているし、治すつもりだけど」
その言葉を聞いた時、私の中でどうしても聞いてみたい疑問が生じた。
「あの・・」
それでも大変失礼だと思った私は一瞬その疑問を飲み込もうとした。
「何かしら?」
「いえ、いや・・」
私は聞いて良いものか踏切りが付かなかった。
「どうしたの?」
「あの、大変失礼な事を聞いても良いでしょうか?」
それでも私は意を決して聞いてみる事にした。
「何かしら?」
「あの、部長が突然こんな事になって奥様は今どういったお気持ちですか?いえ、勿論悲しいとか、辛いのは判ってますけど、その何ていうか・・」
考えれば考える程どう聞いて良いか判らなかった。
「あなたが何を聞きたいのか良く判らないわ。もっと判り易く教えてちょうだい、何回か会ってあなたの人柄も判ったつもりだから何を聞かれても怒ったりしないわよ」
奥さんはそう優しく言ってくれた。
「じ、実は今迄私は部長の事を大変尊敬していました、いえ勿論今でも尊敬しています。部長の人柄は勿論、その仕事に対する厳しさやその仕事に対する真摯な姿勢、私はそんな部長のようになりたいとずっとその背中を追い掛けてきました」
「そうなの?有難う、聞こえていたらきっと顔を赤くして照れるわ、この人、ふふ」
奥さんはそう言うと寝ている部長の髪を優しく撫でた。
「しかし今回こんな事になってしまって私はその考え方に自信が持てなくなったのです。部長は私に良く言っていました、俺は女房を働かせない事が唯一の自慢なのだと、だから俺が一生懸命働くのだと。だから私もそう思ってました」
「それで?」
「でも今回不幸にもこんな事になってしまいました、私は部長が一生懸命働いていたのは奥さんを幸せにする為だったと思います、でもこんな事になってその・・・」
「もしかして私が今の状況でこの人に愛想を尽かして見捨てるとでも言いたいのかしら?ううん、現実問題そんな事は出来ないけど心の中ではそう思っているのじゃないかと・・」
奥さんは少し怒ったような表情を浮かべた、その瞬間私はやはりこんな事を聞くべきでは無かったと後悔した。
「ふふふ、ごめんなさい、ちょっと怒った振りをしちゃって。だってあなたがとても面白い事を言うものだから、つい。あ~可笑しい」
「可笑しいですか?」
「ええ、とっても。じゃあ逆に聞くけどあなたに今奥さんが居たとして、その奥さんがこんな状況になったらあなたはどう思うのかしら?」
「そ、それは・・それは男の責任として一生面倒を看なければと思います」
「男の責任?それって一体どういう事なの?何をして責任を取るというのかしら」
「それはやはり一生懸命働くしかないと思います、それしか思い付きません」
「それがあなたの言う男の責任って訳ね、なるほど。貴方今もしかして結婚を考えている女性が居るんでしょ?だからこんな事を私に聞いているのね、そうなんでしょ?」
私は図星を突かれてしまった、実はその通りであった。私は一生を賭けて和美を幸せにしようと考えていた。それは経済的な事は勿論肉体的にも精神的にも和美を支えてあげたいと思っていた、そして男とはそうあるべきだと強く思っていた。